第14話:夜更けの沈香と、声なき少女
夜が更けた後宮は、沈香の香に包まれながらも、どこかざわついていた。
侍医・黄老の急変を受けて、梨花は一時的に芍薬妃の侍医代行として呼ばれていた。
けれど、妃の寝所に向かう足は、妙に重かった。
(あの黄老が、何かを言いかけて倒れるなんて。……わざと口封じされた可能性もある)
気づかれぬよう眉を寄せ、歩調を整える。
妃の寝所前には警護がふたり。普段はひとりしか置かれないのに、厳重すぎる配置。
戸を開けて中に入ると、芍薬妃はすでに夜着姿で床に伏していた。
化粧を落とした顔は、まるで面のように感情を見せなかったが、その目だけが鋭い。
「黄老が倒れたのは、ただの偶然です。気に病む必要はありませんわ。……そうでしょう?」
「はい。服毒ではなく、アレルギー性の急性反応。幸い一命は取りとめました」
「それは良かったこと。でも……代わりに、あなたがこの部屋に来ることになるとはね」
言外にある圧力。
けれど梨花は、静かに会釈だけ返した。
(あなたが私に言わせたいこと、そして、言わせたくないこと……いずれ見極めてみせます)
床に近づくと、芍薬妃がふと口元を緩めた。
「今宵は、香が強すぎるわね。沈香の炊きすぎかしら」
「この香は、沈香ではありません。黄熟香に、微かに蘇合香を混ぜています」
「まあ。あなた、鼻も利くのね」
(──嘘。これは“偽の香”だ。沈香に似せて調合された香は、かすかに催眠性を帯びている)
気づかぬ間に、誰かが妃の香に手を加えている。
もしくは、妃自身が“眠らされること”を望んでいるのか──。
そんな緊張の空気のなか、外からひそかな足音がした。
かすかに戸の影から、何かがすべる音が聞こえ、梨花は反射的に立ち上がった。
「おや……? 妃、今の音……誰かが扉の向こうに──」
戸を開けた瞬間、誰の姿もなかった。
ただ、足元に落ちていたのは、小さな布の包み。
薄絹に包まれたその中身を広げると、そこには──かすかに血の滲んだ櫛。
(この櫛……見覚えがある。あの日、春桃の遺体に添えられていたものと、同じだ)
だとすれば、これは──“死んだはずの春桃”からの、何かのメッセージ。
(春桃は生きている。そしてこの妃の周囲に、まだ潜んでいる)
香の気配、布の包み方、筆致……あらゆる“手がかり”が、誰かの意志を訴えている。
「妃、この櫛に見覚えは……?」
「知らないわ。ただの庶女の持ち物でしょう」
妃の口調は冷ややかだったが、指先が一瞬震えた。
それを見逃す梨花ではない。
(妃は知っている。春桃の生死だけじゃない、“櫛”の意味を……)
梨花は櫛を懐に収め、静かに頭を下げた。
「侍医の任はここまでで結構です。おやすみなさいませ」
妃の視線は冷たく追ってきたが、梨花は一歩も引かなかった。
自室に戻ると、先ほどの布包みを再度広げた。
櫛の裏には、極細の針のような筆で、ある一文字が記されていた。
「西」
(春桃がいるのは、西の棟? それとも“西の果て”──辺境?)
その瞬間、梨花の心臓が跳ねた。
黄老が倒れる直前に言いかけた言葉──「妃の命で、春桃を──」。
そして今、妃の部屋に“櫛”が現れた。
それはつまり、妃の意志ではなく、妃の部屋に潜む“もうひとつの影”が春桃を匿っている可能性。
誰かが、わざと妃の名を借りて動いている。
(“黒幕”が別にいる)
櫛の血は、春桃自身のものか、それとも……?
次第に繋がり始める線。だがまだ、それは輪郭の滲んだままの“予感”にすぎない。
梨花は決意を込めて、懐から筆を取り出した。
「書庫番だった頃の手癖、今こそ使わせてもらうわね」
誰にも気づかれず、後宮の記録を照合するため──
梨花は密かに動き出した。




