申し開き 【四】
翌週、私の体調は元通りになり学校に通えることになった。
六年生も終盤、宿題の半分以上はタブレットでの学習だった為、それほど追い付くのは苦ではなかった。元より塾に通っていた私にとって学校の勉強は復習でしかない。遅れを取り戻すほどの遅延は発生していなかった。
「くるみと離れるのつらいなぁ」
彩奈は私の机に突っ伏しながらぼやく。それを見た美歩も、頭を抱えて呟いた。
「受験して遠くにいっちゃうのかぁ」
「住んでる場所は変わらないんだから会えるでしょ」
私は諭すように言う。
狙っていた第一志望には無事合格ができ、張りつめていた緊張感から私は解き放たれた。制服の採寸や事前課題など諸々の用事はあったが、それほど切羽詰まっている状況でもない。
間延びした時間。緩やかに閉じていく小学生の幕。次に進むステップへ二の足を踏みながら、名残惜しい教室の雰囲気を感じ取っていた。
中学生に上がる実感のないまま、私たちは一つずつ着実に大人になっていく。
遠い未来、今日を思い出して懐かしむ日がいつか訪れるのだろうか。そうなった時、未来の私は今の私をどう評価するかな。
良い小学生だったと思うのか、はたまた塗り替えたい過去だと一蹴するのか、抑揚のない私にはとんと想像がつかなかった。
卒業式の予行演習が何度も重ねられ、いよいよ式が間近となった。
着なれないジャケットに袖を通し、姿見で全身を映す。真っ赤なリボンが注目を集める少々派手な装い。
私はそれを嫌ったが、ママに押しきられてしまい渋々これを選択した。
和装もあるわよ、なんて言われたら、このくらいどうってことないのかもしれない。
「ほら、これ」
入学式の時に着ていた服をママはクローゼットから引っ張り出す。薄いクリーニングのビニールがハンガーに張り付いてた。
グレーのギンガムチェックが入ったスカートに、襟つきの真っ白なシャツ。
あまりの小ささに私は驚いてしまった。
「もう六年も経ったのね」
私はママの感嘆にも似た言葉を聞いて、小学校時代を振り返った。
ジャケットを徐に脱いで、スカートのジッパーを下ろす。
「くるみ?」
クローゼットを引っくり返したような洋服の散らばる部屋に、正装を脱ぎ捨て普段着に着替えた私。
ママへ告げる。
「ちょっと、出てくる」
踵を踏んで外に飛び出した私は、勢いのまま靴を空で履き直し地面を蹴った。
梅、椿、モモ、ヒヤシンス。色とりどりの花が咲く庭の多い住宅地。
私はこの通学路がとても好きだった。
花の香りが心を落ち着かせ、舞い散る花びらや風に揺られる蕾が情緒を煽る。
手を繋いで一緒に帰った一年生。
早苗は私に色んな花の名前を教えてくれた。
その全部を記憶できるほど私の頭はよくなかったけど、彼女の優しさは今でも胸に響いている。
泣いた私を慰めてくれた二年生。
ちょっとしたことで泣いていたあの頃、早苗は丁寧に私の話を聞いてくれた。くぅちゃんは間違ってないよ。堂々と意見できる彼女は、私の憧れとなった。
三年生。
早苗は優秀すぎた。運動が得意な男子でさえ手が届かないほど、彼女に勝る生徒はもうすでにいなかった。呆れる周囲の人間、誰かの呟きが聞こえた。もう篠崎さん一人でいいじゃん、私はそれを聞き逃さなかった。
埋もれていく四年生。
早苗は目立つことをしなくなった。遊びの中でいつも音頭をとっていた彼女は、いつしかグループから外れ一人でいる時間が多くなる。眼鏡をかけ始め、他人と関わることを減らしていく。それにつれて、私は脚光を浴び始めた。
荒む五年生。
いくつかできた影響力のあるグループに対し、早苗は学習面と生活面での不正を指摘した。小さな一言だったのだろうが、それを黙って見過ごす彼らではなかった。
正義感ぶった驕り、偽善者のような立ち振舞い。彼らは早苗を思い付くかぎりのやり方で非難し、辱しめた。
私の言い方が悪かったです、すいませんでした。教師にそう告げる彼女。謂れのない罪を背負ったまま早苗は、憤然とした私を宥め諌めた。
そして今。
早苗はどこまでいってもからかいの対象だった。子どもっぽくない彼女はそれに抗議することもせず、ただ蔑みの目を返すだけ。
物を隠されたり当番を押し付けられたりするのは日常的。班で仲間外れにされ修学旅行では一人置いていかれていた。私はそれを聞いて我慢ならなかった。
許せない。そのグループに怒鳴りこもうとした時、早苗は決まって私の前に現れる。
