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第17話:毒の香に紛れて

 芍薬妃の部屋から運び出された香炉を、梨花は手に取っていた。


 すでに灰となって冷え切った香の残り香に、鼻を近づける。仄かに感じるのは沈香、白檀、そして……かすかに混じる異物の匂い。


「……やはり、“香偽”の香」


 その特有の苦みと、舌の奥に残るようなえぐみは、医薬に通じた者でなければ判別できない。


 だが、その痕跡が、ここに“確かに存在した”という事実が重要だった。


 傍らで女官の一人が震える声で告げた。


「芍薬妃様は……今もまだ、目を覚まされておりません」


 女官の唇は青ざめ、眉間には恐れが刻まれている。

 無理もない。これはもう、単なる偶発ではなく――明確な“犯意”のもとに行われた毒殺未遂。


 そして梨花には、確信があった。


(これは、芍薬妃を犯人に仕立て上げる“仕込み”の逆手だ)


 つまり、最初に蓮妃を狙った者は芍薬妃に罪を着せようとした。

 だが、芍薬妃までも毒に倒れた今――この事件は、まるで“誰もが容疑者であり、誰もが犠牲になりうる”かのように変貌する。


(この不自然さ、意図的な錯乱……)


 梨花は目を閉じ、香の調合と効能の記憶を辿る。香偽の香を調合できる者、それを使って罪を他者に擦り付けようとする動機を持つ者――


「……蘭花しか、いない」


 そう言葉にした瞬間、自分の胸の奥に小さな針が刺さった気がした。

 蘭花は、かつて薬館で共に学んだ仲間だった。

 冷たくも静かな瞳を持つ、几帳面な少女だった。


(あの子が、こんな手の込んだ毒を?)


 だが、可能性は否定できない。香偽の香は、薬館の者でも作れる者は限られている。


 そして、彼女は数ヶ月前――「体調不良」を理由に後宮から姿を消していた。


 その消失の理由が、ただの病ではなかったとしたら?


「会いに行こう。彼女に、直接確かめる」


 梨花は踵を返した。

 


 蘭花が静養しているといういおりは、後宮の奥、ほとんど使われていない離れの一角にあった。


 湿気を含んだ木戸を押し開けると、薬草の香りがほのかに漂う。

 中で机に向かっていた女が、ゆっくりと振り返る。


「……梨花」


 その声音は変わらず穏やかだった。

 だが、その背後の棚に、梨花は見逃さなかった。


 並べられた小瓶。そのいくつかは――王宮内で許可されていない調合薬の印が刻まれている。


 蘭花は立ち上がると、ゆっくりと近づいてきた。


「こんなところまで、来たのね。まるで、わたしが犯人だとでも言うように」


「違う。ただ、確かめたいだけ。――どうして芍薬妃を狙ったの?」


 その問いに、蘭花はわずかに目を伏せた。

 しばし沈黙が流れる。


「わたしは……蓮妃様を守りたかったの」


「……え?」


「知っていたのよ。あの人たちが、蓮妃様の食事に微量の毒を混ぜていたことを。

 でも証拠も、立場も、わたしにはなかった」


 蘭花は、ふっと笑った。その笑みに痛みが滲んでいる。


「だから、香を使ったの。“毒を仕込んでいた者”に見せかけて……注意を向けるために。

 最初は、芍薬妃だけを疑わせるはずだったの。だけど……」


 言葉を詰まらせる蘭花に、梨花は静かに歩み寄る。


「あなたが、芍薬妃様を毒にかけた理由は?」


「……それは」


 蘭花の指が、ふと懐に忍ばせた小瓶に触れる。


 ――その瞬間。


 梨花は迷いなく、その手をとった。


「……っ!」


「あなたの体温、震えてる。嘘をついているときのあなたの癖、変わってないわ」


 蘭花の瞳が、揺れた。


「最初の動機は“正義”だったのかもしれない。でも、あなたは途中で変わった。――今では、自分の作った香の“力”に酔ってる」


 その言葉に、蘭花はぐっと口を噤んだ。

 涙のような汗が、こめかみを伝っている。


「蘭花……あなた自身を、毒してはいけない」


 梨花の声は、祈るように静かだった。


 そして蘭花は、ふっと肩の力を抜いた。


「……ごめんなさい。もう、わたしにも、何が正しかったのかわからなくて」


 彼女の手の中にあった小瓶が、床に落ちる。

 からん、と乾いた音が、広い室内に響いた。



 それから数日。蘭花は拘束され、事情聴取が行われていた。


 後宮には静けさが戻り、芍薬妃も回復へと向かっている。


「ほんと、あなたって怖いくらい何でもお見通しね」と翠蘭は言った。


「そうかしら。ただ、香の匂いは嘘をつかないのよ」


 梨花はそう微笑んだ。


 その目には、まだ拭えぬ迷いと、痛みが揺れていた。


(――でも、進まなきゃ)


 香の道は、まだ遠く。

 その奥には、もっと深い闇が潜んでいる。

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