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閑話休題 トムと死神

よろしくお願いいたします。

2018年に書いた話です。


 ……長い。40分はたつ。

電車の席についてから男はずっと目を伏せていた。

席に座り頭を垂れる男の前にそれは立っていた。

スーツ姿で真っ白な肌、黒髪が映えるそれは人間となんらかわらないように吊革を手にしていた。

電車が揺れるのに合わせてそれも揺れる。

対する男は小刻みに震えている。

男は恐怖に震えていた。

それは男を見てはニンマリと口の端が上がるように微笑みを浮かべている。

早くいなくなってくれ。

そんな男の願いは届かず、電車はとうとう終点まで来てしまった。

「名前は?」

「……」

それ、から尋ねられても男は口を閉ざし下を向いたままだった。

男は知っていた。この世の者でない者に自分の名前を名乗ってはいけないということを。

「名前は?」

電車の扉が開いたと同時に男は走り出す。

「名前は?」

後ろから自分に向けられた声。

男は動けなかった。それに手を捕まれていた。それは一辺倒に再三名前を尋ね続ける。

「名前は?」

捕まれた手から熱を奪われるのがわかった。

早くこの場から去りたい。逃げたいという一心で男は嘘をつく。

「名前は?」

「……とむ!!!!」

それの手が緩んだのを逃さず手を振り切って男は逃げた。

男は紛れもなく純日本人だった。

後ろを一度も振り返らずに男は自宅マンションの部屋へと急いだ。



 男は三十代半ばのサラリーマン。現在は少しやつれ気味だが、昔はそこそこモテていたというのが少しばかりの自慢。

男はもともとそれが見えるような霊感の類いがあるわけではなかった。

少し前のこと。

人違いで刺され、三日間半死半生の状態をさまよった。

医療の進歩は素晴らしいもので、体は刺される前より幾分健康体になった。

しかし人間の精神世界は現在も複雑怪奇なままであり、男の心は事件後に弱くなってしまった。

体の健康面はいい方で、元々、心は繊細だったのかもしれない。

何と言おうが男にとって後の祭りでしかなかった。

男は生死をさまよっている間、夢を見ていた。誰にも言えない怖い夢を。

男は臨死体験の中に人が死んだあとにどうなるかを見た。

詳しく言うならば、人間の魂の叫びを見た。

それは恐ろしくあり悲しいものだった。憎しみの籠められた叫びを間近で聞かされた。暗くてぐちゃぐちゃに歪んだところ。叫び声から性別も判断できないような子どもの悲鳴や成人男性と思われる野太い断末魔も全部が耳にこびりついた。


「助けてください」「いいいい」「助けてください」「いやだーー」「ぜってー殺してやる」「痛いっ痛い痛い」「うう」「んーんー」「あっあっ」「やめてくれ」「ごめんなさい」「ごめんなさい」「許して」「いやーーーー」



