あの時見たそれは、確かに
6月のとある午後、キミ子は家の前の道路に水で輪っかを書き、ケンケンパをして遊んでいた。
「キミちゃん、洗濯物入れるの手伝ってくれん?そろそろお姉ちゃんも帰ってくるじゃろうし」
「はぁーい」
母に呼ばれて、庭に干していた手拭いや服を取り込むのを一生懸命手伝う。
「お母ちゃん、お腹すいたねえ」
「そうねえ」
「真っ白いご飯食べたいねえ」
「……そうねえ」
昭和20年。今は戦争中で、どんどん配給は少なくなりお腹は空くばかりだ。だがそれは皆同じ、文句は言ってはいけないと幼いながらにキミ子は理解していた。
「ああ!いた、秋野さん」
「あら、池田さん」
ちょうどその時、近所の池田さんがやってきた。どうやら母に話があるようで、キミ子は縁側に置いた洗濯物を畳みながら待つことにした。
「秋野さん聞いた?昨日……で……水島が……」
「ああ…………さんも、今帰り……?」
「大きな市は……だいぶ……やられ……」
「……ここいらも……」
「…………用心せんと……」
手ぬぐいを何枚も畳みつつ会話に耳を傾けていると、途切れ途切れだが、話が聞こえてくる。なんだか声が増えたので目を向けると、いつの間にか近所のおばさん達が増えて井戸端会議みたいになっていた。
「……おばちゃん達っていつの間にか集まって、いつの間にか円陣を組むよなぁ」
「!!ちづちゃんおかえり!」
8歳上の姉、ちづ子が学校から帰ってきた。そのお腹に思いっきり抱きつく。潰れたカエルのような声が上から聞こえた気がしたが、無視して頭を擦り付けた。
キミ子は現在3人暮らしであった。父は県外の軍需工場で働いていて、滅多に帰ってこれない。最近は忙しいのか手紙も届かなくなり、母が憂えげな表情で仏壇に手を合わせているのを時々見かける。姉妹はそんな母の為にも元気で明るく努め、支えようと決めていた。
しばらく姉妹で戯れあっていると母が不安そうな顔をして戻ってくる。
「あ!母さん話終わったん?なんか皆神妙な顔つきで話しとったけど」
「ああ、ちづ子おかえり。昨日な、飛行機作る工場が空爆されたらしくてな」
「ええ!ほんまに?」
「最近地方の空爆増えとるし、近くの工場が狙われたっちゅう事は、ここもそろそろ危ないんじゃないかって……」
「大丈夫だよ母さん。きっと兵隊さんが倒してくれるよ!父さんだっていっぱい砲弾作っとんじゃろ!?」
「ほうならええけどなあ……。一応しっかり引き締めておこうな、二人とも」
姉と一緒にはーいと返事をしたキミ子だったが、よくわからないままだった。
「空襲だー!!敵襲ー!敵襲ー!!!!」
あの日から1週間も経たない深夜、外から聞こえてきた叫び声と、鍋か何かを叩く音で飛び起きる。
「ええ!?何?空襲警報鳴っとらんよ!?」
「いいから!キミちゃん起きて!ちづ子、はよモンペと防空頭巾着て!!」
「うぇえなんなん……?キミちゃんまだ眠い……」
「キミそんな事言ってる場合じゃないの!早く母さんが戻ってくるまでにこれ着い!」
母は素早く着替え台所へ行き、お金や梅干し、塩などの食料を床下に隠していた陶器の甕の中に入れた。その後すぐ姉妹の元へ戻り、共に外へ出る。右の空が明るくなっていて、かすかに飛行機の音が聞こえてきた。
「もう燃えとるんかもしれん、2人もこっちへ!」
庭に置いていた水バケツを頭から被りしっかりと手を繋いで走り出す。道には既に沢山の人が逃げ惑っており、大通りに出れば遠くに炎の柱と煙が上がっているのが見えた。
「母さん!どうするん!?どこに逃げるん?神社行く……!?」
「お母ちゃん……キミちゃん達死んじゃうの……?」
母は少ない時間で考える。自らの選択で、家族全員の命がどちらかに振り切れてしまうのだ。間違えることは確実に死を意味する。この子達を救うには──。
「……こっち!」
「……母さん!?そっち燃えとるよ!!」
「いいから来んさい!」
母は燃えてる方向へ走り出した。逃げる人々と逆方向へ走っていく。途中頭上を何台も飛行機が飛んでいったが、運が良かったのか爆弾が落とされることはなかった。遠くからドンドンと轟音が聞こえ、風に乗って焦げ臭い匂いも流れてくる。頭上から爆弾が降ってくる恐怖と戦いながら走り抜け、見えてきたのは城だった。
「二人とも飛び込んで!早く!」
「だ、大丈夫なん!?」
