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申し開き 【三】


 玄関の戸が閉まる音を聞いて目を開けた。だるい体を起こす。停滞する頭の中身をかき混ぜながらぼんやりしていると、買い物バッグを引っ提げたママが居間に入ってきた。

「ただいま。あら、寝てたの?」

 忙しなく動きながらキッチンの前に荷物を下ろす。グレーのパンツスーツの上に、長いトレンチコートを羽織ったママ。金色のイヤリングを揺らして、私の方を見る。

「疲れたの? 今日は何かあった?」

 私は寝起きの頭がぐらついていることに違和感を覚えた。何かあったか。ママは最近、そう尋ねることが多くなった。今日の出来事を尋ねては仰々しくリアクションをとる。それが義務みたいな顔をして、私はなんだか変な気持ちだ。

 ママに話したいことは沢山あるし、抱えきれない感情の波だってある。少しでも和らげたくて自問自答してみるけど、それで悩みが消え失せるわけではない。今までやってきた親子の会話を忘れてしまったみたいに、甘えている自分を他人に見せたくなくて、余計な感情が芽生えてくる。

 昔みたいに、今日あったことを頭のてっぺんからつま先まで全部垂れ流してしまえるほど、気楽に言えなくなってしまった。これは私が変わってしまったのだろうか。恥ずかしいとも違う、自分の中のもっと内側にある敏感な部分。傷つければ一生跡が消えないような、そこがざわざわしていた。

「何も。普通」

 立ち上がった私はそっけなく言い放って、ランドセルの背負い紐を片手で持ち上げた。横についたマスコットが左右に振れる。そのまま両手で持ち直して廊下に出た。

 するとすぐに冷蔵庫の戸を開ける音が聞こえてくる。買い物を終えたママがすぐにやるべきことは、娘の支離滅裂な学校劇場にいちいち耳を傾けることではなく、冷蔵品や冷凍品をいち早くしまうことだ。

 虚しくなった気持ちを引っ込めて、静かに廊下を進んだ。

 やっぱり真剣に聞く気なんてないじゃん。

 私は心の中でそう独りごちた。

 机の上にランドセルを置く。明日の用意をしなくてはいけないのに、気が抜けたように頭の奥がぼうっとする。少し寝すぎてしまったのかもしれない。椅子に座って再びランドセルを枕に体重を預けた。

 手持無沙汰になった手でランドセルのロックをくるくると回す。艶のある金属部分が部屋の蛍光灯を強く反射した。

 壁にかかった時計の秒針が空白の時間を刻んでいく。連綿と続くようでいて、端から崩れ落ちていく足場のようなものを想像する。

 いつか落下する足場に私は追いつかれ、報いを受ける日が来るのだろうか。そうなった時、私を救ってくれる人はいるのだろうか。

 項垂れたまま右手で額を抑えた。頭が、痛い。


 翌朝、私は気だるい体を引きずって居間に行き着いた。

「ママ、やっぱり熱っぽい」

 昨夜の時点で具合の悪かった私は、ママにその事を伝えた。しばらく様子を見るといってベッドの中に入り、もう一度眠りにつく。夜中に目を覚ましたような気もするが、あやふやな夢だった気もする。

 悩みごとの洪水が脳みそを浸し、やつれていく。考えすぎた頭をひっくり返すような不快感が、むしろ爽快な気さえしてくる。このままどうにでもなれ、私はそんな風に考えた。

 身支度を整えたママはしゃがみこんで冷たい手のひらを私の額に押し当てる。まあ、と短い声を上げて私の顔をまじまじと見つめた。化粧品の独特な香りが、いつもより濃く感じた。

