第11話:沈香と獣の目
薬館の奥、いつもの調薬部屋。
梨花は蝋燭の灯りの下、香包を慎重に開いた。
(やはり……この香の混合、意図がありすぎる)
乾姜、藿香、少量の丁子、そして極微量の豹骨——。
全ては、神経に作用し感情を昂らせる効果を持つ。だが、決定的なのはその配合量だった。
誰かが、“激情と衝動”を妃の中に仕込もうとしている。
そして、それは妃の誤診や失策を引き起こすための“香の罠”だ。
(だとすれば、これを作った者は……妃を殺したいんじゃない。“狂わせたい”のだ)
だが問題はもう一つあった。
この香、誰かが“あえて粗雑な調合”をしていた。
(見せかけの調合……つまり、誰かを“誘い出す”ための囮か?)
そんな考えを巡らせていたその時、薬館の外で人の気配が走った。
——ピシリ、と瓦の軋む音。
すぐさま蝋燭を消し、闇に紛れる。
(……誰?)
数息の静寂ののち、そっと扉が開いた。
忍びのような足取り。薬の棚を確認する気配。
(物色……いや、“香”を取りに?)
梨花は気配を殺したまま、手元の干し橙皮を小瓶ごと投げつけた。
「誰?」
驚いた人物が棚にぶつかり、薬瓶が派手な音を立てて転がる。
「くそっ……!」
低い男の声。次の瞬間、影は窓から逃げ出した。
だが——
「遅いわよ」
窓際に立っていたのは桂花。しなやかに手にした布を一閃、逃げようとする男の手首に巻きつける。
「く……!」
男はもがくが、桂花の一撃が首筋に決まり、意識を失って倒れ込んだ。
「間一髪でしたね、梨花様」
「あなた、どこで覚えたのその動き……」
「宮仕えも長いと、少しは身に付きますよ」
肩をすくめる桂花に、梨花は思わずため息を漏らす。
「それにしても、この男……」
仰向けに倒れた男の顔は、どこかで見覚えがあった。
「この人……蓮妃付きの宦官よ」
桂花が言った。
(つまり、蓮妃の周辺にすでに“潜んでいた者”がいる)
香を仕掛け、薬館を探る者。
そして蓮妃の異変に気づかせる“誰か”。
(あの香の“粗雑な混合”は、妃が意図的に仕掛けたの? だとすれば、彼女は……毒を察知して、逆に“獣”を誘い出した……?)
梨花の背筋が粟立つ。
蓮妃はただの被害者ではない。
“毒を誘うために、毒を焚いた”のだ。
その策は、彼女自身にとっても危険すぎるものだった。
(この後宮には、狂気と理性が同居している。見誤れば、己すら呑まれる)
男を拘束し、帝の勅命として調べが始まった。
だが、数日後——
「宦官の男? 取り調べの最中に“自害”したそうですわ」
玉露宮の庭で、蓮妃はまるで噂話をするように、呟いた。
「舌を噛んで。あっけないわよね」
その言葉に、梨花は微かに目を細める。
「自害にしては、毒の回りが早すぎたそうですよ」
「……まあ、詳しいことはわかりませんけれど」
そう言って、蓮妃はいつもの艶やかな笑みを浮かべた。
だがその奥の目は、かつてのように揺れていなかった。
(この人は……“やり返した”。それも、自らの手で)
後宮の女たちの戦は、言葉や刀ではない。
“香”と“嘘”と“策”でなされる。
そしてその獣の目を持つ者こそが、生き残っていく。
雨は止んだ。
庭の梅が、静かにひとひら、落ちた。




