申し開き 【二】
家についた私は玄関の扉を閉めて深いため息をついた。
呼吸すればするほど酸欠になっていくのが苦しくて、一杯にならない肺をさらに膨らませる。
早苗の眼光が忘れられない。胸のどこかにぽっかりと穴を空けられた気分だ。
靴を脱いで玄関から上がった。ただいま、と声をかけたがもちろん誰も家にはいない。
適当にランドセルを下ろしソファに深く座る。沈みゆく私の体を柔らかなクッションが支えた。肘掛けに腕と頭を預け、足を伸ばし横になった。
頭の中を今日の出来事が駆け巡る。
私の選択は正しかったはずだ。他にああするしかなかった。それを全部台無しにしたのは早苗自身。私は何も悪くない。
彼女が完璧であるが故に招いた結果がこれだ。あの頃の私がそんなことに気付くはずもなく、もしこうなると分かっていたのなら、私はどうしていただろうか。
優しくて、強くて、私にだけ特別な笑顔をくれる、親友。
私は奥歯を噛んでざわつく胸の痛みを堪えた。
「なんだ、見つかってんじゃん」
休み時間の教室。美歩が告げる。彼女が見つめた先に、着席した早苗の姿があった。
「必死に探したんじゃなぁい?」
聞こえるか聞こえないかのギリギリの声量で、彩奈は声をだした。教室のざわめきは、うまく私たちのおしゃべりをかき消してくれただろうか。
早苗はフレームの細い眼鏡をかけると、パチンっと水色の眼鏡ケースを閉じて手提げに入れた。気にしている素振りのない後姿へ、私はやはり聞こえない声で呟く。
「そんなだから、失くすんだよ」
誰かの笑い声。楽しい雰囲気の教室内に授業が始まるチャイムが鳴る。先生が声をかけ始めた。
「やば、またね」
そう言って美歩は自分のクラスへ戻っていった。彩奈はそれを見送りながら言う。
「美歩に毎回来てもらってるから次は彩奈たちがあっちのクラス行こっか」
「うん」
私はそう返しながら視線を留めたままだった。授業が始まる前からきちんと居住まいを正す早苗の背中を、じっと見ていた。
彼女の背中が寂しそうに見えたのは、いつからだっただろうか。
昼休みの時間が来て、私たちは美歩のいるクラスへ赴いた。
全校生徒の数が多いこの小学校は、六年間でクラスが一緒にならなければ縁も所縁もない生徒が数名いても不思議ではなかった。
臆病な子は別のクラスに入る事を躊躇うかもしれないが、私はそんなことを微塵も気にしなかった。
「あ、くるみだ! 久しぶりー!」
「光島だ、おーい」
軽く手を挙げて笑顔で返す。男女問わず私には友達が増えた。教室を移動する時も、公園で遊ぶ時も、同学年なら誰しもが私に声をかけるだろう。
特段私に変わったところはないはずなのに、周囲の反応は明らかに以前とは比べ物にならない程、私を高みへと導いていった。
ただ私は、彼らに求めるものを与えただけだ。増長する意志を止めることなど私にはできなかった。
「くるみ、彩奈、来てくれたんだ! 嬉しい!」
明るく声を上げる美歩の席に近付いて、私たちは椅子に腰を下ろした。
「美歩なにしてんの? 宿題、やってこなかったの?」
彼女の机に広げられた算数の宿題プリント。半分ほど埋まった空欄と、散らばる消しカス。持ち手がカラフルな鉛筆を握りしめて美歩は言う。
「違うの、聞いて! 美歩、家にプリント忘れただけなのにもう一回同じやつ今日中にやり直しって言われて、もうマジで最悪!」
口を尖らせた彼女に、軽く笑いながら彩奈は告げた。
「うわ、それめんどいねぇ。岡田先生マジで怖いから」
教室には数名生徒が残っていたが、誰も私たちが担任を悪く言うことに異を唱えることはしなかった。それくらいこのクラスの担任は恐怖の対象で、『ハズレ』と呼ばれる先生の代表格でもあったのだ。
担任を知った時の四月、美歩のげんなりした顔を思い出す。
私は長い前髪を耳にかけて椅子を隣に持ち寄る。
「いいよ、私が代わりにやってあげる。終わったら遊ぼう」