「昨日と比べてどう? 頭痛は? 吐き気は? 関節痛とかはない?」

 朝だからなのか、時計を見ながら尋ねるママは少し急いでいる様子だった。心配をかけてしまうと思った私は心の中で囁く。こんな時に、ごめんなさい。

「頭は痛い。でもすぐ寝てればよくなると思う」

 私は言葉に申し訳なさを滲ませたけど、ママに届いたかな。

「だめよ、病院に行かなきゃ。パパ、あとでメールするわね」

 そう言い残すと、ママは玄関に向かっていった。スマホを取り出しながら私に手を振る。

 握った手のひらを、胸の前でギュッと固めた。

「くるみ、病院にいくまでは寝てなさい」

 ママと同じように私と目線を合わせたパパは、さっきまで啜っていたコーヒーの香りを仄かに漂わせながら私の背中を押す。

 優しい瞳と語り口調。もう一緒に本を読んでなんて言えないな。

 押し戻された布団の中にはまだ温もりが残っていた。掛け布団を口元まで引き上げてパパを見上げた。

「パパもママも今日は少し家を空けないといけないから、ごめんね」

 床についた私はパパからの言葉を諾々受け取る。

 返事だけ口にすると、再び眠りにつく。加速していく頭の痛みは、まどろみの中へ私と一緒に落ちていった。


 午後、小児科医を受診し終えた私はパパと一緒に家に帰ってきた。

「ごめん、くるみ。パパ、四時頃には帰ってくるから」

「うん、大丈夫。お仕事行ってきて」

「戸締りはしっかりして。あと火は使わないようにな」

「分かってるって。大丈夫」

 もう一度謝ったパパは、玄関で大きめの傘を持って外に出た。

 いつからか強めの雨が降り注ぎ、僅かな戸の隙間から冷たい風を運んでくる。

 休日でもないのに家にいる感覚と、誰もいなくなったわが家に新鮮な気持ちを覚えた。

 テーブルに置かれたビニール袋。中身はコンビニで買ったおにぎりとサンドイッチ。

 手を首元に入れると、びっくりするくらい熱くなっていた。体温は想像以上に高く、居間でテレビを見ながら昼食をとるなんてできそうにない。

 昼過ぎになった一人きりの家の中で、私は一層強くなる頭痛を憂い自室へ戻った。

 久々にひいた風邪は思ったよりも具合が悪くて少しだけ辛かった。

 私の塾通いの為に用意してもらった子ども用のスマホに、母親からのメッセージが来ていた。熱い指でスワイプし、予測変換で出た言葉をそのまま返事にする。

 画面から目を離した時、頭の痛みが増してきた。

 お茶でも持ってくればよかったな。

 後悔を胸に抱いたまま暖かい布団の中で目を閉じる。薬が効いてくるのを私はひたすらに待った。


『くぅちゃん。私、待ってるよ』

 響く彼女の言葉が頭を突き刺す。誰もこんなこと、望んだわけじゃないのに。


 雨音が窓を叩く。どのくらい時間が経ったのか。自分の体じゃないような重たい体を持ち上げる。

 世界が歪んで見えた。壁にかかった時計も、クローゼットも、扉でさえも愉快に動き回ってちっともその場に留まろうとしない。

 何かあったら電話して、とママが言っていた気がする。だけどこれがその『何か』なんだろうか。

 今の私には判然としなかった。

 突如鳴り響いた玄関のチャイム。誰かが家に来た。

 窓から染み出すような雨音が、耳障りなノイズを生み出す。

 昨日からずっと寝ていたせいで、気分転換でもしたかったのかもしれない。私は時計の針が何を指しているのか分からないような状態なのに、訪問者に応えようとした。

 頭痛は軽くなっていたが足元はふらつく。壁に体を擦り付けながら廊下を進む。

 もう一度チャイムが鳴る。

 パパはまだ帰ってきてないみたい。今更そんなことに気が付いた。

 私の家には門がついてて、そこにインターホンが置かれている。玄関口にもあるが、わざわざ門を押し入って玄関まで来る人はいない。押されるのはだいたい門のインターホンだった。

 だけど、今日の人は違う。

 玄関で立ち尽くす私。扉についた縦長のすりガラスの奥、人影が見えた。

 門に鍵はかかっていない。開けようと思えば外からでも開けられる。

 扉を挟んだ向こう側の人は、そうまでしてここまで来た。

 何のために? 

