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英雄の歌  作者: きりど屋
2/2

2話「勤勉な若者の物語」


 広いホールの中は、暖かな空気とあちらこちらから聞こえる歓談の声、そして豊かな音楽と豊かな匂いで満たされていた。


 ――むぐっむぐっ。


 そこに集った人たちに畏まった礼装の者は少なく、流行りの服装で気取った社交人たちが立食形式のパーティーを思い思いに楽しんでいる。


 ――はぐっむぐむぐ。


 その紳士淑女の見本市の中に於いて身綺麗にしていてもなお小汚い…身なりが隠しきれていない行商人は、いっそのこと開き直った態度で並べられた豪勢な料理に舌鼓を打ち続けていた。


 ――んぐっ!んんっ……っ!!!


 いや、舌で味わうと同時にのどに詰まらせるその様は『喉鼓(のどつづみ)』とでも言うべきか。


「……どうぞ、飲み物です」


 差し出された果実酒を一気に呷り、のどに詰まりかけていた肉を流し込む――盛大に咳き込んでから、行商人はようやく大きく息を吐いた。


「ごほっ!す、すみやせん。げっほ、助かりました――っあ、旦那!」


 場違いな社交場に放り出されてから、初めて会えた見知った顔に、安堵した小男は涙目を擦りながら肩で息を整えると、改めて畏まり礼を繰り返した。


「ありがとうございやす…んふっ!危うく御馳走に殺されるところでしたよ――ふぅ」


「何と言いますか、貴方は本当にゆ、面白い御人ですねぇ」


 思わず『愉快な御人』と言いそうになった髭の紳士は、吟遊詩人のグエルンその人だった。


「いやぁお恥ずかしい……どれも見た事も無い料理ばかりだったもんで次にいつ食べられるか分からないと思ったら……つい」


 行商人は照れながら小さい体をさらに小さくする。


「いえいえ、そちらもまあ面白かったのですが……」


 グエルンは言いながら、ちらりと周囲を横目で見回した。

 場違いな小男の賑やかなてんてこ舞いを遠巻きに見ていた何人かは、クスクスとそれを話のネタにして談笑いるようだったが、少なくともそこに悪意や敵意を持ってこちらを睨みつける様な人物は見当たらない。さすがペンネ領主が招待するほどの賓客たちと言った所だろうか。

 軽く咳払いをして行商の視線を自分へ向けると、グエルンはゆっくりと右手を広げて後ろを示した。


「もう御察しだとは思いますが、今日この会場に集まっている方々の多くは皆さま名の通った商人たちばかりです」


 それを聞いて、行商人はごくりと喉を鳴らすと改めて会場内を見つめる。その反応は驚いたというよりも緊張して萎縮しているといった様子だった。


 グエルンは果実酒を何度も口に運んでいる小男を見る……身なりはこんななのだが、リスクを背負って荷を運ぶことを生業(なりわい)とする彼もまたやはり一廉(ひとかど)の商人なのだ。


「せっかくの機会なのですから食事ばかりではなく、少し歓談されて来てはいかがでしょうか?」

 

 グエルンは別に自身の行いを恩に着せるつもりはなかったが、それでもこれもまた行商人へのお礼の一つと考えてはいた。


「いやあまぁ…そうなんですがね……あっしはどうにも同業との商談ってのが苦手でして……」


 行商人は頭を搔いてそう答える。


 ……これ以上の助言は彼に対して失礼と言うものだろうか?チャンスをどう掴むのかは、結局その人次第なのだから、門外漢から押し売りされた親切など、むしろ迷惑としか感じないだろう――。


「――それでも」


 たどたどしくも、頭を捻り考えながら行商人が口を開く。


「それでも、旦那のような御人と縁が出来たってことがあっしにとっては最良の幸運でしたよ……今日はありがとうございやした」


 彼の顔には、これまでの人生を表した様な苦労が皴となってありありと浮かんでいた。その皴をさらに深々と刻みながらにこりと屈託なく笑う行商人は、深々と頭を下げる。


「――――っ」


 冷徹な取捨選択だけが、利を掴む唯一の道筋なのだと豪語する人もいる。しかし、柔和な態度と誠実な心が選択肢を増やすこともままあるのが人生であり、幸運を掴む機会を増やすこともまた、その人の行い次第なのだ…………というのは、建前だった。


『日頃から、良き人柄の者にこそ徳があって欲しい』それは、グエルンの本心であり『選択』というだけの話で…だからこそ行商人の本心からの言葉は、彼の琴線にしっかりと触れる。


