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英雄の歌  作者: きりど屋
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「しがない旅の鳥」


 今日も街には朝が来た。

 いや、朝と呼ぶには既に日は高く、もう昼前と言った方が適当だろうか……。

 燦燦と暖かな日差しが降り注ぐ街の道々では多くの人が行き交い、荷馬車が走り、喧騒は活気となって生活の豊かさを彩っていた。

 もう実りの季節だというのに、石造りの街並みに強く照り付ける陽は額に汗をにじませる。その分、陽光が暑く鋭く射すほどに建物の陰には黒く濃い影が伸び、その下に入ればひんやりとした空気が体の熱を攫ってくれる。


 元々この街は、鬱蒼とした森を迂回するための大通り上に造られただけの簡素な『集落』だった場所なのだが、商人をはじめとした人々の流通の要衝として次第に発展を続け、今では王国内でも有数の都市と成っていた。

 領主の方針もあり、近代技術を頻繁に取り入れる街の中心部には立派な『時計塔』が建っており、中央区画の大通りは王都からも見物人がやって来るほどの活気を見せている。


 しかし、発展の象徴たる塔が大きいほど、落とす影もまた濃くなるもので……。

 街一番の賑わいを見せる真新しく大きな建物が並ぶ中央大通りに対して、北西側に少し外れた区画には打って変わって小ぢんまりとした古い建物が並んでいた。

 大きな建物の影に隠されるようにしてひしめくお世辞にも奇麗とは言い難い街並みには幾本もの狭い路地が通っており、薄暗い通りを歩く疎らな人の表情も心なしか暗く活気の無い者が多く見える。


 ――そんな小汚い路地裏を縫うようにして駆け抜ける3つの影があった。


 すれ違う破落戸(ごろつき)が巨大なネズミかとぎょっとして、「何だガキどもか」と吐き捨てる。3人は迷路のような路地をするすると通り抜けると、そのまま賑わいを見せる中央区画へと走り抜けて行った。誰にも見とがめられない様に、特に警邏(けいら)には声を掛けられない様に周囲を警戒して、出来るだけ縮こまりながら駆けるその動きは実に熟れたものだ。

 大通りに出ると3人組みは直ぐに立派な赤レンガ造りの建物の影へと入り込む。薄汚く煤と汚れだらけになった顔と服装は、暗い影の中ではよく馴染む。息を殺してじっとしていれば通りから見てもそこに人がいることなんて気が付きもしないほどに溶け込んでいた。


「よし、それじゃあ予定通り今日は別行動だ。仕事が終わったらオンボロ通りで落ち合おう。遅くともⅦまでには引き上げるんだよ。分かった?」


 3人の内で一番背の高い、少しサイズの合っていない大きめのキャスケットを目深に被った1人が後の2人に言い聞かせている。強めの言葉遣いとは裏腹に、注意を諭すその瞳には不安の色が浮かんでいた。


「だぁい丈夫だってボス。この前だって上手くやったじゃん……アタシはね」


 2人の内の1人、栗色の髪を弄りながら細身の少女がにかっと笑う。しかしすぐに手を下すと少しだけ気まずそうに隣へと目を向けた。


「うぅ」


 送られた視線の先に立っているのは、一際背の低いまだあどけない少年だった。黒褐色交じりの褐色頭は煤で汚れているからなのか、地毛なのかは分からない。ぼさっと伸びて目を隠してしまっている前髪が殊更に少年の弱気な印象を強調していた。


「……」


 少し考える素振りをしてから、ボスと呼ばれた1人が少年の両肩に手を置くと、ビクッと彼の体が震える。


「……タルドゥス。分かっているだろうけど僕らはいつまでも一緒に付いてはあげられないんだ。この街で生きていくなら、いつか独り立ちの時が必ず来るんだよ」


 言葉が区切られる度にタルドゥスと呼ばれた少年はうん、うんと大きく頭を振る。

 

