表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/10

プロローグ②



 凄まじい唸り声をあげる海原を、レクスは客室から甲板へ続く階段の途中で凝視した。

 あれほど逞しく丈夫に思えたその商船は、今や沈没すら危ぶまれる事態に陥っていた。

 右へ左へ前へ後ろへと、その船体は激しく揺さぶられ、舵を取る男はいつになく声を荒げて叫んだ。



「野郎ども、気張れ! 気張れ! ここが正念場だ、ここを乗り切れなけりゃ、俺たちに『明日』はねえぞ!」


「「「ヨーソロー!」」」



 甲板で男たちが応えるように叫ぶ。

 その光景は、まるで戦のようだ。

 いや、実際そうなのだろう。これは海と彼らとの、生存競争なのかもしれなかった。



「凄い雨だね。いや、しょっぱいから波が跳ね上げてきた飛沫なのかな」



 ひょこ、とレクスの首元から深緑色の蛇が顔を出してそういうと、レクスは眉を八の字にした。



「ちょっと、ルイ、ダメだよ。危ないから外套の中に入っててって言ったでしょう」


「でも君だって船室に戻ってろと言われたのに、こうして出てきているだろう?」


「それは……そうだけど」



 頭からすっぽりかぶった外套には、ぱたぱたと水滴が叩きつけた。

 甲板と階段とを繋ぐ戸が十字枠のせいだ。その四つの窓には、板も硝子も入っていない。

 レクスは、その十字枠の戸をぐ、とわずかに持ち上げた。

 男たちが大忙しに右へ左へ駆けまわって、大きな荷物を移動させている。

 船の掲げる旗は、風に煽られ大きく歪み、描かれた青い大きな鳥の絵が確認できないほどだった。



「私にも何か、手伝えることがあればいいのに」



 甲板はひっくり返った樽から出たオイルや、打ち付ける波でびしょびしょのドロドロだった。

 そんな中を重い荷物を移動させているのだ。そのうち、誰か一人や二人、海原へと投げ出されたっておかしくはない。

 遠い海の向こう側、とある使命のためにこの海に一人船出したレクスを拾い上げたのがこの商船だった。

 小さな船でこの大海原へ挑んだ彼女は、その旅の最中で座礁しかけ、彼らと出会ったのである。

 そんな心優しい彼らを襲うこの試練を、どうにかして助けたい、とそう思った。

 出来るならば、誰一人も失いたくはなかった。

 レクスが不安そうにつぶやくと、ルイは「おや」と小首を傾げた。



「君、アマテルという神さまから貰った力があるんじゃなかったかい」


「!」


「強大な力なのだろう? 海を一人で渡ることを考えていたなら、こういう事態を想定して、渡したんじゃないか?」



 ハッとしたように、レクスは自分の手のひらを見つめた。

 そうしてすぐに立ち上がると、戸を開けて甲板へと這い出ていった。



「おい、娘! お前、何してる!」



 すぐに舵を取る男から声があがる。

 彼の隣でじ、とたたずむハシビロコウがこちらを凄んで睨んでいた。

 しかしレクスはそれに取り合わず、一目散に船首の方へ走っていった。


(そうだ、私、何もできないわけじゃない)


 ぐっと拳を握りしめて、レクスは船首に立つ。

 すぐ下には荒れ狂う海原が見えた。そのあまりの恐ろしさに足がすくんだが、全身に力をいれて天へとその両腕を伸ばした。


(アマテルさま、アマテルさま。私に、どうか力をお貸しください)


 分厚い真っ黒な雲の奥。

 ここより遠い島国の空へ思いを馳せ、レクスはその両手をそっと広げ、祈りを捧げるように囁いた。



「──母なる海よ、その海原よ。怒りを鎮めたまえ、そのうねりを治めたまえ。我らは汝の敵ではなく、我らは汝の永遠なる友なり」



 胸の真ん中がほんのりと熱い。

 しかし不思議と、安心するような温かさだった。

 ああ、そうだ。この温かさは、アマテルの腕の中と似ている。

 そうして、わずかに『ちくり』と腹の底が痛むような気がした。

 何か小さな針に突き刺されるような、そんな痛みだ。


(もしかして……)