「おっと、そろそろ時間の様です」


 グエルンは、わざとらしくおどけた口調でそう告げると、大仰な身振りで行商人へと向き直る。


「行商殿、私にとっても貴方との出会いはとても良い縁なのです。貴方にこの時間を楽しんでいただけるのならば僥倖……ですが」


 ふと、グエルンの声色が変わる。


「せっかく、遥々遠く東の地からやって来たのですから。もし、チャンスがあるのなら、ぜひ幸運を掴んで下さい」


 グエルンがすっと差し出した手を行商人は慌てて握り返す。それは挨拶と言うよりも、約束を結ぶような硬さで交わされた意思のこもった握手だった。


「……っ」



 それでは準備があるからと、会場奥へ去って行くグエルンの大きな背中を眺めていると、その隣へスッと立つ人影があった。それは、ペンネ領主であるカリドゥリス辺境伯その人だった。

 小柄ながらも存在感のある彼の雰囲気に、会場の来賓たちも気が付いたのか、次第に視線がそちらへと集まっていく。

 少しの間を置いてから、カリドゥリス卿が片手を上げると、それを合図にして楽師たちの音がすっと引く――。すると、それまで歓談に耽っていた人たちの意識も会場奥へと惹き付けられて、場内はあっという間に静寂へと包まれてしまった。

 それを確認してから、一歩前へと進み出たペンネ領主は一身に注目が集まる中で、ゆったりとした身振りで科を作り、口を開く。


「親愛なる紳士淑女の皆様、そして善き友であり、良き戦友でもある諸君らよ……知っての通り、私、カリドゥリス プシィルラとこのペンネの街は、君たちの助力と献身によってここまでの発展を遂げてこられたっ。この宴はささやかではあるが、私の感謝と敬愛を示すものであることを、改めて伝えさせて欲しい――」


 体躯の小ささに反して、カリドゥリス卿の大きく威厳のある低い声は、聞く者の耳にしっかりと届き、皆の心に僅かながらの畏敬を抱かせる。

 これが国王からの信頼篤いペンネ領主のカリスマなのだと、会場中を納得させる強者の言葉。それが今、自分たちに労いの声をかけてくれている。集まった者たち、特にこの街の民にとってそれはこの上なく胸を打つ至福の時間だった。


「さすがは『猛禽』の異名を持つカリドゥリス辺境伯だな、恐ろしくも惹き付けられる威風。彼は本物だ…絶対に御近づきにならなければ」


「大丈夫だ。お前の酒なら必ず喜ばれるさ」


 行商人の隣からは、男たちが高揚気味に話している声が聞こえる。『猛禽』という呼び方は庶民たちの間でもよく噂されるもので、カリドゥリス辺境伯を指す代名詞だ。

 実は彼はまだ一度も正式な戦場へ赴いたことがないのだが、しかし中央側を治める他の貴族たちからは、そうした異名で呼ばれて恐れられているという話が方々からは聞こえてくる。誰もがまことしやかに口にする噂話だが、彼の名を際立たせるのには十分な効果があった。

 そんな辺境伯の達弁にして雄弁な演説は、聞く者を圧倒し、否応なく恭順してしまいそうになる迫力が確かにある。少なくとも会場にいる来賓たちは皆、そう感じていた。


「…………」


 一方で、ペンネ領主の演説が続く中、人々の嬉々とした囁きを聞き流しながら行商人はぼんやりと、この不思議な、不思議な状況に至るまでの奇妙な経緯を思い返していた。



                    ◇◇◇



 目の前には、質素ではあるが品の良い意匠と、決して手抜かりの無い清掃の行き届いた長い廊下が続いていた。

 廊下は広間をあえて迂回するように造られており、賑やかな歓談の声も楽師の小気味よい音楽も、ここまで届くことはない。

 何を思って家主がこういった設計にしたのかは分からないが、目的の部屋に到着するまでの間、この静かな廊下を進む訪問者たちには分け隔てなく自身の考えと向き合う時間が与えられているような、そういう圧力にも似た意図を感ずには居られない沈黙がこの場所を満たしている。だからこそ、


「旦那なぁ旦那ぁ…」


 重々しい静寂を破る、そのなんとも心細そうで情けない男の声はグエルンの失笑を誘った。


「ぶふっ…よかったですね、これで今日の宿代は浮きそうですよ…っくふ」


「いやいやそんな悠長な……」


 タルドゥスと別れてから、何度も飯屋に入ろうと言う行商人を軽くあしらい、グエルンが促すままに歩き続けて宵の口、到着したのは街の南端である全ての街道に続く先、ペンネ領主の屋敷だった。