 ――解っていない訳じゃない。この子にはただ、ほんの少しの勇気が必要なだけなんだ。


 必死に頭を振る少年を見下ろしながら顎に手を当ててボスは少し考える素振りを見せると、「よしっ」と頷く。


「タルドゥス。仕事が上手く終わったら、僕のこの帽子をあげるよ」


 にかっと笑うボスを見上げてタルドゥスの目は真ん丸に驚き見開いていた。


「ほんとっ?いいの?」


 思わず語気が上がる少年の頭を撫でながらしっかりと頷く。


「ああ、だけど張り切りすぎるんじゃないよ?教えた通りに相手をよく選んで、ひっそりと確実に、だ」


「えー、ずるいボス。アタシは?」


 タルドゥスの頭を撫でていると隣から少女が腕にしがみついてきた。その年相応の愛らしい仕草は、ボスの目には眩しく映る。


「アラウダ……君にはこの前髪留めをプレゼントしただろ。まさか無くしたのかい?」


 呼ばれた少女の髪の毛はまとめられる事も無く、頭が揺れるたびにそのままふわりと広がってセミロングの癖っ毛がボスの頬をくすぐった。


「――違うのっ、大切なものだからしまってあるの!」


 ボスは慌てて頭を振るアラウダをじっと観察して「で、本当は?」と尋ねる。


「……寝坊したから、慌ててて忘れちゃった」


 ばつが悪そうに俯く栗色の頭を見てボスは溜息一つ吐くと、正直に白状した少女に手を伸ばす。


「なぁに?」


「動かないで」


 なにごとかと不思議そうに見上げようとするアラウダを制すと、取り出した紐で栗色の髪を器用に結い、手早く一纏めにする。


「よし、今日はこれでいけるな?」


「っ!――うんっうんっ」


 サイドに垂らすようにして纏めてもらった髪型がそんなに気に入ったのか、アラウダは満足そうに何度も頷いた。


「さて2人とも、もう一度だけ確認だ」


 暗い影の中、昼にはまだ少し早い時間。街中の喧騒を背景にしてひっそりと3人は向かい合う。ボスを見返す2人の瞳に灯る色はさっきまでとは違いブレることなく強い意思を宿している。ズレ落ちそうな帽子をくいっと直しながらボスは、これなら大丈夫だなと心の中で頷いた。


「――最後に、無理はするなよ。上手くいかなきゃ直ぐに逃げるんだ。オンボロ通りの方が無理そうなら、僕がいる南側に来るんだよ……いいね?」


 短いレクチャーを終えると一度大きく頷き合ってから、3人は遂に動き出す。

 ボスから指示された向かう先はそれぞれ別の方向だ。『出来る限りリスクを減らして単独で立ちまわる』というのが今回の課題のようだった。

 まずはとお手本を見せる様に、通りへさっと踏み出したボスは、行商の列が通る隙間に紛れ込むとあっという間に見えなくなってしまう。


「危ないと思ったらすぐにオンボロ通りまで逃げなさいよ?」


 続くように駆け出したアラウダが去り際にそう声をかけてきた。こくこくと頷いている内に彼女の姿もまた見えなくなっており、いつの間にか狭い通路に残されたのはタルドゥス1人だけになっていた。


「…………」


 振り向いても暗い路地裏には誰もいない。正面に目をやると表通りから射し込む日光が眩しくて、思わず目を細めてしまう。

 ――行くしかないという事は、もう行くしかないのだ。ぐっと掌いっぱいに力を込めて握りしめると、少年は眩しい通りへ向けてその一歩目を踏み出した。



                    ◇◇◇



「う、ううぅうーーん」


 それは、どう聞いても具合の悪そうな呻き声だった。

 活気のある中央大通りの往来に背を向けて唸りを上げ続けていた男は、石壁に寄り掛かってギリギリ保っていたバランスを崩すと、遂にはがくんと道端にしゃがみへたり込んでしまう。

 行き倒れか病気なのか、街の賑わいに余りにも似つかわしくないその様を、通り過ぎる人々はちらりと一瞥はするけれども、誰もが皆直ぐに興味なさそうにそっぽを向いて歩き去って行く。

 それは決して人々が薄情というだけではない。警邏の者でもあるまいし、外部からやって来る人間も多いこの街では不審者と関わる事がそれ相応のデメリットを呼び込む行為である事をここの住民たちは誰もが心得ているだけの話だったのだ。


「ほら、あんた邪魔だよっ!倒れるなら余所で倒れとくれよ!!」


「えぇ……」


 まるで路上のゴミを掃くように、果物屋の女店主は男を箒で突く。まぁたしかに男の見た目はといえば、ゴミと言われると否定するのを一瞬躊躇いそうになるくらいの小汚さではあった。

