第1話:攫われた薬師と、後宮の影
(あーあ、露天の焼き魚が恋しいなあ……)
煙るような曇り空を見上げ、**梨花**はそっと溜め息をついた。
ここは、煌びやかで、息が詰まるほど甘い香が満ちた世界。
絹の音がすれば笑みが浮かび、扇が揺れれば嘘が香る。
──都の奥、金翠宮。
彼女が攫われてから、三か月が経っていた。
元はといえば、薬草を採りに山へ入ったのが運の尽きだった。
村人と名乗る男たちに囲まれ、腕を取られ、荷車に放り込まれる。
気がつけば、都に着いていた。後宮の“下女”として。
(まったく……勝手に人を“婚活”に巻き込むんじゃないよ)
女をさらって宮廷に売る。それが、この国の“女狩り”と呼ばれる習わしだった。
妙齢の娘を宦官に売り渡し、数を揃える。それがこの後宮という場所の実情である。
梨花はというと、辺境で薬師として生きていた。父の薬棚を継ぎ、山で薬草を採り、時に傷を癒やし、時に毒を抜いて暮らしていた。
金も手間もかけたはずの人生を、男たちの手ひとつでぐしゃりと潰された。
(まあ、命があるだけマシか……)
そう思えたのは、彼女が薬師としてそこそこの修羅場を見てきたからである。
後宮は基本、男子禁制。
出入りできるのは皇族の血を引く者か、大切なものを切り落とした者だけ。
そして梨花はというと、そのどちらでもない、ただの“荷物運び”。
洗濯物を抱えて、中庭から中庭へ。濡れた裾を引きずり、笑い声の間をすり抜ける。
(あー、草いきれの匂いが懐かしい……)
贅を尽くした絹の香は、どうにも彼女の鼻には合わない。
それに、女たちの笑顔も――毒より怖い。
梨花は、そういう種類の人間だった。
好奇心と知識で生きてきた。
感情で動くより、目で見て、舌で確かめ、指で測る。
そのせいで、後宮の空気にはまったく馴染めない。
この日も、洗濯物の札を見ては部屋を回っていた。
「そこの籠、置いてって」
部屋の中から声がする。顔を出した侍女の目は据わっていた。
中では、一人の妃が酒を手にしていた。
化粧は濃く、目は赤い。外に出る様子はない。
(花に囲まれた鳥かご、か……)
そう思いながら籠を置く。誰も助けに来ない部屋。
誰も見ようとしない部屋。
けれど梨花は、ちらりと室内の空気をかいだ。
(桃花……じゃない、白木蓮の香。ちょっと強すぎる)
侍女の袖に、わずかな赤い汚れ。
妃の唇には、乾いたひび。
部屋の隅には、誰かの足跡の跡が重なっていた。
(……変だ)
一瞬の違和感。けれど、それ以上は踏み込まない。
今はまだ、洗濯女。
余計な口出しをすれば、すぐに処罰される。
けれど、この違和感は――数日後、彼女に再び突きつけられる。
後宮で、乳児が死んだ。三人目だった。
呪いだとささやく者。
先帝の側妃の祟りだと怯える者。
誰もが目をそらした。
けれど、梨花はそっと口元を歪めた。
(祟りなんかより怖いのは、人間だよ。毒なら特に、ね)
好奇心と知識欲。そして、少しばかりの正義感。
辺境から攫われた一人の薬師が、後宮の毒と嘘を暴き始める。