 驚き固まっている行商人を気にする事も無く、のんびり正門横へ突っ立つグエルンが柵の中を伺うと、屋敷の中では何やら使用人たちがきびきびと動き回っているのが見える。

 完全に不審者であるこちらを訝しむ警備兵へ、にこやかに近づいたグエルンは、屋敷の中に入れて欲しいと伝えたのだが、当然了承されるはずもなく。少し揉めてから、「ちょっと確認してくるからここで待っていろ」と言って屋敷へ向かう警備兵を見送った。


 ……そのまましばらくボケっと立っていたのだが、そろそろ夜風の冷たさに耐えがたくなってきた頃、すっと音も無く現れた年配の執事らしき男が屋敷の中へと出迎えてくれたのだった。


「これはこれは、グエルン様お早い(・・・)ご到着で、何よりでござます」


「あー…あはは、いえいえ、お待たせして申し訳ございません執事長殿」


『何より』といった感情があまり読み取れない声色で告げる執事長に対して、グエルンは珍しく少したじろぎ気味にそう答える。


「招待状は、届いておりませなんだでしょうか?」


「んっ……いやぁ、いつの間にやら道中で、隠れてしまわれたようでして」


 頭を搔きながらグエルンが「ははっ」と笑うが、


「それは何とも、愉快な旅路でございますね」


 前を行く紳士の声は、少しも愉快そうには聞こえなかった。


 2人の後ろを縮こまって、すごすごと付いて屋敷に入る行商人の耳には、ぼそっと「ほんと、主人によく似てる」というグエルンの小声が聞こえていた。この2人はどうやらよく知った仲らしい。


「――おおっ」


 思わず感嘆の声が漏れる。

 屋敷の中は、外から見た通りの温かな空気に満たされており、かじかむ手足と心を少しだけ解してくれる。

 執事長と呼ばれた初老の男は、改めて「お久しぶりでございます」と恭しく挨拶をするも、エントランス正面に置かれたアンティークの柱時計に目をやると、


「少々立て込んでおりますので、すぐに案内を」


 と言って、近くを通る若いメイドを呼び止めると、彼女の耳元で指示らしきことを囁いた。

 若いメイドは一瞬驚いた表情でグエルンを見たが、すぐに平静を取り繕うと「こちらへどうぞ」と抑揚の少ない声色で奥の廊下へと先導する。

 さすが領主家に仕える従者なだけはある。まだだいぶ若くあどけなさを残す顔立ちに見えるのに、その堂々とした立ち居振る舞いは、思わず自分と比べてしまった行商人を俯かせるのに十分な威儀すらも感じるほどだ。


 ふと逸らした目を後ろへ向けると、執事長が会釈をしてから立ち去る所だった。決して慌ただしい雰囲気を見せる事はないが、迅速で無駄のないその動きを見るに今日はよほど忙しい日なのだろうと推し量ることが出来る。

 エントランスにほど近い大扉の先からは、先ほどから優雅な音楽と賑やかな歓談の声が漏れ聞こえていた。恐らく何かしらのパーティーの真っ最中なのだろう。

 これはもしかしてと胸躍る行商人の期待とは裏腹に、「こちらへ」と案内されたのは、大扉とは別方向の長い静寂の廊下の先だった。

 よくよく話を聞くと、今から2人が通される奥の部屋とは、どうやらこの街の長である領主様の執務室らしい。

 ペンネの街で仕事があるとは聞いていた行商人は、グエルンの事をてっきり数日後の豊穣祭の為に出稼ぎにやって来た旅人だと思っていたのだが、まさか領主様直々に呼ばれるような御仁だったなんてと、驚きでいっぱい……いや、そこで昼間の熱を思い出す。

 心地よい音楽と些末な舞台にもかかわらず沸き立つ人々、そして尽きない歓声。この人が領主様に招かれたとしても今なら驚きはしない、あれはそんな経験だった。

 恐ろしい人柄だが芸術と音楽を愛すると言われる領主様だ。あの舞台を知っていれば、きっと気に入るに違いない……行商人にはそういう確信があった。



 ――アウィス王国領土の最西端に位置するこのペンネの街は、元々は隣国との緩衝地帯に当たる辺境の荒野だった。

 北部森林地帯の迂回路という事以外に何もなかったこの土地を、ここまで発展させたのは先代ペンネ領主であるカリドゥリス卿の尽力がとても大きい。武勇を誇ったカリドゥリス卿は、隣国の干渉や頻繁に出現する魔物への対処と、流れ居着いたゴロツキたちを瞬く間に平定してしまうと、そこに集落を作り上げた。

