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花開き 【一】


 例えば手洗いの手順が事細かに書かれたポスターが洗面台に貼ってあったとする。人はそれを見ながら正しい手洗いを毎日実行に移すだろうか。私はそれはありえないことだと思う。

 人間とは怠惰な生物であり、お手本が手元にあったからといって面倒な手順を毎回繰り返したりはしないものなのだ。

 理性が強く働いたとしても、営みの中に潜む本能からの要求には逆らえない。誰しもが持つその申し開きに、批判を唱えられる人などいるわけがないだろう。

 私はそれを強く実感していた。

 中間試験が終わり気温が高くなる。強い日差しを受けて空に手をかざす。夏服に衣替えしたばかりの私は、伝統的な造りの校舎の中に体を非難させ、下駄箱で上履きと外履きを差し替えた。

 春から通い始めた県立の高校は市街から少し離れた場所にあった。電車で乗り換えしてから少し歩き、住宅街を抜けて踏切を渡った先。

 季節はもうすぐ梅雨の時期にさしかかる。日陰に隠れていないと直射日光に肌を焼かれ、従来通りであれば赤くこんがりと染まってしまう。

 窓ガラスに透けて見えた私の虚像をなんとなく見つめる。

 長く黒い髪の毛がさらさらと揺れ、その下に見えた母親似のつり目には長い睫があしらわれていた。鼻筋は細く鼻尖は高め。続く口元は血色がいいのかよく友達にも誉められた。

 両親に食べさせられてきたものが良かったのか、歯並びはとても綺麗で矯正する子をみては幾度か安堵した。ガチャガチャと機械的な見た目に私は少しだけゾッとしたのを覚えている。よくあんなものつけられるな。

 小学校の頃からかわいいとちやほやされ続けた私はその後もみんなの期待を裏切らない成長を遂げ、異性からの視線には時折邪な意志を感じることもあった。子どもっぽい考え方だとは思わない。それは自身の美しさに対する正当な評価でもあるし、受け止めなければならない義務のような気もしていた。単なる優越感と言われればそれまでだったが、持たざるものに心配される所以は一つもない。

 子どもっぽいと言えば、執拗なまでに同姓からくる浅ましい羨望の態度だった。大人しく自分との差をはっきり自覚してくれればいいのに、目立つ私をこき下ろすことしか頭にない、愚鈍な連中ばかり。ちょっと出来の違いを見せつけただけで、蛇に睨まれた蛙のような顔をする。

 ほんと、笑えてしまう。

 先輩だからと生意気を吐いた彼女たちは、今すぐ年の分だけ成長を止めた愚かな自分自身を嘆くべきだ。家に帰って鏡をみた時、自分たちの悲壮さはどうして映らないのだろうか。迎合さえできない頑固な考え方がそうさせるのか、私につっかかってきた時点で負けを認めているようなものなのに。