 一見すると荷物はボロボロの布袋、帽子も羽織る外套も丈夫そうではあるが、煤けた放浪者のそれだ。


「水……」


 立っているのかしゃがんでいるのか、微妙な体勢のまま男が一言呟いたが、


「はー……悪いけどねぇ、行き倒れに無償でくれてやる物も情も今日は売り切れだよっ」


 女店主の箒にはたかれて、そのまま男はすごすごと弱々しい足取りで離れて行く。


「やれやれ……ん?ほらっ、あんたもそこをどきなっ」


「んんっ」


 その様を眺めていた小汚い少年…タルドゥスは、女店主の剣幕に追い立てられて店の前から慌てて走り去って行った。


                    ◇◇◇               


 ――――っ。


「……生きてる?」


 そこから数10歩も進まぬ先で、男はやはりへたり込んでいた。タルドゥスが声をかけてもうんうんと唸り、囈言(うわごと)のように水を、と繰り返している。

 改めてよく男を観察してみる――。

 ボロボロの格好に持ち物は布袋だけ、流石に財布くらいは入っているだろうそれも、今なら断りを入れてから持って行ったとしても追いかけては来られないだろう。


「…………」


「……み、みず」


 これ以上はないほど安全な狙い目の獲物だ。タルドゥスは男の持っている袋にすっと手を伸ばすと、口を結ぶ紐を解いて中を漁った。

 初めての1人仕事だというのにこんなに簡単に成功してしまうなんて、きっとみんな驚くだろうな、

……ボスのにっこり笑顔が、目に浮かんだ。


「う、うぅ」


「……」



                    ◇◇◇



 ――ごくっごくっごくっ。


 豪快な音を立てて男は水を飲み干すと、はーっと大きく息を吐いた。

 大きな店屋が並ぶ中央街道を南側へ進むと次第に露店屋台が増えてくる。その先には石造りの大きな古い橋が架かっており、それと十字に交差するように小川が流れていた。

 その小川に添うようにして続く土手道は、等間隔に木が植えられてほどほどに整備されており、散歩する人や木陰で涼む人がちらほらと見えている。

 橋に一番近い木の下には屋台の人間が捨てたのか壊れた荷車や木材が放置されており、それらのゴミに並んで行き倒れだった男が木の幹に寄り掛かるようにして座っていた。


「それ、ただの水だからあんまり飲まない方が……いいとおもう」


 その隣に立つ小柄な少年は、おどおどとした活舌の悪い小声と怯えた表情で男を見下ろしている。


「いやぁ、お心遣いありがとうございます。(わたくし)お腹は丈夫な方なので心配ご無用ですよ」


 見上げる男の表情はにっこりとした満面の笑顔だった。

 さっきまで死にそうに枯れた声を出していたので最初はよぼよぼの年寄りかと思ったが、よくよくその顔を見れば男はまだ老人とは言い難い容姿だった。黄月の様な虹彩を持つ瞳と、ここらではあまり見かけない浅黒い肌、中年というには貫禄があるが老齢と言うにはまだ早い顔には不似合いに立派な顎髭が蓄えられており、少し可笑しなコントラストになっていた。


 男はふーっと大きく一息つくと、おもむろに立ち上がる。思った以上に高い背はその分、体の細さが相反して際立って見えてしまい、余計にひょろっと弱そうな印象を与える。


「改めまして、危ないところを助けて頂き感謝の言葉もありません。――私、カエルムの地のグエルン。しがない旅の鳥と申します」


 しっかりとした足取りで立つグエルンと名乗る男は、ゆったりとした動きで深く頭を下げた。

 ぼろ布の外套をはためかせて、持ち物はこれまたぼろ袋だけ、流れ着いたゴロツキかな?最近多いみたいだし…でも細身で弱そうで、そうは見えない。……この大げさな動きといい、もしかしたらこれがボスが言ってたクラウン(道化)という人なのかも知れない。

 ――タルドゥスが心の内でそんなことを考えていると、すっと顔を上げたグエルンの黄色い瞳と視線が合った。


「よろしければ、心優しいお坊ちゃんのお名前を伺ってもよいですかな?」


 にっこり笑うその笑顔が胡散臭いほどに良く似合う。

 しかしこれは困ったことだ。裏街の住人であるタルドゥスは、これまで他人に名乗ったことなどありはしなかった。

 あたふたと混乱する頭で自分を表す言葉を思い出す。よく分からないが、グエルンがやって見せた動きを真似してみることにした。


「――え、ええと。アウィスのぺ、ペンナに住むタルドゥス。スリの(・・・)タルドゥス。だよ」


「ほほう」


 なんとかやり切ったとほっと息を吐き、はにかんで……よくよく今自分が名乗った『やらかし』に気が付いた。


「――ああっ!いや、ちがうくてっ!」


「……ふふっ」


 見ると男が俯き震えていた。自分を狙ったスリだと分かり怒っているのだろうか?ああ、もう逃げるべきなのかも知れない、もう逃げよう、逃げたい。――足が震えて逃げられなかった。


「あっはっはっはっは」


「?」


 空を仰ぐようにのけ反る勢いで、グエルンは人目も憚らずに大笑いを始めると、突然の事に驚き戸惑うタルドゥスをそのままにヒーヒー言いながらなんとか口を開いた。


「タルドゥスくん…いくら通名とはいえ『スリ』と名乗る御仁には、くっくっ、私初めてお会いましたよっ――まぁ似た様なのは1人いましたが」


 余程ツボに入ったのか、くっくっくとまだ腹を抱えて堪えながらそう言う。


「んん――っ。そうですねぇ。君は私を助けてくれた恩人ですし通り名は『世話人』いや、『助け人』なんていいかもしれません」


「……怒ってないの?」


 おずおずと見上げてくる少年のつぶらな瞳を男は優しく見下ろした。


「私は優しき人に感謝こそすれ、憤慨するような偏屈屋ではありませんよ」


「…………」


 タルドゥスは改めて男の顔を見つめてみた。遠くに浮かんでいる様な黄月色の瞳の光彩は神秘的で、覗いていると吸い込まれてしまいそうな不思議な魅力を感じる。そうしていると本人も気付かない内にいつの間にか気心知れた知人であるかのような、そんな不思議な気持ちが涌き上がって来るのだ。


「ところで君は、ずっとこの街に住んでいるのですか?」


 グエルンは顎髭を撫でながら大通りの方を見つめていた。釣られてタルドゥスもそちらに目を向ける。


「うん。この通りをあっちに行ったところにあるスラムの中が、家だよ」


「なるほどなるほど、いやしかし子供一人で生きていくとは逞しい」


「ううん。スラムの子供たちはみんな家族だから一緒だよ。ボスたちも守ってくれる」


 そう言ってタルドゥスははにかむように笑う。それを見てグエルンも柔らかく微笑んだ。


「ほう、それは素晴らしい事です。――他の街では教会が子供たちを庇護していることが多いですが、この街ではそうでもないみたいですね」


「……ボスと一緒に時々お祈りには行くけど、最近はみんな行かなくなったかも、街がどんどん大きくなって、人が増えて…でも教会に行く人が少なくなって、神官さま寂しがってた」


