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申し開き 【五】


 スマホが小刻みに揺れた。

 回転イスに座っていた私は持っていたシャーペンの手を止める。

 何を書けば良いのかわからない中学校での目標。まだ小学生の私に明確なビジョンなんて抱けるはずもなかった。

 勉強はそこそこ頑張ったけど、それは試験のためであって将来のためではない。

 中学がより多くのことを学ぶ場所だってことだけをイメージしてきた私に、それ以上の拡大解釈の余地は残されていなかった。

 スマホの画面を見つめ、ロックを解除する。彩奈からのメッセージが来ていた。

 卒業式のあと、どこかへ出掛けようとのことだ。仲良しグループの中で、彩奈は数ヵ月前に男の子と付き合い始めていた。

『彼氏とは遊ばないの?』

 返信した私のメッセージにすぐに既読がつく。

『別の日に会うから大丈夫』

 彩奈の返事を見た私は軽く鼻を鳴らす。どうやらうまくいっている様子だ。

 いつから恋心が芽生えたとか、どっちからアプローチをかけたとか、その手の話題はもう一巡してしまった。考え付くまま喋ってしまう美歩とは違い、彩奈は少しだけ考えて物事を話す。冷静である反面口がいいとは言い難かったが、男の子たちからの評価はわりと高いみたいだ。

 私は一度、他の男子から告白を受けたことがある。男の子の中ではよく話す方だと思っていたが、男女の交際として付き合いを始めるなんてこと考えてこなかった私には、彼の言葉は何も響かなかった。

 冷たいね。そう言われると覚悟していた私に、美歩たちは責め句を告げることはなかった。代わりに聞いた言葉。くるみには、釣り合わないよね。

 スマホを握ったまま返信の内容を上の空にする。

 私と彼を測る価値はみんなの中で等価ではなかった、そういうことだろうか。

 そうだと断言されても、私はあまりぴんとこなかった。

 運動神経もよくて人当たりのいい彼は、冗談だってよく言う"面白い人"だった。

 私以上の価値を彼は持っていたと思うし、自分の価値が他人より上回っているなんて感じたこともなかった。

 彩奈へ意味のないスタンプを返答がわりに押し付け、回答を先送りにする。私は回転椅子をくるりと回し天井を仰ぎ見た。

 交際を迫られた彩奈は、付き合う彼が自分と同じ価値だと判断したことになる。だがそれは何を基準に選び出したのだろうか。

 顔の美醜? 頭の出来? 性格の善し悪し?

 それともおうちの貧富だろうか。

 私が"面白い人"にときめきを覚えられなかったように、人を"好き"になるという気持ちが欠落した人間にとって、基準をきちんと理解することはとても困難だった。

 もて余したシャーペンを鼻の下と上唇で挟む。光の点っていない照明が円を描き、目が回った。

 告白をしてきた彼の求めていたものは、私との特別な関係を築き上げることだったと思う。そうしてあげれば、その彼は喜んだだろう。だけど私には、どうも引っ掛かることがあった。

 緊張した面持ちで私を見つめていた彼は、私をどれだけ理解していたのだろうか。"面白い人"という認識しかない私にとって、彼の"告白"は不可解な感情の押し付けに過ぎないのだ。

 通知を告げるバイブレーションが再びスマホを揺らした。彩奈は催促してくる。

『それで、どこにいく?』

 もう出掛ける前提で話が進んでいるのは、彼女の短所でもあり長所でもあった。私は勇み足の彩奈に曖昧な返信を飛ばす。

『考えさせて』

 文字だけではニュアンスまでは伝わらない。すみません、とスタンプを添えた。とにかく今は、卒業を楽しめる雰囲気ではないのだ。重たい金属が胃の中に入ったような感覚がずっとしている。

