第18話:偽りの香、真なる意図
芍薬妃毒殺未遂事件の黒幕が蘭花であると判明した後も、後宮の空気は落ち着かなかった。
その理由は、梨花自身が一番よく分かっていた。
(蘭花は確かに実行犯……けれど、彼女ひとりでは“香偽”をここまで堂々と使えない)
香偽の調合は難しい。特に、後宮内で他人に気づかれず毒性を仕込むには、高度な技術と物資の流通経路、そして“庇護”が必要だった。
つまり、背後に――もっと大きな存在がいる。
「……どうしても、宮外から香材を手に入れられていたことが腑に落ちないのよ」
独りごちる梨花のそばで、翠蘭が湯を注ぎながら眉をひそめた。
「蘭花って、確か宦官付きの女官だったわよね? もしや、内官が関わってるとか?」
その言葉に、梨花ははっとした。
(そうだ。物資の出入りに口を出せるのは、外廷の管理役――)
「……文館官の、苑昌様」
翠蘭が湯飲みを置く手を止めた。
「あの人……確かに、妙に宮中の薬草庫や香材に詳しかったっけ」
「彼が、蘭花に協力していたとすれば……調達も潜入も、納得がいく」
梨花はゆっくりと立ち上がった。視線は遠く、確信に近い疑念を宿している。
(香の仕入れに手を貸した理由は? そして、なぜ芍薬妃や蓮妃が狙われた?)
この事件にはまだ、解けていない“動機”が残っている。
苑昌は、香を愛する男だった。
それは梨花も知っていた。書庫で調べものをしていたとき、彼が香の文献を貸してくれたこともある。
――けれど、あの頃とは違う。
後宮の香材管理を任された彼の手元に、蘭花が出入りしていた記録が残っていたのだ。
「苑昌様、お時間をいただけますか?」
薬館の正式な調査という名目で、梨花は苑昌の居室を訪ねた。
「これは……珍しいお客様ですね、薬館の鑑定士殿」
苑昌はあいかわらず柔和な笑みをたたえていた。
だが、どこか芝居がかった余裕。それが逆に、梨花の警戒を強める。
「香偽――あの香の材料が、ここ数ヶ月で急激に入庫されていたこと、ご存じでしたか?」
苑昌は、ゆったりと茶を啜った後、言った。
「もちろん。後宮では様々な香が使われますから。少量であれば、毒性をもっていても管理の範囲内でしょう?」
淡々とした声。それが、逆に確信を深める。
梨花は、懐から小さな木片を取り出した。
「これは、芍薬妃様の香炉に残っていた香の一部。鑑定したところ、香偽のほかに“女馬香”が混じっていたの」
苑昌の瞳が、微かに揺れた。
女馬香――それは、女性の月のものを早めたり不安定にする効果がある香。後宮では妃の妊娠を阻害する意図で極秘に使われることがある。
「……あなたの目的は、“後継の妃を選ばせないこと”だったのね?」
その瞬間、苑昌の笑みが、わずかに崩れた。
「お見事。まさか、そこまで辿り着くとは」
ゆっくりと、苑昌は立ち上がる。
「――王が、誰の子を望もうと、我々文官が国を支えている。
妃が子を持てば、血が“政治”を揺るがす。香は、その歪みを整えるための調律だ」
冷たく淡々と語るその声に、梨花は言葉を失いそうになった。
(この人にとって、香は“抑制の道具”。毒ではなく、秩序の香――)
「それでも、命を弄ぶ理由にはならない」
ぎり、と唇を噛んだ梨花に、苑昌はふっと目を細めた。
「あなたは“香”を信じすぎている。香は真実を導くものではない。
ただ、人の心を導く“煙”にすぎないのですよ」
苑昌は後日、香材管理の不正供給により処分された。
だが、彼の行動に関しては“政治的配慮”で事件としては大きく扱われなかった。
「本当はもっと騒ぎになるかと思ったけど……お咎め軽かったわね」と翠蘭が呟く。
梨花は、香材台帳を閉じながら答えた。
「“香の道”は、深くて闇も濃い。香を嗅いで、すべてがわかると思っていた私が甘かったの」
苑昌の言葉が、耳に残る。
――香は、人の心を導く“煙”にすぎない。
ならば、自分の心はどこに導かれていくのか。
梨花はふと、昔、薬館の庭で風に香る沈香の匂いを思い出した。
あの匂いの中に――真実はあっただろうか?
(私は、もっと知りたい。香の奥にある、匂いの届かぬ“真実”を)
静かな炎のように、梨花の目が燃えていた。




