第2話:祟りと、桃の香の死
「また……ですか?」
洗濯物の籠を抱えていた手が、思わず止まった。
報せを持ってきたのは、同じ下女の朱鈴だった。顔には化粧の痕もそのまま、明らかに焦りを隠せていない。
「今朝、紅梅の間。生まれたばかりの皇子さまが……」
三人目。
それは、後宮の誰もが口には出さないが、確かに知っている“数”だった。
乳飲み子が三人、立て続けに死んだ。しかも全員が、生後三十日を迎える前に。
(偶然……じゃない)
梨花は、心の奥でそう思った。
呪いだ。祟りだ。女たちはそうささやき合う。
「先帝の寵妃が、今も彷徨っているのだ」と。
(誰かの仕業かもしれない、って思わないのかな)
この国の都、そして後宮。
人の死因より先に、怨霊のせいにしてくれるなら、それはある意味、都合がいい。
責任は誰にも向かず、全員が怯えたまま沈黙できる。
けれど――梨花の頭には、昨日見た“あの部屋”の映像が焼きついていた。
「それで、今日もあの妃のところ?」
「……ええ、“紅梅の間”の洗濯物を回収してくれって」
梨花はまた籠を抱え、例の部屋へ向かう。
甘ったるい香が、通路の奥からすでに漂ってくる。桃花でも白木蓮でもない。
――これは「沈香混桃」。刺激の強い香りで、夜伽の際に好まれるという。
だが、妊産婦の部屋で炊かれるには、少々“おかしい”。
(体調を崩しやすい妃の寝所で、これは……)
思考がまとまりきらぬまま、扉を叩く。
「入って。……足音、立てないでね」
中にいたのは、あの時と同じ、無表情な侍女と、化粧の濃い妃だった。
部屋の空気は、昨日よりも濃密だった。
香りに混じる、かすかな血のにおい。そして――
(この匂い……“黄花”の粉末?)
黄花。薬として用いれば強い鎮痛剤。
だが、過剰に摂取すれば、胎児や乳児に悪影響を与えることが知られている。
ましてや、香と混ぜれば、肺からも体内に入る。
部屋の端、乳母の姿はなかった。
妃はただ、虚ろな目で天井を見ていた。
手元の酒杯には、桃の花びらが浮かんでいる。
「……昨日、乳が出なくて」
ぽつりと妃が言った。
「だから、香を強くしてもらったの。気持ちだけでも……癒されるかと」
(乳が出ない。強い香。過剰な沈香と黄花……)
頭の中で、何かが線になった。
「赤子は……?」
「……もう、どこかへ。私は、母として何もできなかった」
声に涙はなかった。ただ、諦めと、疲労の色があった。
部屋を出て、通路を歩く。
手にした籠の中、寝巻きに混じって香の粉が少しだけこぼれていた。
(やっぱり……これ、直接焚いてた)
香の調合ミスではない。
これは、“意図的な過剰使用”だ。
誰が? 侍女か、妃自身か? あるいは――乳母か。
呪いなんかじゃない。
この死には、明確な因子がある。
知識があれば、防げた死。
見ようとすれば、見えた死。
(だけど、それを誰も言わない)
彼女の手が、籠の縁をぎゅっと握りしめる。
後宮は、事実より体面を重んじる場所。
真実を見ようとする者は、煙たがられる。
けれど――梨花は薬師だった。
たとえ嫌われようと、危険を冒そうと、命に関わる“嘘”を放ってはおけない。
(この死は、呪いなんかじゃない)
そして彼女は、あるひとつの“仮説”にたどり着く。
──沈香と黄花の組み合わせ。
──赤子の未発達な肺。
──三十日以内の死。
それは、確かな“毒”の存在を示していた。
その夜。
梨花は、洗濯籠の中に落ちていた布切れをそっと取り出した。
妃の寝間着の襟元に、うっすらと染みついた桃色の粉。
光にかざして、指先でなぞる。
(……間違いない。沈香黄花に、“練鉛香”が混ぜられてる)
練鉛香――金属鉱粉を混ぜた、廃された媚薬香。
成人でも長時間吸えば体調を崩し、幼児なら即死もありえる。
(つまりこれは、“意図的な毒”)
その香を調合したのは誰か?
なぜ妃は気づかず、それを部屋に焚かせたのか。
すべてはまだ、霧の中。
けれど、確かな手触りがある。
「これは……祟りなんかじゃない。毒だよ」
少女のつぶやきは、夜の帳に吸い込まれた。
次に命を落とす前に、
この香と嘘の宮廷で、梨花は立ち上がる。