第15話:薄紅の花と嘘の記憶
朝靄の立ちこめる薬館の庭に、ぽつりと咲いた薄紅の花がひとつ。
それはこの季節には咲かぬはずの、紅梅だった。
「……不自然ですね。誰かが、意図的に植えた?」
梨花はしゃがみ込み、花弁に指を添えた。仄かな香りが立ちのぼり、どこか懐かしさを伴って胸を締めつけた。
(紅梅……あの夜の夢に出てきたのも、たしか……)
夢に現れたのは、見知らぬ女の微笑みと、薄紅の花弁が舞い落ちる情景。
ただの夢として片づけるには、あまりに生々しく、妙に記憶をくすぐった。
その時、背後で足音がした。
「梨花様。お客様です」
顔を上げると、青磁色の衣を着た細身の女官が立っていた。目元を伏せ、どこか影を落としたその顔に、梨花は見覚えがあった。
「貴女……芍薬妃付きの侍女、翠蘭さんでしたね」
翠蘭はひとつ頷き、口を開いた。
「……お話ししたいことがございます。あの日のことです。蓮妃様がお倒れになった夜のことを」
梨花は無言で頷いた。彼女の顔色は青白く、決して軽い気持ちでは来ていないことが伝わってくる。
(ようやく、蓮妃事件の核心に触れる者が現れた……)
薬館の奥、香の煙がほのかに揺れる診察室に場所を移すと、翠蘭はひとつ深く息を吸った。
「わたくし……見てしまったのです。あの夜、蓮妃様の香炉を、芍薬妃様が――いえ、誰かと入れ替えているところを」
梨花は目を細め、翠蘭の手元を観察する。緊張で震える指先。それでも、嘘をついている様子はない。
「なぜ、今になって?」
「わたくし……本当は、帝の側仕えになるはずだったのです。けれど、父が失脚し……芍薬妃様に拾われました。命を、握られたまま」
翠蘭の声は震えていた。
梨花は静かに茶を差し出した。茶の香りが、部屋の張り詰めた空気を和らげる。
(この証言が本当なら、芍薬妃の動機は確かになる。だが――)
「その入れ替えを、見たときの詳しい様子を教えてください。時間帯、灯りの有無、周囲の音……どんな些細なことでも」
梨花の問いかけに、翠蘭はぎこちなく頷いた。
語られる内容の中に、梨花はある“違和感”を見つけた。
(……香炉を持っていた手が、左手だった?)
芍薬妃は右利きだ。過去に見た文字も、道具の使い方もそうだった。
(では、あの夜、香炉を入れ替えたのは――本当に芍薬妃?)
翠蘭は語る。だがその記憶には、どこか霧がかかったような曖昧さがある。
(彼女の記憶は……本当に“見たこと”なのか? それとも、“見せられた”もの……?)
梨花は茶を口に含み、思案に沈んだ。
薄紅の花の香りが、またふわりと鼻先をかすめた。
この作品の話のストックがなくなったので、明日以降執筆が終わり次第、更新していきます。