母が連れてきたのは城の水堀だった。他にも水堀に入っている人がたくさんいる。母の気迫におされちづ子は飛び込んだ。その後に母もキミ子をおんぶして水堀に降りてきた。3人で足の付かない水堀の中で、沈まないよう石垣にしがみつく。7月が近いとはいえまだ6月。水はとても冷たかった。
「大丈夫じゃ。しっかり離れんさんなよ」
「……うん」
「冷たいよお」
「キミ我慢!母さんを困らせたらいけん」
水に入って数分後、飛行機のエンジン音が大きくなる。母は二人に覆い被さるようにして抱きしめた。パッパッと周辺がとても明るくなった後。空気を切るような音と共に、バリバリと轟音と地響きが響いた。
「わああああ」
「……わあ!」
その後も至る所からドンと轟音が響き渡った。近くに落ちたらしく、一度熱い風がキミ子らまで届いた。遠くで、近くで爆音が響くたびに母が守るように力強く抱きしめてくれる。あんなに寒かったのに周り一帯炎の海になりとても熱い。ちづ子は耳を塞ぎながら半ベソをかいていた。
「うわああ、怖いよお」
「大丈夫大丈夫、母さんが守ってあげるからな」
母は自分自身に言い聞かせるように呟く。キミ子は大丈夫かと視線を向ければ、そんな心配をよそに目をキラキラと輝かせていた。
「……キミちゃん?」
「母ちゃん、ちづちゃん見て!!綺麗!花火みたいだよ!!!」
そう言って空を指さす。城の向こうで照明弾が光ながら落ちている。またいくつかの焼夷弾が火花を上げながら落ちているのもみえる。それはまるで城を中心に周りで花火が上がっているようだった。
「何言ってるんキミ!どこが花火に見えるん!?」
「えー見えるよ!ちづちゃんもよく見てみてよ!ほら、きれいだよ!」
「きれいじゃないからああああ!!」
うわあああんとちづ子は泣き出した。
「ちづちゃんには分からんかなあ?ねえお母ちゃん、きれいだよね?」
「…………そうねえ」
母も風景に目を向ける。爆弾と、燃え盛る街と煙。熱い風で火の粉が舞い上がる。あたりは赤や黄色や橙色など暖色で照らされ明るく、黒々とした城だけぽっかり切り抜いたようであった。
空爆は尚も続く。頭上に飛行機が接近してきた時や、熱風で頭が熱くなってきたら何度も水に潜り息を潜めた。気づく頃にはすごく近くでバチバチと音がしていて、目の前が一層明るくなっていた。
「……母さん!お城が!!」
焼夷弾が当たったのか、火の粉で火がついたのかちづ子達には分からない。あんなに立派に聳え立っていた城が、巨大な炎の山となって轟々と燃え盛っている。
「うわああ!すごいきれい!」
「キミそんなこと言わないで!お城が燃えてるんよ!?もうお終いじゃあ……」
ちづ子はまたしくしくと泣き始めたので、母はそんなちづ子の背中を優しくさする。その間にも城は消す間もなく燃え続け、時たまガラガラと何かが崩れる音が聞こえてくる。周りにいた人々からも落胆するような声が聞こえた。
「母ちゃん、燃えるお城綺麗じゃね。昔々のお侍も、こうして燃えるお城見てたんかねえ」
「そうかもしれんね…………確かに、燃える城は壮大で……綺麗ね」
キミ子と母は燃え盛る城を目に焼き付けるように視詰め続けた。街を見守っていた天守は燃えるものが無くなるまで火を灯し続け、そして遂に根本から崩れ落ち跡形も無くなった。
3人が家に戻ったのは太陽が天辺に昇った後だった。昨日と打って変わって街は瓦礫の山と化し、すれ違う人は怪我をしていたり、煤に塗れて真っ黒だったり。はたまた誰かを探しながら声をあげて歩いていた。道端で百貨店が燃えて何百人も死んだなどと話している声も聞こえてくる。
「……家がないなっとる……」
ちづ子が呆然と声を上げる。辺り一面見渡せるほど燃え尽くしているのだから、家も全焼しているだろうという予感はあったが、実際に目の当たりにするとショックを隠せない。
「……秋野さん!良かった皆無事だったんねえ!」
「……ああ池田さんも!良かった……!他の皆は?」
「うちは皆無事よ。まだ帰ってきてないとこもたくさんおるけど井関さんも三浦さんも無事」
「……さっき道端でな、百貨店に逃げた人が何百人も死んだって話とる人がおって……」
「そりゃ嘘じゃ」
「……永井のお爺ちゃん!あんたあ無事だったんね!娘さんが避難で逸れたいうて探しとったで……!」
池田さんと母が話していたら近所のお爺さんがやってきた。