 この海原の中に住んでいる『何者か』の苦しみの具現だ、とレクスは思った。

 終わりのない痛みに、それが苦しんでいるのだ。

 その痛みを取り除けば、あるいは、この大嵐は治まるかもしれない。



「陽の光よ。この分厚い雲の奥に閉じこもるものよ。我が友を傷つけるものを取り除き、我が友の傷を癒したまえ──」



 舵を取っていた男は、目を見開いた。

 船首のあたりに、眩い光が見える。

 彼女の囁き声は、まるで聞こえてこなかったがそれでも彼女が何かしているのがわかった。

 無茶だ、と彼は思った。

 しかし舵を放り出して走ってはいけない。彼のこの手には、何十人もの乗組員の『明日』が掛かっている。



「船長! レクスを連れ戻しますか!」



 ぐ、と唇を噛んでいると、白髪頭の男がよろめきながら近寄ってきた。

 彼は男の目を見て頷き、レクスの方を指さそうと視線を向けて、そうして、叫んだ。



「いや、待て、あれをみろ!」



 船首の光はより強くなり、レクスをすっぽりと包み込むほど丸く大きくなった。

 それはまるで太陽のように煌々と輝くと、分厚い雲を貫くように空へと上がっていった。

 その次の瞬間、ドッと、空から光が落ちた。

 荒れる海原をいとも簡単にたやすく貫いて、その水底まで沈んでいく。

 光は水底へたどり着くと、わっと広がっていった。



「うわあ、海が光ってやがる!」


「なんだこりゃ、みたことねえ!」



 甲板にはどよめきと戸惑いが広がっていた。

 荷物を運んで走る彼らの足は止まり、揺れていた船体が穏やかになる。

 舵から手を離す。

 船首の光はパッタリ消えていて、そこには茫然とレクスが佇んでいるだけだった。

 彼女は、いまだ光る水底を覗き込むようにしてみていた。



 ──どんっ



 勢いよく、海の底から何かが飛び出した。

 はらはらと飛沫が雨のように甲板に降り注ぐ中、彼らの視線は『それ』に釘付けになった。



「で、でっけえクジラだ……」



 誰かのつぶやきが、レクスの耳に届く。

 手を伸ばせばすぐ届く範囲に、その鼻先はある。

 彼の大きな体は海に落ちることなく、レクスの目の前にふわふわと浮かんでいた。

 じろり、と巨大な目玉がレクスを見つめる。

 つま先から頭のてっぺんまで、値踏みをするように見つめたあと、



「フ、フフ、フ」


「?」


「ファッファッファッファッ!」



 クジラは大きく口を開けて大笑いした。

 何事かと目を丸くしたレクスに、彼は言った。



「よもや、ワシの腹を治したのが、このような小娘とは!」



 たったそれだけで、レクスには彼が『神さま』だということがすぐにわかった。

 彼女は礼を尽くすように、恭しく頭を垂れた。

 船員たちはというと何が起きたのかわからず、いまだ茫然としたままだった。



「何やらよくないものを飲み込んでしまったようでな。苦しくてかなわなかったのだ」

「よくないもの?」

「うむ、これだ」



 彼は、大きく口を開いて、何かを海へと吐き出した。

 それは、船のマストだった。

 折れたマストと共に、いくつかの船の残骸と思われるものも同時に吐き出された。

 男たちはそれを、少し青ざめて見つめた。

 それが何を意味するのかは、彼らがよく理解していた。



「さて、遠い島国より来る小娘よ。望みを申せ、褒美を取らせよう」



 レクスはふるふると首を横に振った。



「私の力ではございません。我が主からの賜りものにございます。ゆえに、望みはありません」



 そこには一切の遠慮も謙遜もなかった。

 彼女の本心そのものだった。

 望みはすでに叶っている。海は落ち着き、穏やかになっているのだから。

 しかし、彼は少し不機嫌そうに顔をしかめた。



「謙虚は過ぎると不敬である。……もう一度だけ言うぞ、望みを申せ」



 じわ、とレクスの手には汗が滲んだ。

 彼の発する突風のような吐息が、彼女に叩きつけられる。

 もう一度拒絶すればどうなるかくらいはレクスでも予想がついた。


(どうしよう。望みなんて、私には……)


