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第19話:火傷の子と薄紅の謎

 苑昌が去ってから、後宮は平穏を取り戻しつつあるように見えた。


 だが、梨花の胸の奥はざわめいていた。


(事件が終わったわけじゃない。……始まったばかりよ)


 香は、人の心を操る。苑昌の哲学は間違っていたが、的を射てもいた。

 それを強く意識させられたのは、数日後のことだった。



 薬館の扉が乱暴に叩かれたのは、朝の診立てが終わった直後だった。


「おい! 急患だ、急げ!」


 声を張り上げていたのは、内官の少年だった。後ろには、衣の裾を焼いた幼い女童が抱えられている。


「炊き場で鍋をひっくり返したらしくてな、熱湯で……」


「すぐ寝台へ。水で冷やして、布は切らずにそのまま」


 梨花は指示を飛ばしながら、火傷の具合を見た。


(左腕と太腿……重度Ⅱ度。深くはない。まだ手当てすれば、痕は残らない)


 やわらかな皮膚が赤く腫れ、水疱がいくつも浮いていた。

 泣きじゃくる女童に薬膏を塗り、冷やし布をあて、ようやく少女は静かになった。


「名前は?」


「……小春、です……」


 小春はまだ七つ。貧しい家から奉公に来たばかりの子だった。

 だが梨花は、ふと奇妙なことに気づいた。


(この子の火傷、鍋を“ひっくり返した”というより――)


 火傷の位置に、引っかかった。


(あくまで一方向、しかも太腿の内側にまで?)


 まるで――何かを抱えていた腕に、意図的に熱湯が浴びせられたかのように。


 背筋に、ひやりとしたものが走った。


「小春ちゃん。……倒れたとき、誰がそばにいたか、覚えてる?」


 少女は一瞬、口を噤んだ。が、ぽつりと答えた。


「……楊姉さま、が……」

 


 ヤン――水妃付きの侍女で、妃の側仕えの中でも特に権力が強い女だ。


 噂好きで、弱い者にきつくあたるという話は梨花の耳にも入っていた。


「でも、どうして小春に?」


 翠蘭がつぶやくと、梨花は首を振った。


「……きっと、小春が“何か”を見たのよ。隠されていたことを」


「見た? でも、炊き場で何が?」


「それが知りたいのよ」


 梨花は小春を寝かせた後、そっと炊き場を訪れた。

 焦げた木桶の破片、微かに残る香の匂い。


(……これは、“白檀”と“蘇合香”。でも……もう一つ、奇妙な甘い匂いがある)


 鼻を近づけて嗅ぎ分ける。


(……苧環香ちょかんこう? いや、似ているけど違う。これは、香ではない……薬?)


 ふと、梨花は匂いのもとが炊き場の隅、黒ずんだ布に残っているのを見つけた。


 手袋でそっと拾い上げると、そこには――乾ききらない赤黒い染み。


「……これは、“薄紅丹”」


 血色を良く見せるための薬品。だが、適量を超えれば血圧に異常をきたす毒でもある。


「こんなところに、なぜ?」



 水妃は、最近しきりに体調を崩していたという。


 朝の診立てでも、顔色が良すぎるほどだった――不自然なまでに。


「つまり……水妃様が、自ら飲んでいたの? それとも、誰かが盛っていた?」


 翠蘭の問いに、梨花はゆっくり首を横に振った。


「逆よ。誰かが、“飲ませていないこと”を隠そうとしたの」


 梨花は確信していた。


 水妃が「飲んでいる」と見せかけ、実際には薬を拒んでいた。

 その理由は――


「妊娠していたのね、水妃様」


 翠蘭が息を呑んだ。


 薄紅丹には、流産を誘発する可能性がある。

 妃が妊娠したとき、最も避けるべき薬。


 そして小春は、その“薬を捨てる現場”を見てしまったのだ。

 誰かが、水妃の子を殺そうとしていた――あるいは、隠そうとしていた。



 梨花は、手帳を閉じた。


(ここまでくると、もはや偶然じゃない。次に狙われるのは……)


 妃腹の子、そしてそれを“護ろうとする者”。


 苑昌の言葉が、ふと甦った。


 ――妃が子を持てば、血が政治を揺るがす。


(後継ぎ争いが、いよいよ本格化する)


 静かに湧き上がる不穏の香に、梨花はそっと目を伏せた。


 闇は、香の奥で静かに燃えていた。

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