 要衝地に堅固な守りが備わったと人々に知れ渡るや次第にそこには人や物が集まり始め、やがて時は移ろい、息子である今の辺境伯が領主としてこの地を治めるようになってからの数年で、発展はさらに目覚ましく進んだ。

 どんな伝手を使ったのか、今まで睨み合うだけで正式な交流の無かったはずの隣国と非公式ながらも通商を始めたかと思いきや、あっという間にこの土地を流通の要に整えてしまったのだ。時勢の機微に聡い商人たちを抱え込み、人と物資を揃えて何もなかったペンネの地はたった十数年足らずで流通の街へと様変わりを果たす。

 その辣腕たるや、王都はおろか東に住んでいた行商人の街にまで噂が聞こえてくるほどであり、今年の豊穣祭へわざわざ遠出してまでやって来たのは、商売に行き詰まっていた行商人がこの街にあやかって新しい販路を求めての事だった。

 自身が戦地へ出向くことはないという現領主だが、父親に負けず劣らずの威光と、時勢や機会を確実に掴む政治の辣腕ぶりに『猛禽』や『鉤爪』と呼ばれ畏れられているという。以前に遠目で見たことのある厳つい領主の姿を思い出すと、行商人は思わず身震いしてしまい、ふとなんで自分はこんな所にいるのだろうか?と少し冷静になり始めていた。


「こちらです」


 凛とした声にはっとして顔を上げると、思いの外質素なドアの前で姿勢正しく待機しているうら若きメイドと目が合った。よく見れば頬が少し赤らんでいる様に見えるが、緊張しているのだろうか?さっきまで堂々と振舞っていた使用人が緊張するほどの領主様……考えただけで行商人の頬は青ざめていく。

 2人が軽く身だしなみを整えるのを待ってから、メイドは軽く扉をノックして部屋の中へ『例のお客様がお見えになりました』と伝える。


「―どうぞ」


 声を聞いただけで行商人の背筋に緊張が走る。厚い木の扉越しでも分かる威厳と貫禄に満ちたその声には正にこの街の長たる領主の重みが滲み出ていた。

 少し食い気味の返事だったのが気にはなったが、まずは絶対に失礼の無いようにと、扉が開かれるまでの僅かな間に何度も襟を正し直してはまた直す。

 軽い軋みと共に、重い空気の詰まった執務室の扉が開かれた。


「おおー!グエルンー!!」


 まず最初に風と共にグエルンが部屋への一歩を踏み出した。途端に中から響いたのは、ついさっきまでとは打って変わって明るく軽やかな雰囲気の声だった。

 予想外の声量に行商人が目を丸くして驚いた後、恐る恐る部屋の中を覗き込むようにして踏み入ると、


「遠いところ、ありが――」


領主様(・・・)。この度は、お招き頂き恐悦の至り」


 立ち上がり今にも駆けだして来そうな弾んだ声を遮るようにして、『領主様』を強調したグエルンの声が被さった。


「……あーうん、ぅおっふん。あー、ニンフィクス君。案内ご苦労だった。もう仕事に戻ってくれて構わな――」


「その前に、一つよろしいでしょうか?」


「なにかっ?」


 またしても被るグエルンの言葉に、領主の返答は勢い余って裏返る。


「……んん?そういえば、そちらの御仁はどちら様かな?」


 そこでようやく、領主の目線はグエルンの隣で固まっている行商人へと向けられる。


「おお、気付いていただけたようでなによりです」


 グエルンはわざとらしく驚いて見せると、今度はしなを作りずいっと行商人の背中を押して一歩前へと進ませた。


「実はこの行商殿には道中色々と助けて頂きまして、本日の宿を借りる事と食事会にも混ぜて頂きたくお願いに伺った次第でして……」


「…………」


 なんとも豪胆と言うか強気と言うか、図々しくも太々しいあまりの要求に、隣で挨拶をしようとしていた行商人の動きは完全に止まってしまい、中途半端な実に間抜けな体勢になってしまった。


 これは不敬罪なんではないだろうか?今夜の宿の当てって牢屋の事だったんか?いやそれより何よりさっきからずっと領主様が黙り込んじゃっているのが怖くてもう仕方ないんだども……!!!