「…………季節が移ろうように、人々の祈りもまた移ろい変わりゆくもの、か。…そういう事ならば、私も久々に教会へ出向いてみましょうかね」


「うんっ!きっと神官さまも喜ぶと思う」


「ははっそれはどうでしょうか――」


 ――ぐぅ~~。


 その時、気の抜ける弱々しくも主張の強い音がグエルンの言葉を遮った。それは時を告げる音か、何かを訴える物言わぬ声か、少年のお腹から高らかにそして物欲しそうに告げられ続いている。


「ふぅむ…なるほど。何はともあれ恩人へのお礼が先でしたね」


 恥ずかしそうにお腹を押さえるタルドゥスを、まじまじと観察してからグエルンは笑顔で歩き出す。きょとんとそれを見ていたタルドゥスも慌ててその背中を追いかけた。


「え?どこに行くの?」


「東方の言葉に『たとえ戦の準備が間に合わなくとも腹だけは満たせ』というものがあります。何はなくとも食事は大切という事ですね」


 大通りに向かいながらも、グエルンはずっと会話を続けていた。好きな食べ物、美味しい出店に優しい露店主の事。聞かれたタルドゥスはボスと来た事のある数少ない思い出を掘り返しては、つとつとと考えながらそれに答えていた。


「――という訳で、この街で一番の善良にして美味しい串焼きを出す店のご店主よ、やっかいになりますれば」


「…………」


 声を掛けられた熊のような見た目の露店主は、串に宍肉を刺しながら、また『厄介そうな客が来たもんだ』と言いたげな顔でまじまじと訝しそうに目の前の男を見つめていた。

 どう見繕っても金を持ってはいなさそうな小汚い2人組だ。出会い頭に帰れと言われていないのが奇跡ではないだろうか。

 しばしの間お互い無言で見つめ合ってから、なにか納得した様に頷いたグエルンが口を開く。


「串焼きを2本」


「――銅貨6枚だ」


 すぐさま返す露店の親父の目線は、グエルンだけではなくタルドゥスの方へも向けられる。肉の一欠けらでも盗んでみたらどうなるか解っているよな?という無言の圧力を向けられた少年は後ろに下がって思わず縮こまってしまう。


「おや?――あれ?――ふむ」


 一方、不思議な動きで服の中をまさぐっては変な声をあげていたグエルンの方は、財布らしき小さな布袋を取り出すと、何度も何度もその中身を確認していた。


「あー、ご店主。これで足りるでしょうか?」


 出されたものを一瞥した瞬間に、一度目を閉じて深くため息を吐いてから店主は熊の様に大きな掌に受け取った銅貨を並べて1枚ずつ丁寧に数えて見せる。


「1、2、3……足りないな」


 店主の熊のような迫力にタルドゥスはすっかり怯えてしまい、更にもう2歩後ろに下がった。


「あれ、足りない?……差額は負かりませんか?ムリ?では私の歌を代価という事で如何で――ふざけるな?……はー、では仕方ありませんね。それがなけなしの全財産です……」


 延々と聞こえてくる不毛なやり取りを後ろで聞いていたタルドゥスは、最後にはむしろ熊のような店主への申し訳なさでいっぱいになっていた。


「――まいど」


 グエルンのあまりの情けなさに同情されたからか、一本だけ渡された串焼きに刺さっている肉は心なしか大きめの物ばかりで、本当なら3個だけ刺さっているはずのブロック肉が何と4つも刺さっていた。


「いやー、ありがとうございますご店主。この御恩は私、決して忘れませんとも!」


 この人ゴロツキじゃなくて詐欺の人なのかな?

 子供の様に喜び大仰な仕草で礼を言うグエルンに店主は片手を上げて無言で答える。


「あ、ありがとうございます――」


 それに倣う訳ではなかったが、タルドゥスも露店主にお礼を伝える。――それは単純に嬉しかったから自然に出た言葉だった。

 それをちらりと見て、やはり何も言わずに片手を上げる店主の瞳はどこか我が子を見つめる親熊の様な優しいものだった気がする。



                    ◇◇◇



 露店の裏手、小川沿いの土手へ移動すると、グエルンは早速無駄に恭しい仕草で串焼きを差し出した。


「さあさ、お待たせいたしました。私の心からのお礼の品。宍の串焼きです」


 ずいっと向けられた出来立ての美味しそうな串焼きに思わずまっすぐ伸びかけた手をタルドゥスはぐっと我慢して抑え込んだ。


「……でも、それっておじさんの全財産なんでしょ?」


「そうですが?」


 不思議そうに返すグエルンを見返すタルドゥスの表情はなんとも気まずそうなものだった。それは先ほどから聞こえてくるグエルンの腹の音のせいかもしれない。


「ふむ、……いいですかタルドゥスくん。我々のような流浪の徒には往々にして習慣が生まれます。その一つが、『礼は出来る内に返す』というものです」


 その言葉を語るグエルンには嘘偽りのない雰囲気があったが、それでもタルドゥスは困惑していた。

 まだ小さな子供に過ぎないタルドゥスではあったが、それでもスラムで生き抜いてきた知恵という強かさを培ってきたからこそ、まだ今を生きられている。

 それはつまりスラムに生きる者にとって温情とは隙であり、それに無警戒に飛びつく者はカモなのだということ。

 串焼きを前にして黙り俯き考える。そんな少年を見つめていたグエルンは、んーっと少し考えてからゆっくりと口を開いた。


「――慎重な事は大切です。特にここで生きていく人にとっては必要な処世術なのでしょう。しかし、時には人の好意に素直になる事もまた上手く生きる為の処世術ですよ……まあ後は、私を信用するかどうかですね」