「ちょっと火傷したけどのお。ちょうどその側通って帰って来たんじゃが、作業しとる人に聞いたら今は15人くらいじゃと。まだ運び出してない仏さんと負傷者がいるってんで、これからまだ増えるだろうがの」
「そうなんね……よくないけど良かったわあ……」
「向こうはかなり悲惨じゃったけ、当分行かんほうがええ。片付けが追いついてのうて、あちこち転がっとった」
永井さんは淡々と話しているが相当悲惨な光景だったのだろう、顰めた表情がそれを物語っていた。それじゃあ娘に顔見せんとの、と家の方向へ去っていく。池田さんも家に戻ったらしく母がちづ子に声をかけた。
「ちづちゃん、床下に隠したご飯とお金が無事かどうか探すけ手伝って」
「分かった!」
「まだ熱いかもしれんけ気をつけてな。キミちゃんは防火水槽から水汲んできてくれる?」
「うん!」
無事だったバケツを発見しキミ子へ渡す。キミ子は共同で使っていた防火水槽へ向かった。その途中でふと足を止める。道中の燃えてしまったその家の前に線香が2本、地面に寝かされていた。小さく煙を出している線香のそばに、モンペを着た男が立っている。一切汚れのない綺麗な服に乱れなく整った髪。同じ格好をしているのにあまりにも場違いに見える男を、誰だろうと見つめているとパチッと目が合ってしまった。
「こんにちは」
その男に声をかけられ、動揺するが挨拶されたのできちんと返した。
「……こんにちは。あなたはそのお家の人……?」
「いいえ、このお家の人を迎えに来たんです」
「でも今おらんみたいですよ……?」
「魂を迎えにきた……と言ったら分かりますか?」
「うん……うん……?線香……あるけ……」
キミ子は少し怖くなって男を見上げると、男はニコニコして私は優しい良い人間なので大丈夫ですよ、なんて言う。
「お嬢さん、お名前は?」
「……秋野キミ子です」
「キミ子さん、ですか。うん、良い名前だ」
そういうと男は何も無い空中へ目を向ける。よく見ると目が左右に動いていて、まるで何かを読んでいるようだった。うん、と小さく頷くとキミ子の目線までしゃがんで男は言った。
「あなたは大丈夫。お母さんもお姉さんも……お父さんも。これからは悲しいことがあっても諦めないで、何事にも一生懸命取り組みなさい。君を、君の家族を迎えに行くのはだいぶ先です」
「……ほんとう?」
「ええ、本当です。……本来見えないはずの私が見えてしまったのも何かの縁。……その時は他の者ではなく私がキミ子さんを迎えに来ましょう」
「うん……?」
「それでは、今は悲しいことも多いけれど家族皆で乗り越えていって下さいね」
男はそういうと、線香の煙のようにふわっと目の前から消えてしまった。キミ子はびっくりして辺りを見渡すが、男は何処にも見当たらない。今のはなんだったんだと呆然と立ち尽くしていたが、水汲みのおつかいを思い出し慌てて駆けていった。
部屋のテレビの横に置かれた小さな仏壇。開かれた扉には、姉と夫の命日が書かれている。呆けて解らなくなった私のために長男が書いてくれたものだ。
「キミ子さーん!失礼します、体温測る時間ですよー」
施設に入って早数年、夫と死別して認知症も進み、この歳で大病を患い、手術をしてから歩くことさえままならなくなった。ベッドから降りることも喋ることも上手く出来ず、こうして職員や息子達が遊びにくるのをただただ待つだけの日々だ。
あの空襲から数ヶ月後、戦争は終わり家族皆無事乗り越えることができた。私は大人になり結婚し子供も2人儲け、今ではひ孫も生まれている。あの時、線香の前に立っていた謎の男性。この歳になった今、何者だったかハッキリ理解できる。あの人が私を迎えに来てくれると言っていたので、その時が来ても怖くない。それに、もう一度あの人に会えるのが少し楽しみでもあるのだ。
「はい、終わりました。正常ですね。それじゃ次はご飯の時に来ますね」
「……あぁういうぁ、ろぉ」
「どういたしまして!……テレビでもつけときましょうか、リモコン手のそばに置いておきますね」
ピッとテレビを付け、職員は出ていった。画面には先日あったのだろう、花火大会の様子が映し出されている。
夜空に浮かぶ大輪の光、ヒュルルと上がる火の玉、巨大なナイアガラ。
今でも花火を見ると、思い出す。空襲は辛かった。
だが幼きあの日に、この目を通して見たあの光景は確かにとても、
とても、きれいだった、と。