 私は、早苗という重りを引きずったままどこへもいけなくなっていた。

 捕まってしまった彼女の引力。それに私は逆らうことが出来ない。早苗が喜べない卒業という幕引きを、私も同じように喜んではいけないような気がした。

 夕焼け空が鮮やかな色を窓から運ぶ。私の目に映ったほの暗い蒼穹の彼方には、煌々と燃える太陽が沈みかけていた。

 椅子の位置を元に戻し、シャーペンを再び握りしめた時、家のインターホンが鳴る音がした。

 軽い足音とママのよそ行きの声。

 気にせず私は課題に目を通す。深く考えたって仕方がない。怒られない及第点な内容を書いておこう。シャーペンの芯で一画目を書き始める。

「くるみ、電気ぐらいつけなさい。目が悪くなるわよ。あと、早苗ちゃんが来たわ」

 ドアを開けて入ってきたママ。

 驚いた私は芯の先を軽々と折ってしまった。

 机の上の課題も放り出し、私は廊下にまろびでる。

 早足で進み、呼び掛けた母親に答えないまま玄関へ向かった。

 扉のそばに立つ早苗は、大人っぽいスリットの入ったワンピースに身を包む。髪飾りなんかつけて、まるで別の世界の住人みたいだった。

 早苗は告げる。

「ちょっとだけ、話できない?」

 大きく息を吸い込んだ私は、彼女の瞳をじっと見つめた。


 夕暮れ時の住宅街。犬の散歩をする近所の人に会釈する。隣を歩く早苗は、息を整えるため胸に手をあてていた。

 夕飯の支度を進める家庭的な匂いがどこからか香る。これから家に帰る小さな子どもたちの響く声。掠れて出にくくなった油性ペンの終わりみたいな、楽しい時間の断末魔。

 全てが夕闇に溶けていく中で、早苗の声だけがはっきりと伸びた。

「今日、うちに来たの? なんで?」

 私はどこへ行くのか分からないまま歩を進め、戸惑いを隠しつつ告げる。

「うん、まあ、なんとなく」

 濁した言葉の後味が悪くて、そのまま私は続けた。

「さなちゃん、今日は習い事の最終日じゃなかったの?」

 早苗の母親はスイミングの最終日だと語った。学校とは違う場所での最後の集まり。

 それは彩奈が卒業式のあとに集まろうと提案していた内容をそっくりそのまま早苗に差し向けただけだ。

「うん。送別会とかあったけど、断ってきちゃった」

 悪戯っぽく笑った早苗は私を見ないようにしていた。それを聞いて私は黙っていられない。

「どうして、大事な予定なんじゃないの?」

 彼女が学校に着てくる服はあくまで小学生を装っているかのような印象があった。いま彼女が身に着けている私服こそ、早苗らしさに溢れているといっても過言ではない。

 臙脂が差し色に入った皮のブーツ。あんなの、雑誌の表紙を飾るモデルなんかが履くものだ。

 歩きづらくないのだろうか。慣れた足取りの彼女をそっと盗み見した。

「うーん。まぁ、私はそこまで。お母さんはちょっと慌ててたけど」

 茜色が照り返して私たちを赤く染める。山の向こう側に見えるはずの太陽がその存在感を露わにしていた。

 公園の入り口を見つけた早苗が、持っていた手提げバッグを揺らしながらそちらを指さす。

「ね、あっちで」

 私が頷くのも待たずに、さっさと行ってしまう。

 彼女の後姿を追う。

 公園に人影はなく、小さなブランコと滑り台、バネの付いたパンダ、ライオンの乗り物が寂しそうに佇む。小さい頃から"パンダの公園"として親しまれ、よく遊んだのを覚えている。

 ブランコに乗った早苗は私の目を見た。軽くこごうともせず、両脇の錆びた鉄の持ち手を掴む。

 私は隣のブランコに腰を下ろし、暗くなっていく空を見上げた。

「春になるね」

 早苗がそう言った。うん、と私が呟くと、彼女はもう一度口を開く。

「私ね、引っ越すの」

 冷たい風が頬を掠めた。稜線をぼやかすような深い青が視界から遠ざかっていく。何も聞こえなくなった耳の奥から、今しがた聞いた早苗の言葉が反響した。

 私はひび割れた愛想笑いを浮かべながら、情けない声を出す。

「え?」

 薄茶色の光彩が私を見ていた。鈍色の鎖が揺れる。落ちた日。ざわつく街路樹。点灯を始める明かり。

 固い土の感触が足から徐々に上がって、頭まで浸食していくみたいだった。身じろぎ一つできない境界線の真ん中で、早苗だけが次の階段を上り始めていた。

「卒業式の後、親の転勤でね、仙台に引っ越すの」

 もう一度囁いた彼女の言葉が脳に打ち鳴らされる高い音でかき消えそうになった。

 どういうこと? 早苗がいなくなる?

 学校が分かれるのとは違う、物理的に離れてしまう心の距離。会おうと思えば走って会いにいける今とは、比べ物にならない遠さ。埋もれてしまう、彼女との心の隙間。

「だ、だめ! さなちゃん、いかないで……!」

 私は言ってから気が付いた。

 こんなにも、私は彼女のことが大切だったのだ。言葉に出してようやく、自分の最奥にあった柔らかな部分が傷付くのを知った。ひた隠しにしてきた、脆い私。頑なに守ってきたはずなのに、崩れる時は一瞬だった。