 頭の中では今年一番の長台詞を巡らしながらも、声一つ、身動き一つとれずに中途半端に頭を下げたままの姿勢で固まっている。

 気分は正に断頭台の上だ。このままバッサリと首を落とされないかと思いながらも怖くて顔は上げることが出来なかった。


「な――」


「ひぃっすみま――」


「なんと、それはそれはっ素晴らしい!」


 普段妻にするかの如く、とにかく勢いよく謝って、勢いで誤魔化してしまおうと頭をさらに下げかけた行商人の言葉に今度は領主の声が覆い被さった。


「――へ?」


「彼の恩人ともなれば、私の客人ということだっ」


 ハーフリングの様に小さい男は、更に小さくなって怯えた顔で領主を見上げる。


「勿論かまわないさっ、今夜の宿は我が屋敷に泊まるといい、パーティーもグエルンの連れという事なら問題ないだろう。大いに『励むといい』」


 そう言うと領主は扉前で待機していたメイドに目線を送る。

 メイドはすぐに頷くと、「では、お客様。まずは客間の方へご案内いたします」と行商人へ向かい合った。

 いまだに混乱しきっておろおろしている行商人は、メイドに促されるままに部屋の外へと歩き出す。


「ああ、そうそう」


 去り行く小さな背中にグエルンの声が飛ぶ。


「旦那?……」


「今宵のお客人たちは皆さま、商売熱心(・・・・)で勤勉なようですので、歓談中も十分お気をつけてお楽しみください行商殿」


 商人の目がグエルンと重なる。おろおろと冷や汗をかいている小男は、それでも怯えそのままで


「……」


 ぺこぺこと何度も頭を下げながら部屋を後にした。


「……よい商売を」


 優雅な動きが良く似合う長身をゆったりと曲げて、グエルンはにっこりとその後姿を見送った。

 連れ立ったメイドは恭しく一礼をすると、音も立てずに静かにドアを閉じる。瞬間に部屋の中を寒暖入り混じった風がふわりと巡った。

「…どうも気を利かせて頂いて、よい風をありがとう」と、グエルンが小さく呟いた。


「……」



                   ◇◇◇



「――今宵は、懇親を深めて肝胆相照(かんたんあいて)らすような縁を築いてもらえれば、嬉しく思う」


「この素晴らしい縁に華を添える為に、最近、都でも話に上がる吟遊詩人を招待した。ぜひ楽しみ、鑑賞していって欲しい」


 行商人がはっとなり顔を上げると、会場ではカリドゥリス卿の言葉が終わり後ろに下がる所だった。

 入れ替わりに、すっと前へ踏み出した長身の男は、


「さて、今宵お集まりの皆々様……」


 吟遊詩人グエルンその人だった。

 彼がつま弾くリュートに併せて、楽師たちが音を着飾り装飾していく。

 会場の注目を一身に手繰り寄せて、再び舞台の幕は上がった。


 リュートの物悲しい旋律と共に、ギャラリーの興味は一際目立つ長身の紳士が語る言の葉へと集中していく。



「語りますは、ここアウィスでもっとも有名な苦労人の話……いえ、違いますな、遥か東より始まる『勤勉な若者の物語』――」


 誰もがその声に聞き惚れている。私語も、衣擦れの音さえも憚られるように、響く心地よい声と音楽だけがその場を満たしていた。




『東商』


 それはアウィス王国の、取り分け商人たちに人気の高い実話を元にして作られた歌だった。


 東の寒村から商人になる為に身一つで旅立った若者は、胸中に新たな土地への期待と不安を内包して故郷を後にした。

 辿り着いた中央都市で初めは希望を持って頑張っていた若者は、よそ者への軋轢や日々の小さな不運の積み重ねにより次第に上手くいかない日が続くようになり、郊外の人が寄り付かない荒れた日陰で1人愚痴ることが多くなっていった。


 淡い期待を抱いていた頭の中は、日々故郷への郷愁で埋められていくばかりだったそんなある日、その場を運悪く奉公先の仲の悪い同僚に見つかってしまい、怠けていた事を咎められて喧嘩になる。

