第二章「涙の国」②
君主らが帰国すると、涙の国の民たちは歓喜の熱に浮かされた。
あちこちから勝利の凱旋を喜ぶ声と、歌、音楽が聞こえてくる。
そんな熱を浴びるのは初めてで、レクスは君主の外套から頭だけを出して辺りを見渡した。
美しい隊列を成して練り歩くかの軍に、民らは沿道という沿道を埋め尽くして手を振っている。
また民家の二階からも手をふる幼子がいて、国の真ん中にかかる橋では踊り子が喜びを表し舞っていた。
兵士らと同じで、町の人々も当然、多種多様な姿だった。
ある者には耳があり、ある者には角がある。
けれどそれをどうこう言うものはなく、中にはレクスのように、首に蛇を巻くものもいた。
「わあ……」
呆けた声を出して、レクスが目を丸くしていると、そばを歩く獣耳を生やした兵士の一人がいった。
「どうだ、すごいだろう」
「ええ、とても!」
レクスはぶんぶんと大きく頭を振って頷いた。
「今夜は宴だ。お前も参加するといい」
「いえ、でも、私は」
「あんた、あのエルの兵士たちに一人で立ち向かったんだろ。だったらもう俺たちの仲間だ!」
獣耳の兵士はわしゃわしゃとレクスの頭を撫でまわした。
レクスの胸は、じんわりと温かくなった。
こういうことは、レクスの故郷ではただの一度もなかったのだ。
「閣下! いいですよね、こいつも一緒で!」
じろり。君主の琥珀色の目が、獣耳の兵士をとらえた。
その鋭い視線に、兵士は一瞬だけたじろいだがそれでも視線を外したりはしなかった。
「……いいだろう」
「やった!」
耳がぴょこぴょこと動き、彼の尻から伸びるふさふさの尾がぱたぱたとはためいた。
理由はわからないが、レクスは彼に気に入られたようだ。
いや、彼だけではない。
ふとよくあたりを見てみれば、レクスに不快な視線を向けているものはいなかった。
(まだ、出会って数時間なのに)
ホーフ船長と出会ったときは、まだもう少し警戒されたものだ。
乗組員から「女子供はのせるべきじゃない」という声が出たのも聞いた。
けれど彼らは違う。
君主につかまれ、戦車にのせられた彼女を温かく迎えてくれた。
「その前に、色々とお話はうかがいますよ。お前はヘヴェル卿の部隊でしたね、持ち場に戻りなさい」
「げ、イーシュ副官! 了解で~す!」
獣耳の兵士は、声の方をふりかえるとそそくさと後退していった。
どうやら持ち場はもう少し後ろだったようだ。
彼の立ち位置には、かわりに小柄な剣士が現れた。
他の兵士とは少し装飾が違い、その背には外套が縫いつけられている。
「全く。閣下に対して言葉遣いがなっていませんね」
彼はふっと息をついてから、レクスへ視線を投げつけた。
「よくみておいてください。我が国はこのように、多種多様な姿をしたもので溢れている。血気盛んで喧嘩が大好きな我々がまとまっているのは、ひとえに閣下のお力ですよ」
「血気……? とてもじゃないけれど、そうはみえません」
「今は気分がよくて皆、ハイになっているだけですよ。本性をみて、泣き喚かぬよう」
それだけ伝えると、彼は少し前に出た。
レクスとはそれきり、話すことはしなかった。
(今のは忠告? それとも……)
確かに今は民らも兵士らも、皆が一様に興奮状態だ。
いわばお祭り騒ぎといった様相で、もちろん通常状態ではないのだろう。
レクスは、空を見上げた。
青い空と白い雲。その隙間から、太陽が在る。
(──アマテルさま。私はきっと大丈夫。だってこの方からは、貴方と同じものを感じるのです)
ふいに、太陽が陰って視界を君主がジャックした。
彼はレクスを見下ろすと、ぐい、とその大きな手で自身に寄せた。
「え、あの」
「大人しくしていろ。この先は揺れる」
いうやいなや、ガタン、と戦車が大きく揺れ出した。
みれば石畳の階段をのぼっているようだった。
舌を噛みそうになりながらも、レクスは君主にしがみついてその揺れをなんとかやり過ごした。
ほどなくして、もう一つ、大きな門が見えてくる。
門は大きな音をたてて二つに分かれると、君主らを中へ誘った。
「ようこそ、我が城──『シタデル』へ」
レクスは目を見開いた。