「ごめんね、くぅちゃん」

「やだ、やだよ。さなちゃん。私……」

 涙ぐむ私の前まで来た早苗は、ひしと私の頭を抱いた。袖を掴んで堪えた私は、言葉にならなくなった嗚咽を漏らす。

 早苗はそんな私に告げた。

「大丈夫だよ、くぅちゃん。私は絶対に戻ってくるから」

 私は首を振った。

 そんな言葉に、なんの説得力があるのか。

 早苗の住む世界は私の想像を遥かに越えている。

 小学校だって切り捨てられるべき数ある小集団の中の一つで、私のような存在を山ほど抱えている可能性だってあるのに、飄々と語る彼女をどうして繋ぎ留めずにいられるだろうか。

 私と彼女では釣り合わないのかもしれないという不安が、私の柔らかな心を踏み荒らした。

 手を離した早苗はハンカチを取り出してみせたが、いい、と断り私は自分の袖で涙を拭う。

 本当はクラスの中心人物になってもおかしくないはずだったのに、彼女はあえて自分を殺し、私を押し出した。

 分かってたんだ。私が輝けていたのは、全部早苗のおかげ。そしてそれを誇示することも彼女はしなかった。早苗は確かに、私を変えてくれたんだ。

 早苗はハンカチを戻すと、今度は手提げを広げながら中のものを取り出す。

 彼女が持っていたのは数枚の便箋だった。

「くぅちゃん、私が薄情な人間だって思ってるんでしょ? 信頼されてないなんて心外だなぁ」

 便箋を差し出されて受け取った私はおずおずと早苗の顔と見比べる。便箋には何も書かれておらず、まっさらな状態だった。

「これ、どうするの?」

 鼻水を啜りながら尋ねた私の声はすごく小さかった。

「未来の私たちへ、お互いに手紙を書いて出すの。タイムカプセルみたいなやつ」


 二人はブランコから場所を移し、街路灯が近くにあるベンチに座った。

 早苗から借りたシャーペンを持ったままちらりと隣を見る。

 私は突然こんなことを言われて書き出しに困っているというのに、早苗はスラスラと筆を進ませていた。

 書くことを決めてきていたのだろうか。

「さなちゃん、これ、一旦家に持ち帰っても――」

 私が言い終える前に早苗は口走る。

「だめ。二人お互いの為に書くのに、同じ場所で一緒にいるのがいいんじゃん」

 歯を見せて笑った彼女がいつもと違う表情をしたので、私は不覚にもときめいてしまった。

 早苗には、敵わない。

 早苗は声のトーンを一つ落として私に尋ねた。

「ねぇ。もう一回聞きたいんだけど、どうして今日、うちに来たの?」

 "早苗へ"で止まっていたペンをそのままに、私は彼女を見る。

 丁寧な文字に真剣な想いを乗せた彼女の手紙を、私は受け取ってもいいのだろうか。

 暗闇が支配した公園の中の空気はすっかり冷たくなっていた。春が近くなったとはいえそれでも日が落ちればまだ冬の後ろ髪が残る。厚着しておいたおかげで寒くはなかったが、書き損じを続けていればいずれ帰らなくてはいけなくなってしまう。

 それは私にとっても不本意だった。このままもう少し、彼女との時間を過ごしていたかった。

「……分かんないけど、小学生の六年間を振り返った時にね。私……」

 歯切れが悪くなり私は自分の便箋に視線を落とす。突然押し黙った私に早苗は声をかけなかった。

 待っている。私の言葉を、私が言ってくれると信じて。

 息を軽く吐き出した私は目もあわせず告げた。

「私、さなちゃんが可哀そうって思っちゃったの。私だけが人気を独り占めしたような気がして、本当は、さなちゃんのおかげなのに……」

 嫌味に聞こえてしまうかもしれない。私は彼女に施しができるほどできた人間ではない。それでも心のどこかで早苗が助けを求めている、そんな気がしたんだ。

「さなちゃんに会って、そのモヤモヤをどうにかしたかった。さなちゃんとこんな感じの二人だけの時間を作りたかった。それだけ……」

 言葉尻を失っていくように小さくなる声。恥ずかしくて早苗の顔が見られなくなる。長い横髪に顔を隠し、世界から感覚を遮断した。

 彼女の反応すら私は受け取り難かった。

 ペンを走らせる手が止まっている。音がなくなって、早苗の息づかいだけが聞こえた。

「私、くぅちゃんが大好きだよ。忘れないで」

 心臓が跳ねた。目がちかちかして、全身の体にギュッと力が入る。緊張が解けていく感覚と並行して燃え上がるような熱が体の中心から沸き上がった。

 悴んだ手先のように動かせなくなったペン先。返事ができないまま数秒の時が流れ、早苗が立ち上がったのが分かった。

「もう遅いから帰ろっか。書けたら、そのまま持ってて。二十歳になったら、お互い見せあいっこしよ」

 彼女はいつもの調子で私にそう言った。あどけなく、幼気な瞳。

 街路灯の明かり、スポットライトを浴びたような早苗の眩しい笑顔が、輝いて見えた。


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