第20話:香の陰、血の兆し
雨が降り続いていた。
後宮の屋根瓦を濡らし、滴は薄紅の石畳を静かに打つ。
薬館の格子窓の向こうでは、沈んだ空に溶け込むように、香の煙が細く伸びていた。
梨花は黙って、その香を嗅いでいた。
(……やはり、これは“鳳凰香”。)
鳳凰香は、香道でも特に高貴とされる香材だ。
甘く、清く、どこか芯のある香り。
だがその中に、微かに混じる違和感。
(香に、わずかに“五倍子”の匂いが……)
五倍子は染料や墨に用いられるが、ある調合では微量の毒にもなる。
特に、妊婦にとっては危険だった。
(なぜ、これを混ぜる必要があるの?)
「――水妃様の懐妊の件、やはり表にはできないそうです」
翠蘭の報告に、梨花は小さくため息をついた。
水妃は、自らの懐妊を隠している。いや、隠さなければならなかった。
この後宮で妃腹の子を持つということは、王の寵愛だけでなく、命をも意味するのだから。
「水妃様の周囲には、誰か“毒を混ぜる者”がいる可能性が高い。香に、五倍子が混じっていたわ」
「……香で?」
翠蘭が青ざめる。梨花は静かに頷いた。
「鳳凰香は元々高貴な香。異変に気づく者はほとんどいない。だが、五倍子は子宮を収縮させる可能性がある」
「つまり……」
「“流産させるため”の香よ」
その日、梨花はあえて水妃の香を調合する“香女”に話を聞きに行った。
香女――それは、香を調える専門職であり、各妃の側で香炉の管理を任される重要な役目。
香房の奥、控えの間で待っていたのは、二十代半ばの整った顔立ちの女だった。
「……私が、香を調合しております。ですが……そんな混入、ありえません」
女の名は、美夜。
声には迷いがなかったが、どこか防御的な硬さがあった。
「五倍子が混ざっていたのは確かよ。あなたが混ぜたとは言わない。でも、香材の保管は?」
「……保管は鍵付きの棚に。私しか持っていません」
「なら、あなたが“持っている間に何者かが鍵をすり替えた”可能性は?」
その瞬間、美夜の表情がわずかに揺れた。
(……何かを隠している)
梨花は、あえて追及をやめた。
「もし、心当たりがあったら、夜の香炉の灰をこっそり持ってきて。焼いた香の灰には“構成された香材”の痕跡が残るから」
美夜は一瞬戸惑い、やがて小さく頷いた。
その夜――
薬館に、美夜が灰の包みを持ってきた。
小さな紙包みには、しっかりと夜香の灰が詰められていた。
梨花は香材鑑定の道具を使い、灰の粒を一つ一つ丁寧に崩していく。
(……ある。やっぱり、“五倍子”だけじゃない)
さらに見つけたのは、**“桂皮”**と呼ばれる香材だった。
桂皮――身体を温め、血の巡りを促す。妊娠初期には避けるべき香の一つ。
(流産を促す構成が“意図的”に作られている……これは、偶然なんかじゃない)
だが、それは美夜一人では不可能だ。
「鍵をすり替えた者がいるなら、その者は、香材の知識もある……」
思い至ったとき、梨花はふとある人物の顔を思い浮かべた。
(――“香妃”の侍女長・蘇芳)
香妃の香りは宮中でも有名で、香の調香にも深く関与していた。
だが近頃、香妃が病を訴える一方で、侍女長の蘇芳だけは異様に元気だという噂がある。
(“誰が病み、誰が生き残るか”。香を使って選別している?)
その瞬間、鳥肌が立った。
香という仮面を被った、目に見えぬ毒。
それが、後宮を覆い尽くそうとしている。
「……あたし、やっぱり香って嫌いだな」
そうつぶやいたのは翠蘭だった。
「いい匂いに隠れて、こんな恐ろしいことができるなんて。香炉一つで、命が動くなんて」
「だからこそ、見抜かなくちゃいけない。香に“意図”があるなら、それに気づく嗅覚を持たなきゃ」
梨花は、窓の外の雨を見つめた。
静かに香る煙の向こうには、誰かの手が伸びている。
香を操り、人を選び、命を篩にかけるように。
――だが、まだ終わらせない。
梨花は心に誓った。
(この子も、水妃様も、絶対に死なせない)
雨の音の中、薬館の香は、ひそやかに薫っていた。
書き溜めた話の掲載が終わったので、一度完結済みにして、次の話の執筆が終わり次第、再開します。