 レクスは、ちらりと首元に蹲るルイを見た。

 彼はちろちろと舌を出し、しばしこちらを見つめていたが、何かに気が付いたように彼女の耳元で囁いた。



「船旅の加護を貰おうよ。そうしたら、もう二度とあんな嵐にあわなくて済む」



 レクスはその言葉に、ちらりと後ろを振り返った。

 ばち、と船長の男と目があった。

 するとレクスは、先ほどの謙虚さは嘘のように、じ、と彼のぎょろりとした目を見てこう言った。



「あの、貴方様の加護をいただけますか、古き海の神よ。できれば、ええと……この懐中時計に」



 彼女はカバンから古びた時計を取り出した。

 鈍い銀色の丸いそれを掲げると、彼はまた、大きく笑った。



「よかろう。よかろう。その旅路に、祝福と安寧を与えよう!」



 彼の頭から、わっと潮が噴き出した。

 否、潮ではない。それは小さな光の束だった。

 レクスの手の中に降り注ぐと、懐中時計は、ほんのりと光を帯びた。



「それが汝の手にある限り、海は汝をいかなる時も受け入れるだろう」



 クジラは満足そうに頷くと、ひと声大きく鳴いた。

 それから再び、ばちゃん、と彼は水底へ帰っていった。

 海が少し大きく揺らいで、そのあと、何事もなかったように元に戻った。

 空に立ち込めていた分厚い雲は消え、青空が顔を出す。



「お前……」



 船長の男は、レクスに声をかけた。

 レクスはくるりと振り返ると、ぱあ、と笑顔になって男へ駆け寄った。



「ホーフ船長! 私、お役に立てた?」


「あ、ああ。助かったが」


「ならよかった!」



 聞きたいことは山のようにあった。

 お前は何者なのか、と問いただしたかった。

 あんな所業は見たことがない。

 この商船であちこちの国へいくことがあるが、海をなだめるなどという芸当は初めて見た。



「船長……」



 あの白髪頭の男が、彼を見る。

 男、ホーフは頷いて、レクスに向き直った。

 その直後のことである。



「え、あ、ぎゃっ!」



 たっと駆けだしたレクスの身体は、足元にまかれたオイルによって滑り出した。

 そうして別の樽へ激突。オイルはその樽から辺り一帯にまき散らされる結果となった。

 ホーフはその光景を茫然と見つめた。

 全身べったべたのぎっとぎとである。

 彼女の外套からひょこっと蛇が頭を出してため息をつく。



「は、はは、ははははは!」



 ホーフはふるふると震え、それから、大笑いした。

 問い詰める気はもはや完全に消え失せてしまった。

 彼の笑い声につられるようにして、乗組員たちも声を荒げてげらげらと笑った。



「おいおい、何やってんだドジだなあ!」


「あの嵐の中転ばなかったのに、今さら転ぶかよ!」


「あーあー、まーた外套を一つダメにしやがった」



 えへへ、と照れたように笑うレクスを、白髪頭の男が立ち上がらせた。



「……怪我はねえか」


「はい、すみません……」



 光を帯びる彼女は別人のようだったが、今は違った。

 おっちょこちょいで、ドジで、あほみたいに空回りする。

 出会った当初と変わらない、お転婆娘だ。


(一瞬、まるで女神みたいだと思ったが)


 情けなさそうに笑う彼女をみて、彼はやれやれと空きの樽を海に沈めた。

 それから海水を汲むと、彼女に頭からばしゃんと被せた。



「ほれ、シャンとしろ。次の港町まで、もうすぐだぞ」


「うー、つめたぁい」


「自業自得だ」



 その時、クアア、とハシビロコウが舵の方で一声鳴いて、船の先を羽で示した。

 船員たちの視線が、前の方に釘付けになる。

 濡れ鼠のように背を丸めながらそちらに視線を向けるレクスの目に、陸地の一端が映ったのはそれから間もなくのことだった。

 同時に、ホーフが声をあげる。



「陸だ! 町だ! 野郎ども、荷をまとめろ! 上陸準備だ!」


「「「ヨーソロー!」」」



 わっとあがった男たちの返答に、レクスも少し小声で混ざった。

 吹き付ける穏やかな潮風に吹かれながら、彼女は見えてきた砂の大地に思いを馳せていた。



 


 


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