「…………」


 そこに根拠はなく、また絶対と言える保証もない。だけど、赤の他人の通り名を考えていたこの人の表情は、お礼だと言って向き合ってくれたその態度は、それを見ているとどうしてもボスの顔を思い出してしまったから、「じゃあ――」タルドゥスはこの妖しさの塊である男の好意を今回は素直に受けとることにしたのだった。



                    ◇◇◇



「うーん!これは美味!!」


 子供の様にはしゃぐグエルンを見てタルドゥスは笑っていた。


「いやしかし、好意を好意で返すとは、なかなかどうして嬉しいことで」


 一本の串に刺さった4ブロックの肉を2つずつに分け合おうとも、串焼きの味は半分に減ることなく変わらずに美味しかった。


「むかし、ボスがこうやって自分のお肉を分けてくれた事があって……」


 肉を頬張る合間にタルドゥスはたどたどしく思い出を語っていた。聞き手のグエルンは大げさにも見える反応で、しかし面白そうに本当に興味深そうに相槌を打っている。


「ほうほう、なるほど!私もお話を聞いていてそのボス殿にぜひ会ってみたくなってきましたよ」


 タルドゥスはこの街に居てこんなに楽しい気持ちになったのはいつぶりだろうかと考えていた。もちろんボスやホームの仲間たちといる時は楽しかったが、外の人に自分の好きな人たちや場所の話を聞いてもらえる事をこんなにも明るい気持ちで迎えたのは、はじめての事だった。


「それで、1人でいたボスがその髪飾りを――」


「――あーっ!いた!やぁっと見つけましたよー!!」


 青天の霹靂というにはささやかなものだったが、タルドゥスの言葉を遮ったその大音声は彼を驚かせるのには十分な声量だった。


「どぉこに行ったかと思いましたよ旦那ぁ!」


 何事かと狼狽えるタルドゥスなどお構いなしに、声の主はまだ大声で喚きながら近づいてくる。

 露店脇から大通りに続く土手道の入り口から、一見ドワーフかと見紛いそうになる小男がどやどやとこちらへ向かって大股で歩いて来ていた。質素だが丈夫な厚手の服装に最近行商人の間で逸りのハンチング帽を頭にのせて、冬ごもり前に木のみを集めている小動物を思わせる様な忙しない動きで2人の前まで駆けて来る。


「あの騒動の中で突然いなくなるもんだからどこに行ったかと思ったさ!」


 男の声は至近距離でも尚うるさかった。


「おやおやこれはこれは、行商殿。貴方もご無事なようで何よりです。まさかこんな所でまた遭逢するとは、何という巡り合わせか…」


 何とも神妙な面持ちでふむふむと顎髭を撫でるグエルンに対して、行商人は人懐っこい笑顔でニコニコと上機嫌だった。


「ああ、幸い大した怪我人もいなかったみたいでさぁ。積み荷に被害受けた奴らで門前はまだごたごたしてるようですがね…………んでは!お互い無事な姿も見れたところで、はい」


