第10話:花の香にまぎれる影
小雨が降っていた。
しとしとと降り注ぐ雨は、後宮の瓦屋根に細やかな音を立てていた。梨花は薬館の軒先に佇み、雨粒が香木の香りと混ざり合うのを感じていた。
(こういう雨の日は、体の節々が痛む。母がよく言っていた……「古傷を持つ者は、天気に正直だ」って)
遠い昔の記憶が、雨音に紛れて心に浮かぶ。
それを打ち消すように、侍女・桂花の足音が背後から近づいた。
「梨花様、御呼びです。蓮妃様のお部屋へ」
また――蓮妃だ。
最近、蓮妃は梨花を頻繁に呼び出していた。
それは感謝でも信頼でもない。どこか焦燥と苛立ちを隠しきれない、そんな呼び出しだった。
「すぐに行くわ」
雨具を羽織り、蓮妃の居所である「玉露宮」へ向かう。
玉露宮の庭には、雨に濡れた百合が咲いていた。その花弁の白さは、まるで血を洗い落とした後の衣のように不吉に映る。
(雨で隠されてるだけ。だけど、この後宮の空気は変わりつつある……)
蓮妃の部屋に通されると、いつも通り香が焚かれていた。だが今日の香は違う。馴染みのある「沈香」ではない。
(これは……白檀。いや、混ざってる……藿香と乾姜? 妙ね、これは気を鎮めるというより、神経を鈍らせる調合)
梨花がわずかに眉を寄せた瞬間、蓮妃の鋭い声が響いた。
「何を気にしているの? 薬師なら、香くらい嗅ぎ慣れているでしょう?」
その声音には棘があった。
蓮妃の目は、いつものように艶やかに塗られた唇の下で、不安げに揺れている。
(やはり……彼女も何かを恐れている。香で誰かをごまかそうとしてる? それとも自分自身に効かせているのか)
蓮妃は帳の奥で、金の髪飾りを指で転がしながら、静かに言った。
「芍薬妃の件……あれで終わると思っているの?」
「いいえ」
梨花は答える。
目を伏せることもなく、まっすぐに妃の瞳を見据えた。
「それが始まりだと思っています。だから、いま私をここに呼んだのですね?」
蓮妃は微笑んだ。だがその笑みは、氷のように冷たかった。
「……帝が何をお望みか、あなたはもう知っているでしょう?」
「真実を暴くこと。後宮に巣食う毒を」
「そしてその“毒”には、私も含まれていると?」
しんと静まりかえる室内。
ただ香炉から立ち上る煙だけが、空気の流れを教えてくれている。
「妃がそう思っているのなら、理由を聞きたい」
梨花の言葉に、蓮妃は初めて顔を歪めた。
それは怒りでも悲しみでもない、恐怖だった。
「……私の部屋に、誰かが忍び込んでいるの。夜になると、必ず香炉の位置が変わっている。誰かが“仕掛け”をしている。私を、帝に陥れるために」
梨花の心がひやりと冷たくなる。
(誰かが香をすり替え、帝の寝所に“毒”として運び込む計画……?)
「その香炉を、鑑定してほしい。あなたにしか頼めないの」
蓮妃は声を震わせ、手のひらに小さな香包を乗せて差し出す。
淡い藤色の布に包まれた香は、手に取った瞬間に、梨花の感覚を鋭くした。
(これは……ただの香じゃない。毒ではないけど、嗅ぎ続ければ情緒が不安定になる……気分の高揚、躁状態、それから不眠と幻聴……)
梨花はそっと香包を袖にしまった。
「預かります。妃は、ご自分の命を守るためにも、誰よりも冷静でいてください」
「……できるかしら。帝さえ、何を信じているのか見えないのよ」
蓮妃の瞳が、ふっと遠くを見つめた。
それは、まるで過去の誰かを思い出しているようだった。
梨花は静かに立ち上がった。
(真実の鍵は、この香。そして、誰かが“香り”で後宮を狂わせようとしている)
雨はまだ降り続いていた。
その音に紛れるように、誰かの足音が遠くで消えていった。