『くぅちゃん、いいの。私は、なんとも思ってないから』
なんで、なんでそんなこと言うの。
平気なわけ、ないじゃん。
なんで彼女たちに怒らないの。
なんで前みたいにはっきり言わないの。
私、悔しいよ。
自分の友達がそんなことされて黙っていられるほど、薄情じゃない。
震える肩に早苗は優しく触れて言った。
『大丈夫。そう思ってくれるくぅちゃんがいてくれれば、それでいいの。それで、充分なの』
私はいつしか悟ってしまった。
早苗は、ダメなんだ。
私が早苗を心配すればするほど、それを私たちの友情だと捉えてしまう。私がこんなにも張り裂けそうなのに、彼女はそれを見て優しく微笑むだけ。いつまでもいつまでも私が早苗の身を案じ続けていられると思っている。
馬鹿だよ、さなちゃん。
私はもう彼女を親友だとは思わない。
だって、早苗は私のせいで不幸に身を置こうとしてしまうとんだ大馬鹿者なんだ。
私が彼女と出会い変わってしまったように、彼女も私と出会い変わってしまったのかもしれない。
卒業式で彼女は誰からも言葉をかけてもらうことはないだろう。華やかな装いのまま、静かに学校を去るのが目に浮かぶ。
私には、見ていることしかできない。私が介入すれば、もっと早苗は孤独でいることを望んでしまう。歯痒い想いが加速して、私の衝動を突き動かした。
私は早苗の家の前まで辿り着く。肩で息する荒々しい呼吸を整えて、まっすぐに表札を見つめた。
彼女の苗字が刻印された黒い石の板。白字で彫られた高級感のある立派な字体。
早苗の家に初めて遊びに行った時、かなり緊張したのを覚えている。
インターホンの丸いスイッチをしっかりと押す。懐かしい機械音が小さな箱の中で鳴った。
このボタンを押すのも何年ぶりだろう。早苗は私の家を訪れた時、緊張しただろうか。
くぐもった音とともに、返事が聞こえてきた。
「はーい。あれ、もしかして、くるみさん?」
早苗の母親の声だ。早苗と顔のよく似た、いや、逆だろうか。とにかく早苗は母親の面影を多分に残している。
物腰やわらかで娘の友達にも敬語を使ってしまうような、繊細で丁寧な言葉遣い。
とんとん、と室内から足音が聞こえたかと思うと、重々しいドアが開いた。中からサンダルを履いた早苗の母親が、私を出迎える。
「くるみさん、お久しぶりね。やだ、こんな美人さんになって」
明るく笑い屈託のない言葉をかけてくれる早苗の母親は、私の苦笑する顔をじっと見つめた。
早苗とは違う、子どもっぽい瞳。久々にあったこの人から不思議なあどけなさを感じる。
もし早苗が普通の子と同じだったら、こんな風に笑っていたのだろうか。
「あ、あの、さなちゃんい、いますか?」
形容しがたい緊張が私にもまだ残っていた。
早苗の母親は困ったように眉を上げる。
「ごめんなさいね。今日スイミングの最終日なの。戻ってくるのは……遅くなるらしいから五時頃かしら」
私は礼を言って彼女の家を立ち去った。
そっか、習い事してるもんね。忙しいんだ。
私は胸の内がきゅっと締め付けられた。
私は塾に通っていてそこでの友達も多かった。受験した学校に一緒に行く子だって数人知っている。学校だけが私の全てではない。けどそれは早苗にとっても同じことだった。彼女がいくつ習い事をしているかは分からないが、一年生の時からすでにいくつも掛け持ちしていたような気がする。
早苗の世界は広い。学校に執着してしまう必要がないほど、彼女は多忙なのだ。
何故だかそれは私にとってとても不愉快だった。もしかしたら、早苗は学校というコミュニティを諦めてしまっているんじゃないだろうか。だから私の知っている早苗は自分を殺し、学校という箱庭で偽りの仮面を被っているのではないか。
私は早苗が不憫だと思って走り出してしまったのに、その勢いが立ち消え、心許なく揺れていた。
彼女にとって、卒業というのは一つの終着点であり、決別なのだ。
誰になんと言葉をかけられようとも、終わる世界に何の興味も持たず、そこに住まう人たちは彼女にとって無価値なのだろう。
早苗が諦めてしまった原因を一つずつ集める時間はもうないし、その中に私が含まれていると思うと怖くて彼女には近付けなかった。
私にあてつけをするための、復讐だろうか。
締め上げられた胸がずきずきと痛み始める。
彼女の家になんて、行くべきじゃなかった。
私は鬱屈とした後悔に身を投じた。