 首をぎゅっと絞められるようなおぞましい気配。心細さに拍車をかける閉塞的な雨の音。

 病気になって熱が出て、家の中に一人取り残されても、それほど怖いとは思わなかった。

 だけど、そんな強がりはもうおしまいだ。

 パパ、早く帰ってきて。私は心の中でそう叫び、戦慄く膝を無理に動かした。

 具合が悪いのとパニックによる思考の逆流が、まともに体を機能させない。

 耳の奥から心臓の音がじんじんと伝わってくる。悲鳴も上げられないカラカラの喉が、薄い空気を求めて何度も息を吸い込んだ。

 どこかでパトカーのサイレンが鳴る音が聞こえる。しかし、それが現実なのか幻聴なのか、判別がつかなかった。

 私は生唾を飲み込み、その場で膝を折る。

 警察の訪れによる安堵より、犯罪の濃度が上がったことへの戦慄が勝った。

 すりガラスの影が曇る。恐怖の主は、家の中の様子を窺っているようだ。

 私は思わず小さな悲鳴を上げる。

 家に誰もいないと分かれば、この不審者は何をしでかすか分かったものではない。

 なんでもいい、何かしらの物音を立てて居留守の存在を証明しなければ。

 私は意を決する。熱に浮かされた頭は既に正常ではなくなってきていた。

 自暴自棄に陥った胸の内は、何を望んでいるのかもうよくわからない。

 玄関から遠ざからず、這いつくばったままドアに近寄った。

 雨はさっきパパを送った時よりも激しく強くなっていた。半端な音では気が付かないかもしれない。三和土に肘をついて、壁際に置かれた銀色の傘立ての縁に手をかけた。私はその中から手近な一本を掴むと、体重をかけて傘立てを勢いよく倒す。

 金属を叩く鋭い音。わんわんと響く頭の上に傘の柄がのしかかった。浅い呼吸をしっかりと吐き出して、玄関の土っぽい匂いを吸い込んだ。

 強い衝撃でそのまま動けずにいると、しばらくの静寂がやってきた。上気する頬が熱い。

 頭上にある傘の柄をどけながら、そっとドアのガラスを見た。いくらなんでもやりすぎたかな、と自嘲気味に考えていた私は、影が小さくなっていることに気が付いた。

 目をしばたたかせてその妙な違和感の正体を探る。

 しゃがみこんだ不審者の影は、どう見ても大人のそれではない。いやそもそも、あの影が空き巣だったとして、インターホンを押す為だけに玄関口まで入ってくるだろうか。

 侵入経路を玄関に設定しているのもおかしな話だし、たとえ居住者が在宅かを確かめる為だったなら、対面するのは最も避けたいはずだ。

「だ、誰?」

 振り絞った声が聞こえたかどうかわからない。だけど、ドア越しに立っている人影は心配そうに尋ねてきた。

「くぅちゃん、いるの? 大丈夫?」

 思い出したかのように胸の中心が熱くなった。今まで保ってきた胸のつかえが下りる。

 ドアの向こう側から聞こえてきた声。優し気に、親し気に、私の名前を呼ぶ。

 グラグラする床に手をついて鍵を開ける。私はゆっくりと開くドアの隙間に視線を向けた。

 そこには、濡れた髪の毛を抑えながら、私を覗き込む早苗の姿があった。


「傘、直してくれてありがと」

 私はベッドで横になったまま早苗に告げた。後ろ手に部屋のドアを閉めた彼女は微笑んだ。

「いいよ。それより、熱の具合はどう?」

 膝をついて私の額に振れる早苗は、とても慣れた手つきだった。

 長い睫毛の下の瞳が私を憂いて見つめる。大人っぽい彼女の髪が艶っぽく光った。

 どうして、早苗にはこんな雰囲気が出せるのだろう。どうして、こんな彼女があんな目に合わなければならないのだろう。

 私は動悸が強くなるにつれて揺れ動く掛け布団に気が付く。早苗に見られるのが恥ずかしくて、胸の上に手を添えた。

 鼓動が早く、強い脈拍。私はみっともないくらい緊張していた。

 早苗にどうしても言いたいことがあったけど、それをどう伝えていいか分からずしどろもどろに視線を彷徨わせる。

 彼女は私の前髪を綺麗に整え微笑みを作った。まるで母親然としたその仕草に私は疑問を持つ。

 同じ年のはずなのに、早苗は一体どんな生き方や経験をしてきたのだろう。誕生日だって、特別早生まれというわけでもない。早苗の産まれ持った才能は塾に通う子でも容易に見出だせるものではなかった。

