第12話:禁域の庭と白磁の盃
薄曇りの空の下、白砂が敷き詰められた“禁域の庭”には、常とは異なる静けさがあった。
薬館から呼び出された梨花は、そこに足を踏み入れた瞬間、空気の“違い”を感じた。
(乾いている……香の気配がない)
後宮のどの庭でも、香炉に絶やさず焚かれているはずの“香り”が、ここにはなかった。
むしろ意図的に、あらゆる匂いを排除しているようだった。
「来たか、梨花」
その場にいたのは、思いもよらぬ人物——帝その人だった。
目を伏せ、慎ましく膝を折る。
「……恐れ多くも、薬館の下女ごときにお声がけとは」
「名ばかりの下女であろう。——妃の香を見抜いたと聞く。正直なところ、そなたの手腕に少しばかり興味がある」
帝の声音は冷たくも柔らかくもなく、まるで“風”のようだった。
その目が、品定めするように梨花を見ているのがわかる。
「……失礼ながら、蓮妃様を取り巻く香の変化は、明らかに故意のものでございました。妃の御身を蝕むよう仕組まれたもので……」
「それに気づきながら、なぜすぐに上奏せぬ?」
その言葉に、梨花は一瞬だけ息を止めた。
だが、静かに口を開いた。
「妃の周囲に、耳が多すぎると感じました。……陛下に届く前に“揉み消される”と」
帝の目が細くなる。
「ふむ……。まるで、そなたが“後宮の病根”を知っているかのようだ」
「それほど賢くはございません。ただ、腐った薬草は匂いでわかるようになっただけで」
しばしの沈黙。
帝は白磁の盃を手に取り、何かを注いだ。
「この庭は、余の祖母が造らせた場所だ。“香に支配されぬ”場所としてな。そなたのような者と話すには、ちょうど良い」
注がれた液体は、澄んだ翡翠色。
梨花はその色を見て、微かに目を細めた。
(これは……“蘇芳青”の薬酒)
神経を和らげ、心を鎮める効果があるが、同時に、飲む者の“嘘”も浮かびやすくなる。
帝はあえて、これを差し出してきた。
「毒見は不要だ。試されているのは、余の方だ」
「……頂戴いたします」
梨花は一礼し、盃を受け取る。そして、唇を濡らす程度に口に含んだ。
香りは淡い。だが、その奥にある薬効の精密さが舌に伝わる。
(……一切の無駄がない調合。私のような者に出せるものではない)
「梨花。そなたは、蓮妃があの香を“意図的に使った”と見ておるな?」
帝の問いに、梨花は黙って頷いた。
「自らを囮にし、敵を炙り出す——それはもはや“妃”ではなく、“獣の目”をした者のやり口。……それでもなお、帝の寵妃として生き延びようとするならば」
「面白いな」
帝はくすりと笑った。
それは、どこか“試験に合格した”者を見るような眼差しだった。
「ならば、次は“あの方”に仕えよ。——玉妃のもとへ向かえ」
その名に、梨花は思わず眉をひそめる。
(玉妃……帝の寵愛を一身に受けていたが、ある事件を境に静養に入ったはず。なぜ今?)
「香と毒の流れは、今後“あの方”を中心に再び動き出す。……それがどういう意味か、そなたならわかるな?」
帝は盃を置き、静かに立ち上がる。
「後宮は戦場。だが、剣を抜く者はおらぬ。——そなたが、“目”となれ」
そう言い残して、帝は背を向けた。
梨花はその後ろ姿に、どこか“孤独”を感じていた。
(あの人もまた、後宮という毒の海で、何かを探しているのだ)
風が吹いた。香のない庭に、梅の花弁が一枚、漂う。
その白さは、まるで血を吸った白磁の盃のようだった。
これ以降は明日以降執筆が済み次第、更新していきます。