自分がどこにいるのかすらわからない。立っているのかもわからない。手がどこにあるのかもわからないから耳も塞げない。

地獄があるならこんなところだろうと男は思った。根拠はない。

多分ここにいるのは無惨にも殺された被害者なんだろうということを男は何となく感じていた。

そして自分も同じ立場だということ。

自分は周りからどう見えるか聞こえるのか考えようとしたところで暗闇の中に光が差し込んだ。温かくて、恐怖が和らぐ、男一人だけを照らす光だった。

あれほど煩かった声はおさまり、息の合った冷めた声が耳元に囁く。


「「「「「「「「自分だけ生き返るんだ?」」」」」」」」


男は病院のベッドで目を覚ました。


それからみるみる男は弱ってしまった。

順調な成績を修めていた花形の業務から外され、今じゃ雑用しかこなせられない。

給料は勿論下がったし、彼女にもフラれてしまった。

それはまだいい方であった。

何より男を苦しめたのは、それ以来、他人の殺意に敏感になってしまったということだった。

他人の殺意が見えるようになって、自分が狙われるような人間、被害を被る側の人間だと男は理解した。

どこにでも人を殺そうと考えてる人間がいる。その殺意の対象が自分でなくても見えてしまっては気が滅入る。

まして人の殺意を利用しようとする死神みたいな者も見えるようになったのが辛い。

死神の囁きを得た人は殺しをほとんど確実に実行に移す。

「悪魔が囁いた」という文面通りの光景が男には見えていた。

誰にも言えない自分だけが知っていること。

弱い弱い男は下を向いて生きるしかなかった。

向こうから発見されても見えない振りをしてつまらない人間だとアピールしてやり過ごす。

それが死神に対する、男の一番の対処方法だった。



 次の日


男は朝の通勤電車に乗る。

頭の中は今日で終わり、今日で終わり、という言葉が繰り返されていた。

男は少し前に提出した退職願いを滞りなく受理してもらっていた。

心の病気、療養、専念というワードが良かったらしい。

地元に帰って、周りに人がいない静かな暮らしをしよう。男はそんなことを電車の中、人混みの中で考えていた。

学生時代は都会の人混みによく憧れたものだった。他人に無関心と言われている都会でも若い人がたくさんいるというだけで活力になるものだとばかり思っていた。

実際、人の塊は大きいものから小さいものまで「殺したい」を抱えている生き物だと知った。

根拠はない。ただ自分の中で完結した結論。確かめようもないし、妄想の一種に過ぎないのかもしれない。

殺意を抱く人が怖くてたまらない。

人は誰しも殺意を持っていると言葉で定義されるだけならいい。

他人の殺意が見えるという状況が耐えられない。

いつ自分が殺されるか、あの夢の中の声の主のようになってしまうのか、ということを思い起こされる。それが男の苦痛だった。




 最後の業務が終わった。

少し引きこもろうかな。

酒でも飲もうかな。

心の弱りきった無職にどこか癒しはないものか、なんてガラにもないことを考えてみる。

男の腕時計は21:30を示していた。

最寄り駅を抜けて男はマンションへ向かう。

「こんばんはトム」

チーカマ、ポテチ、ポテサラ、ポッキー

男はコンビニで買う晩酌のつまみのことで頭がいっぱいだった。そのため、かけられた声には気づかない。

「トム? おーい」

手が凍りつくような感覚で男は気づく。

振り返ると昨夜の死神がいた。

「こんばんはトム」

男は無視することができなかった。

「? こんばんは」

男は自然と挨拶を返していた。

その返答に驚くように死神は目を丸くした。

「トムトムトム」

死神は嬉しそうに、その場ではしゃいだ。

とむ? ってなんだ?

そこで男は昨日自分の名前をとむ、と嘘ついたことを思い出した。

ああ、自分は死神に目を付けられたんだ。

俺は死ぬのかなあ、まあいいか、別に。

男は死神に目をやった。

スーツ姿の死神は見た目でいうと20代前半の男性のような若々しい顔つきをしていた。肌は真っ白、髪は艶のあるショートの黒髪、目鼻立ちが良い、しかし死神である。

「トムは私が怖くないんですか? 逃げないんですか?」

コンビニの前で死神が疑問を投げてきた。

「昨日までは怖かったし実際逃げた。今日は何だろ? 無職だから怖くないのかな。もういつ死んでもいいって気が楽になったのかも」

ずっと俯いていた顔を起こし、男は苦笑した。

男の言葉に死神は困惑したような顔になる。

「死神は俺に何か用でもあるのか? 俺は人を殺したいなんて思ってないし、体はあと数十年は健康だと医者のお墨付きなんだけど」

男は死神と会話を続けた。

久しぶりに人と会話をしたいという欲求があったのかもしれない。

周りの目は気にならない。独り言なんて心を病んでなくてもやるもんさ。実際見えているし、会話できるからこちらは何も問題ない。

「私が貴方に声をかけたのは単に興味があったからですね」

死神は続ける。

「トムは私達以上に人の殺意に敏感なようで、気づいたときから話かけたいなってずっと思っていたんです。でもいつも誰かしらに付きまとわれてて貴方はずっと怯えていて……。貴方は知らないでしょうが、私は話す機会をずっと伺ってたんですよ」

「へぇ、じゃあ昨日もなのか?」

「勿論です。昨日は急に話しかけてすみませんでした。仮名であれ貴方の声が聞けて嬉しかったです」

死神は言葉通り本当に嬉しそうな表情をしていた。

まぁ、とむという名前の嘘はすぐバレるか。

「なんか昨日と今日で性格違くないか?」

「今日が素です。でもそれはお互い様じゃないですか?」

死神は堂々と答える。

「確かにそうかも」

男は再度苦笑する。

人の殺意と比べたら死神の方が随分と扱いが楽そうだな、そう男は思った。



「えーと、まだついてくるの?」

「はい。どんな部屋に住んでいるのか知りたくて」

「本当は俺を殺したいとか思ってるんじゃないのか?」

「それは……できないですね」

男は聞き流すように、鍵を開けて部屋に入る。


男はごく簡単な自己紹介をした。

相手は人でないから自分の何を伝えれば良いのかわからなかった。


ただ、呼び名はトムでお願いした。

次の日朝一番で見た空は青くて綺麗だった。



ありがとうございました。

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