 静けさにつつまれた教室の扉。取っ手を握り横に引く。古い扉は大袈裟な引き摺る音を出す。

「すいません、遅れました」

 私はそう告げて入室する。

 クラス全員が面を上げて私に注視した。私は逆にその全員に目線を返す。

 すぐに顔を背ける者、じっと見つめる者、笑顔で手をふる者、様々だった。

「光島、体調はいいのか?」

 私は目のあった友人たちににこりと笑いかけ、尋ねてきた教師に告げる。

「はい、大丈夫です」

 返事を聞くなり教科書に目を落とし、教師は授業の続きを始めた。痩せて不健康そうな目元。少なくとも喋りが上手なタイプじゃない。

 私は自分の席までひた歩き、鞄を机の横にかける。数学の授業に必要な諸々を取り出しながら、不安定な痛みの波に鬱々とした感情を抱いた。

 授業は始まったばかり。私は追いかけるように、板書をノートに書き写していった。


「朝、なんかあったの?」

 昼下がりの授業後、前園賢吾に話しかけられた。

 私は彼の顔を軽く見上げる。身長が高く凛々しい顔の造り。彫りの深い彼は目鼻立ちがしっかりしていて中々のイケメンだ。

 同じクラスで、一部の女子の間で人気があるみたい。

 整えられていない自然な眉毛を上げて私の顔を覗き込む。こういう何気ない仕草にドキッとする子は少なくないだろう。私は感心した面持ちで返事をする。

「うん。ちょっと頭痛がね。でももう大丈夫。え、心配してくれたの? やさしー」

 笑う私に対して前園はムッとした表情を作る。

「なんだよそれ。ずる休みじゃん」

「あはは、休んでないし」

「じゃあサボりだな」

 整髪剤の香り、爽やかな彼の短髪は綺麗に刈り上げられ、少し触ってみたいと思ったことがある。

 私と前園は出席番号が隣り合っていて、入学当初から話をすることが多かった。前の席にいた彼の大きな背中は黒板の字を隠してしまう。それを気遣った彼から声をかけてきたのが始まりだった。

 廊下で言い合う私たちの声は、自然とみんなの注目を集める。私と隣り合って歩くことさえ他の男子たちは気後れしてしまう中、前園はあっけらかんとした調子で自然と間合いに入る。大雑把な性格を装った繊細な心配りと、自信に満ち溢れた男らしい振る舞い、崩したようなあどけない笑顔。

 慣れている。私は笑った仮面の裏で正直に思った。そして、私と一緒だとも。

 彼に気付かれないように、後ろで鋭い視線を飛ばしてくるか弱い乙女たちを一瞥した。

 廊下に差し込む日差しが私の目元を明るくする。彼女たちの代わりに独占欲を恣にすることが、退屈な学校生活に彩りを与えてくれた。

 程なくして前園と別れた後、私は教室で仲良くなった女の子たちに話しかけられる。

「くるみちゃん、置いてきちゃってごめんね」

「私たち話に夢中になっちゃって」

 普段行動を一緒にしている子たちに手を振って応えた。

「いいよ別に、気にしないで」

 それを聞いた一人が声を潜めて尋ねる。

「それよりさ、くるみちゃん。前園くんと仲良いの?」

 不思議な色の瞳。期待が溢れでる指先までの緩慢な所作。息遣い、呼吸。耳に届いたその言葉は、最後まで聞かなくっても、彼女がどういう答えを求めているのか、私には理解できた。

 少しだけ語気を強め、教室内に聞こえる声量を出す。

「え、前園? 別に、普通だよ」

 尋ねた彼女はしっくりきたように目を輝かせる。私は続けた。

「仲良しっていうか、普通に話すだけ。ほんと、何にもないから」

 ゴシップとでも言うのだろうか。この手の話しはみんな好きだ。さあ、面白いものを炙り出せるかもしれない。もっと、焚き付けて。

「えー? 本当に?」

 上目遣いの彼女たちが食いつく。好奇心をさらけ出した人間は腹を出した犬に似る。撫でられるのをひたすら待つ、牙のない獣。

 髪を耳にかける仕草のついでに、教室の目線を追った。私たちの声に耳を傾けているのは、興味のない素振りをかましている女子たち。特に、私を毛嫌いしているはっきりとした態度の学級委員の子。

 嘲笑った私の心根が、冷たい吐息を呟かせる。

「ホントに。あいつ口悪いし、常識ないよ」

 笑う友達。それに反応するのは女の子ではなく、聞いていた男子たち。

「前園の事? 光島さん、言うね。アイツに言っとこうぜ」

 バカ笑いをする彼らは私たちの会話に混ざって悪態をつく。私は気にせず告げた。

「いいよ。いっつも言ってるし、そういえばこの間だってさぁ」

 彼らは前園と仲が良い。集団は、力だ。それだけの繋がりで私たちは利を得る。"数"は先人たちの思い描く通り"暴力"なのだ。

 目線を振って再び学級委員を見た。逆光を浴びる彼女の目元が陰り、私と交錯する。

 なんとなくそんな噂があったから、少し気になっていただけ。そこまで敵意を見せるなんて思ってもみなかった。私は堪らなくなって笑みを溢す。

 あぁ、面白い。私はここでも、退屈しそうにない。



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