プリントに見覚えはなかった。まだ出されていない範囲なんだろう。でも、大して難しい内容じゃない。
「くるみ優しい! 頭いいし可愛いし、運動神経もよくて、いいなー」
寄りかかる美歩の体を押し返しながら私は告げる。
「はいはい、ありがと。そこ、答えは十六。で次が二十二」
憧れの存在になったというのに、私は何一つ満たされないままだった。空腹の体が感じる飢餓状態。何を食べても満足できず、何を飲んでも潤わない、私の心。
早苗との出会いが私を無自覚のまま変えていったのかもしれない。あの遠くに光る一番星のように思えていた彼女の場所に、今、私がいる。それなのに、どうしようもない程の虚無感がざらつく私の心の中に居座り続けていた。
運動も、勉強も、見た目だって性格だって、周囲の人は私を認めてくれた。生まれ持った才能を開花させた私。私がそうやって手に入れた栄光を剥奪できる人などこの世には存在しない。
出来損ないの頭、不細工な顔面、コミュニケーション能力の欠如、それを露ほど気にしていない能天気。どうやったらそういられるの。どうしてそのままでいられるの。なんの取柄もない人間を見ているだけで、私はイライラしてしまう。そんな自分を許してしまう怠惰な人生だけは、絶対に送りたくなかった。
私をそんな風に変えたのは、早苗なのだろうか。
「あ、あの」
私の背後から声が聞こえてきた。消え入りそうな声の主は、小太りといって差し支えない体型の短髪の男子。
なんか、たまに見かける。そういえば三年生の時同じクラスだったかも。
印象の薄い彼が私たちの楽し気な会話を遮ってまで声をかけた理由。美歩の知り合いだろうか。私が何か言う前に、美歩が機先を制した。
「なに、あっちいって」
鋭い言葉の刃に怯えた彼はモジモジしながら言葉を失ってしまう。彩奈が鼻で笑ったのを聞いて、さらに彼は委縮する。
目線を下げた彼。用があるのは美歩じゃない。私は机の中を首を傾けて覗いた。中に入っているのはノートと道具箱と筆箱。とりあえず山勘で出してみる。
「何か取りに来たの? 筆箱?」
四角く無骨な筆箱を差し出しながら彼の顔を見た。緊張して強張った顔が少しだけ解ける。だが、首を小さく横に振って彼は小声で言った。
「ノート……」
再び私は机を覗き込み、該当する探し物に目を光らせた。
「くるみ」
美歩が何か言おうとしたが私は無視を決めこんで一番下に入っていたキャラもののノートを引っ張り出す。何かのゲームだったかアニメだったか、よく覚えてない。
差し出したものを今度こそ受け取ると、彼はもう一度小声で言った。
「ありがとう」
「それ、ゲームのやつだっけ、かわいいよね」
私の言葉に頷く彼は僅かにはにかんだ。しかし、美歩と彩奈の視線に耐え切れず、表情を固しながらそそくさと教室を出ていってしまった。
呆れたような美歩の声が隣から聞こえてくる。
「いいよくるみ。あいつに優しくしなくても。てかあいつ給食の食い方マジで汚いから。隣の席めっちゃ嫌なの」
あ、と思い付いたように美歩は続けた。
「下になんか落ちてない? 椅子とか汚れてない? ごめん、くるみが座る前に言えばよかった」
ええ!? と仰々しく驚いてみせる彩奈を他所に、私はズレた彼の机を整えた。
「大丈夫、何も落ちてないよ。いるよね、六年にもなって箸も綺麗に持てない奴って」
薄く笑った私の顔を見て彩奈が便乗する。
「いるいる。矢口っているじゃん? あいつまだグーで持ってるし」
高笑いする美歩は面白がって鉛筆の持ち方を変えてみせる。拳をつくって汚く答案を書く。歪に引きずられた鉛筆の線が数字にも見えない奇妙な足跡を残した。輪郭を付けると、さっきの彼の顔に似てないでもない。
私は軽く鼻を鳴らして、
「止めなよ。ほら、早く終わらせないと岡田先生に怒られるよ」
「あ! それマジやばい!」
消しゴムで落書きを消しながら、美歩は派手な鉛筆を持ち直した。