門の奥にあったのは、険しい岩山と一体化して出来た大きな要塞だった。
アマテルの屋敷とはまた違った威圧感に、レクスは思わず口を開けてしばらく惚けていた。
◆
城塞の内部へ入ったレクスは、君主の間に招かれていた。
高い天井と、広い石畳の床。
彼は中央の玉座に腰かけ、レクスをじろりと睨みつけていた。
レクスはしかし、そんな視線を受け流して会釈すると、腰から刀を取り外して目の前に置き、床にひざまずいていった。
「改めまして、遠く、海の果ての島国より参りました。名をレクスと申します。この度は助けていただき、本当にありがとうございました」
そんなふうに微笑む彼女を見て、君主はため息をついた。
それから諦めたように、彼は言った。
「この涙の国の君主、モナークだ。貴様のいう神さまなどでは、決してない。二度とそう呼ぶな」
その語尾の強さに、レクスはわずかにたじろいだ。
本当にそう呼ばれるのが嫌なのだろう。そう悟るには十分だった。
(それが何故かは、私にはわからないけれど)
レクスは頭を伏せた。
それから、「わかりました」と頷いた。
「して、娘。お前の目的はなんだ? エルの兵士とやりあっていたようだが。我が国に行きたいなどと、この大陸のものはそう言わないぞ」
「もちろん、御恩を返させていただきたいだけです。なんでも致します。私にできることでしたら、なんでも!」
途端に声音を明るくして、レクスは言った。
目を輝かせて、君主を見つめている。
まるで子犬だ。主人の役にたちたいと足元を駆けまわる子犬。
君主はふむ、と唸った。
この国の民や兵士と比べて、このレクスという娘はあまりにも華奢だった。
できることなど、あるのだろうか。
「なんでもというが、お前には何ができる? 何かしてみせれることはあるのか」
君主がそう尋ねると、レクスは人差し指を口元にあてて、「うーん」と唸った。
「そう、ですね……そういわれると、ぱっとは思い浮かびません……」
考えれば考えるほど、わからなくなった。
よく考えれば、アマテルのそばで仕えていた時も、何か役に立てていたという実感はない。
自信をもって自分で出来ること、といえば戦うことくらいだ。
アマテルから授かった力はもちろんあるが、それをうまく説明できる気もしない。
兄弟たちのように機織りができるわけでも、料理が特別うまいわけでもない。
(私がお役に立てること……)
恩を返したいとは思った。
けれど具体的に何ができる、と思ったわけではなかった。
ふいに、レクスの外套の中から、蛇が姿を現した。
彼はぬるりとレクスのそばから離れると、君主に向かって顔を上げた。
「あっルイ、ちょっと」
レクスの制止もむなしく、ルイはにこやかに微笑んでいった。
「やあ、モナーク。久しぶりだね」
「……お前は……」
君主は目を見開いて、ルイを見た。
口ぶりからするに、知り合いなのだろうか。
「この子の有能ぶりは僕が保証しよう。必ず君たちの役に立つよ」
「ルイ……」
「ちょっとドジだけれどね」
「ルイ!」
頬を膨らませてレクスが抗議すると、ルイは舌を出していじわるっぽく笑って見せた。
君主はしばらく手を顎に当てて黙ったあと、副官のイーシュを呼びつけた。
「はい閣下。何か御用でしょうか」
「この娘に部屋を。それから、何か仕事を与えてやれ」
「正気ですか? こんなか弱い小娘に、仕事を?」
イーシュは腰に刀を差しなおすレクスを横目に、口をあんぐりと開けて驚いた。
彼の知る限り、この城塞内ですぐできる仕事など、力仕事は山のようにあっても、小娘ができるようなことは何もない。
「使えなければ遊ばせておけ。それでも何か雑用程度には使えるだろう」
「はっ……かしこまりました」
さて、彼女にはいったい何ができるだろうか。
イーシュは頭を悩ませたが、まるで何も思い浮かばない。
「ええと……」
「レクスです。よろしくお願いいたします、イーシュさん」
「! 僕は貴方に名乗りましたか」
「いえ。でも、あの兵士さんが貴方をそう呼んだので」
無邪気にニコニコと笑う彼女をみて、イーシュはわずかに嘆息した。
行軍からの帰還直後だというのに、なんだか忙しくなるような予感が、彼を襲っていた。