 殴られた際に胸元から飛び出したのは、故郷を出る際に持たせてもらった御守り。勢いで破れた中からは植物の種が散乱して、同僚にそれを踏みつけられる。


 その日の内に逃げるようにして奉公先から荷物をまとめて去った若者は、当て所なく街を彷徨う事となる。

 しばらくして路銀も尽きかけた頃、帰りたいと思うたびに故郷の去り際で人々からかけられた頑張れの言葉が浮かび葛藤していた時だった。

 ――広場に賑わいが起こっている事に気が付く。 

 何事かと寄れば、それは領主からの御触れであった。

 曰く、身内の病を治すために薬効があると言われる東方の紫白の花、これをより多く持って来た者に褒賞金を与えるというものだった。

 聞きつけた商人たちは我先にと東へ荷車を走らせるが、その喧騒の中で若者はしばし立ち尽くして頭の中を整理する。

 それは故郷ではありふれた花だった、しかし都まで運ぶとなると鮮度が衰えるので、こちらでは珍しい物となっているのだが、

・病という事は、それなりの数を定期的に確保しなければならず。                

・豪商たちはこぞって持ち寄る事だろう。

・資金も少ない個人が今から集めることなど到底叶わない。


 よく考えて、よし諦めようと思ったのだが、そんな若者の足を止めたのは再び浮かぶ故郷の仲間たちの『がんばれ』の言葉だった。

 ……やるだけやってから、それから諦めても遅くはないだろう。このまま面白い話の一つも持ち帰らなければ情けない。

 そうと決めると、街を駆け情報を探り考えることを始めるたのだが、半ば諦めの脱力からか、頭の中には次々に疑問が湧いてきた。

 そもそも紫白の花は何故こちらでは珍しいのだろうか?

 故郷では薬効があると知ってはいても、わざわざ花を栽培する人間はいなかった。なぜならば、その花はどんな荒れ地でも選ぶことなく自生しており、動物に荒らされても次の日には芽が出ている。それほどまでに強く造作ない花だと思われていたからだ。

 しかし、街で聞くのは同じ花とは思えない話ばかりだった。それなりの数の人間が栽培には挑戦しており、中には著名な学者が手間暇かけて、よい土壌と高い肥料を用いてまで育てようと試みたそうだが、ついぞ花どころかまともな芽すらも数件しか生えてはこなかったという。


 雑多で鬱陶しいほど生えていたあの花は、なぜこの土地では育たないのだ……故郷では大商人に成るのだと豪語しておきながら、都の人波に翻弄されてちっとも上手くやっていけない田舎者、まるで自分と同じ日陰者だな。

 次第に落ちていく気分は、花と自分を重ねて陰鬱となっていく。

 ふらふらと若者がやって来たのは、あの郊外の荒地だった。結局こんな所で一人愚痴るのが自分に出来る関の山なのだと、自虐的に笑う若者が見た先にあったのは……あの同僚に殴られた場所で、凛と咲き誇る、よく見知った紫白色の花の姿だった。


 ――豪商たちが籠一杯に持ち寄った花々が埋め尽くす謁見の間にて、騒めく人々をしり目に若者はつとつとと領主の前へ進み出る。


 彼の手にはたった一輪の花が揺らめくだけで、それを見て笑う商人たちの中、領主の目には……その花は、ここに在るどの花よりも色よく美しく見えた。

 

 物乞いは帰れとヤジが飛ぶ中で、目の前に立つ若者に領主は尋ねる。

 お前は何本の花を用意できたのだ?

 


 ――緊張を表す様に静かだった音が一転して、華やかな合奏に変わる。


「はい、無限の花にございます」


 最高潮の音楽と共に、吟遊詩人の軽快な声も弾み紡がれる。


「花ではなく、その栽培方法を携えた若者は、褒賞金を断り自分を召し抱えて欲しいと申し出た。見事その願いは聞き届けられ、都の発展に貢献した彼は、やがて一地方を任せられほどの頭角を世に示し……あの花は、不屈の花、再起の花として今でも人々に愛されている事は、まあ皆様の良く知る所でございます」


 リュートの音色が爪弾かれ、最後の旋律が静かに引くと、場内は驚くほどの静寂に包まれる。


「――お、おぉ!!」


 息の仕方を今思い出したかのように、感嘆の声が誰かの口から漏れ聞こえると、ハッと物語から目を覚ました観客たちが慌てて拍手と喝采を始めた。



 ホール外のエントランスで仕事をしていたメイドの一人が、突然大雨が降り出したのかと驚き外を見る。



 夜は変わらずに静かな快晴で、ひしめく星々は宴を楽しむように瞬いていた。


                      ◇◇◇


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