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申し開き 【一】


 放課後の図書室、古ぼけた香りがどこか祖母の家と似通っていたのを思い出す。ずらりと並んだ書棚に隙間なく詰め込まれた児童文庫。優しい読み物の背表紙には、明るい色のシールが貼られていた。

 読んだことのある本を指でなぞらえる。読書家だと思っていた割には、記憶にない書籍の多さに驚いた。興味のない分野に手をつけてはこなかったが、それ以上にある本の多さに圧倒される。

 久々に立ち寄った図書室は、早苗とよく本を借りにきた場所だった。まだ善と悪を知らない二人だけの世界。邪魔するものなんか何もなくて、ただただ絵と文字で綴られた内容だけが、二人の前に広がっていた。

 篠崎早苗。小学校に入学してからすぐに仲良くなった、私の友達。

『くぅちゃんも、その本好きなんだ』

 こども園からの友達が少なかった私、光島くるみに彼女はそう声をかけてきた。なんて返したかは朧気だったけど、多分私は笑っていたと思う。

 休み時間になると大勢の中から進んで鬼役を買ってでた早苗。男の子でも女の子でも、誰が相手だろうと彼女からは逃げられなかった。感心する私の隣で、ずるい、そう呟いた男の子がいた。

 私はそれを聞いて、ちょっと面白く思った。

 溌剌とした性格と明るい笑顔。ものわかりのいい頭脳と慈しみのある親切心。彼女の隣にいるだけで、私まですごい人になれる、そんな気がした。彼女を嫌う子なんているわけがない。周りの大人だってみんなそう思っている。早苗を見放すことなんて、誰ができるだろうか、彼女はいつだって舞台の真ん中に立つ、お姫様なんだ。私は心の底からそれを信じていた。

 でも、そうじゃなかったんだ。

 チャイムが鳴ると、本棚の脇にいた低学年の男の子が急いで教室に戻り始める。足音が廊下に響き、カーテンのレースが少しだけそよいだ。床に差し込む光が形を崩して揺れる。

 窓から見える校庭の奥、青々とした山が茫漠と横たわり、中腹に建つ銀の鉄塔からは長いケーブルが橋を架けるように伸びていた。浮かぶ雲の影がふわりと移動すると、別の影と合流する。辺り一面が暗くなり、輝いていた太陽が雲に隠れる。

 空調の駆動音が頭上から降り注いできて、冴えた私の頭の上に、かーんと何かが落ちてくるような衝撃が走った。

 あった、ここに。

 カーテンレースと低い本棚の隙間、淡い色が見えた。窓に近付くと綺麗な水色をした箱が目に入る。花の模様を小さくあしらった横長の流線型。使ったことはないけど、何に使うかは知っている。

 私は隙間に押し込まれたそれを拾い上げる。見覚えのあったその早苗の眼鏡ケースは、一昨日から紛失しているものだった。


 教室の窓から見慣れた外の景色を眺める。寒空の下、畑に差し込まれた農具を見下ろす。結びつけられた白いビニール紐が、透明な風であおられた。

 どうしてあんなところにあるのか。誰があんな風にしたのか。見ているだけの私には、わからなかった。吹きすさぶ風に曝され続けて、散り散りになった白く細い線。

 私は顔を正面に戻した。担任の先生が回転椅子から立ち上がり、ホワイトボード前の教卓に手をのせる。恒例になった先生からの号令を、皆の耳が待った。

 机の上に並んだ色とりどりのランドセル。消し残されたマーカーのカス。先生の持ち寄った歴史系の本。効きすぎる暖房。もう何度も聞いた下校時の注意事項。

 起立、と学級委員が指示し皆席を立つ。号令が滞りなく行われると、床に椅子を引きずる音が重なった。本業が終わった六年生たちは、各々挨拶を吐き自由に下校を始める。

 混み合う廊下が嫌だった私は、端の席から遠巻きに廊下側を見ていた。

 号令後すぐに教室を飛び出して、待っていた友達に声をかける頭の悪い子。教室に残ったままランドセルから何かを探す忘れ物の多い地味な子。頼まれたわけでもないのに担任とヘラヘラ楽し気に話す空気の読めないお気楽な子。ランドセルを背負って長い髪の毛を払う私。その元へやってきた二人の女友達。