 丸っこい掌を差し出す行商人の顔はそれはもう嬉しそうに見える。


「…!ああ、すみません。串焼きはもう食べてしまいまして…欲しいのならほら、あのお店ですよ」


「いやいやいや!そうじゃなくっそうじゃなくて!お代ですよ」


「オダイ……ああ、お代。そういえばこの街までの運賃をまだお渡ししていませんでしたね。そうでしたか。早く言ってくださいよ」


「もうっ最初からそう言ってるじゃないですかい全くもう…」


 満を持してと両掌を差し出して、その姿はまるで待てを言われた犬のようだ。


「おいくらですか?」


「へい、銅貨6枚になりやす」


「なんと!あの距離の運賃がたったの銅貨6枚とは何と良心的な事か!?」


「いやまぁ、あんな狭い積荷の合間でしたからね。あっしは乗り合いの相場はよく知りませんが6枚頂ければいいですよう」


「ううむ行商殿、薄々思ってはいましたがさてはあまり商売に向いていませんな?」


 自分でも思うところは多々あったので行商人はそう言われても怒ることはなく、落ち込んだような気恥ずかしそうな微妙な顔をして見せた。


「…………」


「…………」



「…?あの、どうしました旦那?」


「あ、私待ちですか?」


「他にいないでしょう?」


「申し訳ないのですが、御覧の通り今手持ちが一枚もございません」


 言いながらグエルンはつまんだ銭袋を逆さにして軽く振るが、その口からは小銭どころか埃のカケラすら落ちてはこなかった。


「はぁ――っ?!いやいや、あんたぁ今美味しそうに串焼き食べてたでしょうが!そのお金はどうしたんですか?」


「はい、今美味しく食べきりましたよ」


「残りの分は?」


「ああ、半分は彼が、」


 そう言ってちらっと目の前の少年を見る。

 あっけにとられて固まっていたタルドゥスは2人を交互に見ると、慌てて残りの肉の塊を口いっぱいに頬張った。


「いや、いやいや串焼きじゃあなくてお金の方ですよう!」


「もちろん使い切ったのでありませんよ?」


「はぁ?ど、どうすんですかお代は!あっしは帰りの積荷の予定も無いんだから少しでも貰わなきゃ困るんですよう!!」


 可哀そうに、行商人は少し涙目になっていた。

 一方でグエルンは相変わらず立派で硬そうな髭を撫でつけながら、ちらりとタルドゥスを一瞥してまた行商人を見る。


「…では行商殿よ、これで銅貨6枚の代わりにというのは如何かな?」


 そう言いながらグエルンは被っていた帽子を外してすっと差し出す。抑えられていた髪がぱらりと垂れると見惚れるほどに立派な銀髪が流れ落ちる。それは近くで見ると顎髭と同様に張りがあってとても堅そうだったが、肩まで伸びた銀髪が広がった姿を遠目から見たそれは更に老人の様な色合いが強くなっていることだろう。


「それは?」


 目の前に差し出されたしっかりと使い込まれた帽子は、大樹の革の様な独特の色合いと変わった紋様が装飾されている。よく言えば年代物で、悪く言えば見るからにくたびれた使い古しだった。


「ええ、ええお目が高い。これは何の変哲もない私愛用の帽子です」


「……これは幾らになるんです?」


「そうですね、前に質屋から買い直した時はたしか…アルディシアの花10本分くらいでしたね」


 しばし、行商人は考えてから。


「――それは銅貨1枚分もないじゃないですか!」


 悲壮に騒ぐ男を前にして、グエルンは何故か目を細めている。


「旦那ぁふざけてるんですか?実は払う気がないんでしょう?」


「そんなことはありません、至って真面目ですよ。…実を言うと私はこちらの少年にもまだ半分程度にしか恩を返せておりませんで」


 大仰な動きで言葉を綴る。言っている事と態度はあれなのに、彼の言葉一つ一つはとても真剣な声色に聞こえた。


「礼は示すもの、恩は返すもの、それが私の信条です……ではこう致しましょう。今この帽子を受け取るか、後ほど銅貨6枚受け取るか。お好きな方を御二方其々に渡したい。行商殿はどちらがよろしいか?」


「はぁーもう!いいですからとにかく駄賃をくださいよ駄賃!」


 いい歳した男は騒ぎその目には涙が溢れ、いっそ可哀そうだった。

 それはそれとして、タルドゥスの視線は帽子の不思議な紋様に注がれる。


「ほうほう、お目が高い。この帽子気に入りましたかな?」


 こくこくと頷くタルドゥスに笑顔を向けると、グエルンは帽子をくるりと返して差し出した。


「ではしばし、この品を質入れ(・・・)すると致しましょう」


 渡された帽子を嬉しそうに受け取るとタルドゥスはさっそく被ってポーズを決めてみる…しかしなんともサイズの合わなさにすっぽりと覆い被さった帽子が顔を半分まで隠してしまい、これでは不格好なヘルメットの新兵だと肩を落とした。

 右を見ても左を見ても前は見えないので、タルドゥスは仕方なく帽子を取り外してよくよく観察してみることにする。つばの無いここらでは見ない独特の形、質感は柔らかいのにしっかりとしていて見れば見るほど不思議な紋様がぐるりと施されている。元々は何色だったのだろうか?古くてくすんでしまった深緑と焦げ茶色の樹皮のような色合いが長旅の苦難を物語っていた。そして渡された時から思っていたのだが、さっきすっぽりと被った時に感じた独特の…少し、におう(・・・)ことがまた旅人の過酷さを少年の脳裏に連想させるのだった。


「で?あっしの銅貨はどうやって払ってくださるんで?」


 小さなか細い声が横から割り込んでくる。疲れたのか、いじけてしまったのか、行商人はしゃがみ込んでしまいその態勢すらも小さくなっていた。


「ふむ、そうですね。なかなかどうしていい頃合いで……」


 グエルンが空を仰ぐ。珍しく薄雲もない高く透き通るように青い空に涼しい風が吹き抜けて、天頂に座する太陽の隣を列をなした鳥たちが悠々と渡っていた。風に乗って豊かな麦の良い香りが鼻をくすぐり去って行く。

 街道を逸れたここからでも通りに人が増えてきた事がよく見えた。道の中頃を荷馬車が行き交い、お昼に出てきた人たちが賑やかな喧騒を響かせる。さっきまで人も疎らだったこの河沿いの土手道にも休憩して寛ぐ人や散歩に通る人がちらほらと増えていた。

 いったい何を始めるのだろうかとタルドゥスは2人のおっさんを眺めていた。グエルンは行商人に手伝わせて、そこらに捨てられていた空樽や廃材をせっせと運んでは組み立てている。……もしかしたら詐欺師ではなくて大道芸人だったのだろうか?