 いや、考えても無駄なことだ。早苗とは、一段も二段も先をいく、想像を超えていく、そういう人なんだ。

 だからこそ、私は納得がいかず歯噛みする。

 胸の上で組んだ両手を握りしめ、勇気を振り絞ってかさつく声を上げた。

「さなちゃん。なんで、あんなことしたの?」

 心臓の音が弾けるように鳴る。私は理由が欲しかった。早苗を蔑んでしまった自分への懺悔と、彼女が思い描いていた理想の為の。

 早苗は笑顔を崩さないまま答えた。

「ごめんね、くぅちゃん。嫌な役ばかり押し付けて」

 私は熱に浮く自分の感情を昂らせる。『嫌な役』? それは早苗がやっていることでしょう?

「さなちゃん」

 私の呼びかけを遮って彼女は続けた。

「本当はいい子なんだよ。彩奈も、美歩も。ちょっと出来心で、自分でやりましたって、認めてくれるか試したかっただけ」

 汗のひかない私の顔を満足げに眺めた後、彼女は時計を見上げる。

 彼女には全てがお見通しなのだろうか。図書室で早苗の眼鏡ケースを見つけた後、私は早苗にそれを渡した。

 彼女が物を失くすなんて珍しい事だった。うっかりでも、大事なケースを失くしたりなんかしないだろう。

 先生を通じて彼女の眼鏡ケースが失われていることは、クラスメートには周知のことだった。それとなく先生たちも探してはくれていたのだろう。だから私はそれを見つけた時驚いた。

 まるで誰かにねじ込まれるようにして書架と壁の隙間に挟まった眼鏡ケース。明らかに悪意を持った誰かの仕業だった。

 早苗をねたんでいる人は多いのかもしれない。だけど私は彩奈と美歩の雰囲気からなんとなく彼女たちが関与してるのを知っていた。知っていたけど、それを見咎めることはできなかった。

 私がそれを疑い始めたら、問い質したり正義を執行したりし始めたら、次の標的は自分になっていたかもしれない。

 そう思うと、背筋が凍り付く思いがした。

 今まで築いてきた私の立場と、早苗との友情を天秤にかける。私にとってそれは自分を引き裂くような行為だった。

 必死に考えた私は、酷く傲慢で強欲な決断を下す。

『さなちゃん。これ多分、彩奈と美歩がやったんだと思う。でも確証はないから、落ちていたのが見つかったことにしよう。私、これ以上さなちゃんが孤立していくの、見たくないよ』

 自分だけ助かろうとして、彼女に嫌な役を押し付ける。それはまさしく私の事だった。身勝手で欲張りな浅知恵。私は自分の周囲に固執したまま、早苗にもゴマをすっていた。

 でも早苗はそんな思惑さえも許容して私の心に歩み寄る。

 罪悪感で一杯の胸の中を見透かして、優しく抱きしめてくれる。早苗は、とてもいい子だ。自分のことを後回しにしても、私のような人に手を差し伸べてくれる。昔と変わらない笑顔でいつまでもいてくれる。

 それに甘えて、縋って、嬉しいと思ってしまう自分自身が、とても嫌だった。

 中途半端な自分と早苗を勝手に比較して彼女を恨む。それを劣等感と呼ばずしてなんと呼ぶのだろう。私に足りないものを、彼女は沢山持っていた。

 すっくと立ち上がった早苗は私に告げた。

「じゃあね、くぅちゃん。また元気になったら学校で会おう」

 待って、私まだ謝れてない。さなちゃんのこと、利用したのに。

 ぼうっとした頭でそう考えたけど、もう声が出せそうになかった。視線だけ彼女を追いかけて、あとは闇の中に消えていってしまう。後悔とわだかまりにまみれて身動きが取れない。

 まどろみの中でさえ、彼女の姿ははっきりと見えた。


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