 ダボダボのパーカーを着たボーイッシュな彩奈。

「くるみ帰ろぉ」

 その隣で髪を二つに結ぶ少し背の低い美歩。

「今日くるみの家で遊べる?」

 厚手のニットの上から柔らかなボアジャケットを着込んだ私は返事をする。

「帰ろ、でも家は無理かも。ママに聞いてみる」

 帰り道が近かったこともあり、二人とはいつも登下校を一緒にしていた。廊下にはまだ話し込む人たちの姿があったけど、今日はなんとなく足早に帰りたい気分だった。

 昇降口を降りて自分たちの下駄箱から校庭に出る。他愛もない会話をしながら三人で校門に向かった。

 広い校庭からは、大きな体育館が見える。卒業式に飾る為の鉢植えが、所狭しと体育館横に並んでいた。錆びた金属の柵、ひび割れを塗り固めたプールサイド。蛇口が並んだ背の低い水道。

 もうすぐこの場所とも、さよならだ。

 校門までもう少しといったところで、一人の女の子が立っているのが見えた。

 デニムのパンツ。ゆったりとした桜色のカーディガンと長袖の白いシャツ。すらりと大人びて見える容姿に、細いカチューシャが丁度よくバランスを取る。

 小さな頃からきりっとした目元が知的で、ユーモアのある話し方に憧れを感じていた。どんなことだって一人でできて、家だってお金持ちな、抜群に見た目のいい女の子。

 他を圧倒する、篠崎早苗。

 早苗に欠点があるとするならば、彼女に振りかかかる身勝手さの原因が、自分自身にあると気付いていないというところだろう。

 早苗は告げる。

「原口さん、武本さん、あとくぅちゃんも。話があるんだけど」

 私はぐいと生唾を飲む。

 なんで、早苗。

 名字を呼ばれた彩奈と美歩はこと不機嫌そうに言った。

「なにか用ですか、篠崎さん」

「私たち早く帰りたいんだけど」

 凄んだ彼女たち。しかしそれに負けない早苗の剣幕。

 そう、早苗はそんな脅しに怯むような子じゃない。

「私の眼鏡ケース、隠したのあなた達だよね?」

 冷たく言い放つ早苗の言葉に、胸の内側が強く押され鈍い痛みが走った。

 早苗、だめだよ。

 薄く笑った彩奈が言葉を返す。

「はぁ? 何言ってんのぉ?」

 美歩も続けざまに言う。

「あんたが勝手に失くしたんでしょ?」

 そうだよ、早苗。ケースは失くした。失くしたんだよ。

 私は心の中で必死に呟いた。

 視線を逸らさない早苗に向かって二人は続ける。

「自分の物くらい自分で管理しなよぉ」

「言いがかりつけないでもらってもいいですか」

 これ以上ないくらいに調子付いた彼女たちは、後もうひと押し、そう言いたげに私の方を向く。

 暗い色。私はそんな瞳をしていたに違いない。

 できたての瘡蓋をとった後みたいなグロテスクな皮膚を想像し、ひしと感じるもう一つの視線を辿った。

 早苗と目が合う。

 私には特技があった。どんな人でも、話をしていればその人が何を欲しがっているのか、なんとなく理解できた。

 話を聞いて欲しい、誉めて欲しい、笑って欲しい、かまって欲しい、羨ましがって欲しい、肯定して欲しい、同調して欲しい。そして、一緒にあの子を蹴落として欲しい。

 二人の瞳には、それがありありと示されていた。

 だけど早苗は、早苗だけは。私には何を考えているのかが全く分からなかった。

 私は彼女を理解する勇気が足りなかったのかもしれない。

 いつの日だったか、劣等感を産みだし続ける彼女の存在は、学年の中で浮き出し始めた。私は彼女の為に、何を理解してあげられただろうか。

 動揺を悟られまいと私は毅然な態度で言い放つ。

「何か証拠でもあるの?」

 風が彼女の長い髪の毛を揺らした。口を噤んだ早苗は少しだけ間を置いて告げる。

「……そう。ごめんなさい」

 ふいと顔を背けた彼女はそのまま校門を抜けていく。誰よりも強い背中を、寂しげに見せて。

「なぁにあれ」

「だっさ」

 笑い合う二人に合わせて私も愛想よく振る舞う。

 目を伏せた一瞬の内に切り替えて、ぐちゃぐちゃの頭の中をどうにか抑え込んだ。二人に顔を見られたくなくて先頭に立って言う。

「私たちも、早く行こ」

 包丁の刃の部分を握るような、痛々しい感覚が身体中を巡る。

 際限のない罪から逃れる為に弾き出された私の答えは、彼女への侮蔑だった。

 全部、さなちゃんが悪いんだよ。


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