 ――そして寸刻が過ぎた頃、河沿いの木陰には疲れ果ててへたり込んでいる行商人の姿が在った。

 その隣では――……。


「ようし、これで立派な我が舞台だ」


 そう言ってグエルンがばさりとぼろ布を被せると、そこに出来ていたのは小さな台座だった。しかし舞台と呼ぶには余りにも小さくオンボロでお世辞にも立派とは言い難かったが、確かにグエルンには似合っているとも言えなくもない…。


「さあ、タルドゥスくん。始めましょうか」


 心なしかグエルンの声に張りが出ていた。


「え?ボクは何も出来ないよ……」


 タルドゥスの声が萎んでいくのは実際の出来ないというよりももっと複雑な心境からなのだろう。


「うむうむ、君にはそこに立っていて欲しいのです。あ、帽子は忘れずにね」


 そう言って朗らかな笑顔の片目が閉じられる、実に自然で慣れたウィンクだった。グエルンはそう言いながら軽く片手を振ると羽織っていた外套をばさりと脱いでから、内側に背負っていた布袋を丁寧に降ろして荷物を畳むと奇麗に纏める。その所作一つ一つが旅慣れた人間の老練で流れる様にスムーズな動きであり、タルドゥスはその様を素直にかっこいいと感じていた。


「あ」と思わず声に出たのはグエルンが布袋から取り出した楽器が余りにも美しかったからだ。

 少年の灰色の瞳を惹き付けてやまなかったのは、古めかしくも佳麗な意匠の一本のリュート。表面に装飾された風変わりな模様はタルドゥスが両手で抱えている帽子のそれに似ている。そろりと掲げてよくよく帽子を観察していると、頭の上からポロリポロリと小気味の良い奇麗な音が降って来た。

 確認するように音を弾いては絃先の摘みを幾度か回して音階を整える。ふと目が合うとグエルンはにこりと笑った。

「さあて」と小さく呟くと、小汚い小さな台座の上に重さを感じさせない軽やかな動きでふわりと立つ。なんともバランスの取り難そうなガタガタの台上で小躍りでも始めそうな軽快さでくるりと回り足元を確認しているが、そのグエルンの動きには危なさが一切感じられなかった。


「――っ」


 すると、何の前置きも無く唐突に軽快な音が奏でられ始める。踊り始めた音楽は殺風景な土手道を埋め尽くし、……一瞬にしてそこは彼の『舞台』へと様変わりした。



                    ◇◇◇



 軽快に、楽し気に、単調に繰り返されているようでいていつの間にかその音に体が釣られて動いてしまう。聞き手の鼓動は思わず弾み、場の雰囲気は舞台を中心にして彩られていく。

 はっと気が付くと舞台の周囲にはいつの間にか結構な数の人垣が集まっていて、さっきまで閑散としていた河沿いは既に賑わいに埋め尽くされていた。

 集まった人々は風に乗って流れてくる楽し気な音の旋律に聞き入って誰もが皆笑っている。

 それを一瞥してから満足そうに頷いたグエルンは曲のテンポをするりと変えた。


「ゆく河の流れは絶えずして…しかももとの水にはあらず~…」


 吟遊詩人の声の響きは実に心地よく、言葉に合わせてポロンと弾かれる音は聴衆の耳をそばだたせる。丁度よく吹く風が音を運び背後に流れる川のせせらぎすら人を惹きつける演出と感じる。


「……さあさ、さあさ、これより語りますのは~…」 


 そこに紡がれる物語は、聞いているだけで勝手に胸を高鳴らせて続きを、結末を聞かなければそこから動く事すら出来るものかと人々の足を釘付けにした。 


                              ◇◇◇


「~かくして、雪花の村人は今日も山の冷たさに負けることなく、身も心も温かく慎ましやかに過ごすのでありました……」


 しめやかなリュートの音が物語の終わりを告げると、一瞬「しん…」と周囲が静まった。余りの落差にタルドゥスが顔を上げた途端――わっと歓声が沸く。

 『拍手喝采』という言葉を聞いたことはあったのだが、タルドゥスと行商人がそれを聞いたのは今日が産まれて初めてのことだった。



 狭い台座の上で器用にお辞儀をするグエルンに促されて、タルドゥスは右へ左へ逆さにした帽子を掲げる。人垣の後ろからも飛んでくるおひねりの雨は止む事無く帽子の中へと次々に吸い込まれていった。


「……ふうむ」


 少しだけ考え事をするように顎髭を撫でつけていたグエルンが、思い出したかのようにばっと頭を上げる。


「そうそう…余談ではございますが、その雪山で勇者一行が振る舞われたという串焼きは今では村の名物料理となっておりまして……そう、ちょうどあちらの屋台の物に似た温かで風味の効いた味わいでした…」


 その言葉にぎょっとして振り向いたのは、聞き耳を立てて聴いていた串焼き屋の熊のような店主だった。

 店主は無言で残りの食材を確認してから、目にも止まらない早業で矢継ぎ早に串打ちを始める。



 ――……その日、遅くまで串焼きの屋台に列が出来ていた事は後々まで露店主たちの語り草となるのだった。



「ありがとうございます。ええ、王都に寄りました時はぜひにまた――」


 幾人かがグエルンと握手を交わして、騒ぎに駆けつけて来た警邏のお叱りを受けて、舞台の片付けを終わらせてからようやく解放された2人にタルドゥスが近づく。余りの騒ぎに驚いて呆然としていた前でせっせと片付けを手伝わされていた行商人は、今はぐったりとして木にもたれ掛かったまま動かなくなってしまっている。一方のグエルンは「ふぅ」と額の汗を拭っているが、まだまだ元気そうに笑っていた。


「おじさん、あの…これ」


 その手にはグエルンのくたびれた帽子、の中に溢れそうなほど山盛りの硬貨があった。タルドゥスの細腕ではもう掲げることが出来ず重そうに辛うじて抱えている。


「……ふふ、ああ、帽子を持っていただきありがとうございます。では帽子はそろそろ返してもらいますね」


 どこかから取り出した麻袋にその硬貨をジャラジャラと移し入れると袋をそのままほいっと渡した。

とっさに受け取ったタルドゥスはその重さによろけて転びそうになるのを何とか踏みとどまる。


「えっ、でもこれは――」


「――これはあなたに質入れしていた帽子を私がまた買い取った分の代金です。実はこの帽子とても大事なものでしてね……おや、まだ足りませんでしたか?」


 何とも納得のいっていない顔だったが、グエルンの言葉に慌てて首を振る。


「……うん。ありがとうございます」


 銀髪の紳士は被った帽子の角度を調整すると目を細めて満足そうに頷いた。


「――いや、いやいや待ってくださいよ!あっしは?あっしの取り分は?」


 奇麗に話が終わったような雰囲気を行商人の素っ頓狂な声が遮った。


「ああ、申し訳ない行商殿よ。私たった今また一文無しになってしまって……」


「んー??それ、それは?」


「これは彼のものですゆえに、私にはどうすることも…」


「???」


 行商人は混乱している。


「まあまあ、あてはありますので落ち着いて…それに、ふふ」


 言いかけてグエルンが可笑しそうに笑う。


「――なにか?」


「いえ、色々と懐かしくなってしまいまして、今日はもう少し誰かと語りたいのですよ」


「…………はぁー、もういいですよ、どうせ今日の宿もまだ決めてませんし。こうなりゃとことん付き合いますよう」


 大きなため息を吐いて項垂れる行商人を見てグエルンがまた笑う。楽しそうに愉快そうに、……ああ、大人もこんなに笑うのか、この初めての不思議な出来事と胸に去来する初めての感覚にタルドゥスは2人の横で、どこかふわふわした気分で…笑っていた。



                     ◇◇◇



「ええっ!?こ、こっちの道を行くんですかい?」


 すっかり日も傾いて人影の疎らになった通りでは行商人の素っ頓狂な大声がよく響く。まあまあ離れた所を歩いていた紳士風の男がその声にぎょっと驚き、こちらを訝しそうに凝視していた。


「ええ、こちらなのでしょう?」


 頷いたグエルンは確認するようにタルドゥスを見た。


「うん……」


 もう遅くなってきたという事でタルドゥスを送るために3人は北西側の地区へと向かって歩いていた。

 日が陰っても大通りの方は街灯と店々の明かりに照らされてまだ活気と賑わいを見せていたのだが、通りを2本も過ぎた頃には辺りはすっかり暗く人の気配もいつの間にかなくなっていた。こちらの区画は大通りの街道と比べて街の整備もあまり行き届いていないようで、道はガタつきが酷く心なしか街並みも古く貧しい印象を醸し出している。


「旦那は知らないでしょうけどね!この先の道は『追剥ぎ通り』って言って危ないんですよ!昼間でもあまり近づかないのにこんな時間にここを通るなんて……」


 行商人は自分で言ってて怖くなったのかきょろきょろと辺りを伺って不審極まりない動きを見せている。今警邏と出くわしたら真っ先にこの男が捕まるのではないだろうか。

 一方のグエルンはというと、そんな話を聞いてもどこ吹く風といった塩梅で、その足取りまだ歌っているみたいに軽やかだ。

 周囲は更に薄暗くなり大通りに比べて明らかに少ない街灯も所々が壊れて消えている為に、ここら辺りだけ一足早く夜の帳が所狭しと降りている。


「ふうむ、確かに舗装も行き届いていないし中央通りに比べて危ない道ですね」


「いや旦那そういう意味じゃなくて――」


「――おっと」


 妙に楽し気に前を歩いていたグエルンが不意に何かに躓いたのか、よろけてしゃがみ込む。


 ――ヒュンッ。


 すると今までグエルンの顔があった辺りを何か小さな音が通り過ぎて、「ぎゃっ!」っとそのすぐ後ろに付いて歩いていた行商人の甲高い悲鳴が上がった。


「げほっ!えほっ!!…っ!」


 同時に何かの粉末が大量に飛び散ると、それをふんだんに浴びた行商人がゲホゲホと咳き込み始めて苦しそうに涙ぐんでいた。


「だっ!だから言、ったのに、ここは『危ない道』だっって!ゲホッ、追剥ぎだぁ!!」


「――タルドゥス、走るぞっ!!」


 明かりの届かない道の脇、真っ黒な闇溜から飛び出してきた人影と声はタルドゥスの手を取ると力強く引っ張って道の向かい側へと駆け抜ける。


「ま、まって――まってボス!」


 タルドゥスは目まぐるしい状況の中で前を走る人物になんとかそれだけ声をかけたのだが、


「話は後だっ!とにかく走るんだよ!」


 ボスの大声に叩かれてしまうと、もう次の言葉は出てこなかった。

 揺れる視界、過ぎる暗い街、遠ざかっていく後ろをおずおずと振り返る。そこには、暗い通りにぽつんと照らされた街灯の下で咳き込み大袈裟にのたうつ行商人と、その隣では……にっこりと笑顔でこちらに手を振っている吟遊詩人がいつまでも見送ってくれていた。


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