そのとき初めて猫は知る
「ねえ、おばあちゃんは生まれ変わるなら何になりたい?」
そう孫に聞かれたのは何十年前だったか。膝に乗る猫のタマをゆっくり撫でながらそうねえ、と少し考える。
「やっぱり私は猫さんになりたいわねえ」
「ええーねこー?どうして?」
「猫は毎日、自由気ままに好きなように過ごすでしょう?私も猫の姿になって自由気ままな暮らしをしてみたいなあって」
「ふーん……でも確かに!タマ全然言うこと聞いてくれないし、好きな時に寝るし、勝手にどっか行くし、あそぼって誘っても無視するしほんとに自分勝手!」
「そういうのを自由気ままって言うのよ」
あははと孫と一緒に笑う。膝の上ではタマが退屈そうに欠伸をした。
分厚い雲の隙間から大粒の雫が大量に落ちてくる。ビルとビルの間でピシャッと閃光が落ちた。
「ぜんっぜん自由気ままじゃないじゃん!!!!」
私は鼓膜がはち切れんばかりに叫んだ。叫んだと言っても口から出るのはニャアアという鳴き声なのだが。
人としての生を終えた時、案内仏という仏様が迎えにきてくれてあの世へ渡り、そして念願であった猫に無事生まれ変われたのだ。が、何のミスか人間だった頃の記憶が残ったままであった。最悪である。
ゴロゴロと空は鳴り続ける。軒下に身を隠していたが強い風により雨が吹き込んできて、体はもうビチャビチャだ。
私は野良猫として生まれたらしく、気づいた時にはこうして町を彷徨っていた。最初は前世の記憶が残っていることに喜び、よっしゃこれから自由気ままな猫暮らしを楽しむぞ!なんてうきうきと心躍らせていた。あの時の私を殴りたい、そんな気持ちはもちろん一瞬で崩れ去ったのだ。
まず餌が全然取れない。人の記憶が残りすぎていて猫のように上手く体が動かせなかった。相手の素早さに負けてしまう。あとやはりネズミや虫を獲って食べるのは、少し抵抗があった。記憶がはっきり残っているせいで、まさかこんなに支障が出るとは思っていなかったが、これはもう仕方がない。
狩りが無理なら餌をくれる人間を探そうと街を彷徨う。そうしたら行く先々で別の猫たちが縄張りを作っており、そいつらに追いかけられる始末。こちとらまだ生まれて数年のひよっこなのに奴らは本気で襲いかかってくるのだ。慈悲はないのか、慈悲は。
追いかけてくるのは猫だけではない。猫嫌いの人間だって大勢いるわけで、庭を通ったら箒を振り回され、道を歩いていたら追い立てられ。犬や野生動物、カラスにまで狙われたりするので生傷が絶えない。
ベランダに吊るされている鳥除けのCDは角度によって私にまで眩しさが被弾するし、猫サイズになると側溝との距離が近く、天気の悪い日は下水の匂いが直接顔にぶち当たってくるし、夏は地面がとても熱い。衛生面も悪いのか目脂は止まらないし体が時々痒い。
思ってたのと全然違う!なんなのよこれ……!!
思い返してみても散々である。野良とはこんなシビアな世界だったのかと思い知り、ちょっと落ち込んだ。こうしている間にも雷雨は酷くなるばかりで、すでにびしょ濡れだった私は、ここから雨が吹き込まない場所に変えようと道路へ飛び出した。
ちょうどその時に稲妻が走り雷鳴が轟く。雨粒で視界が悪いのと地面が海のように水浸しだったせいで、少し驚いただけで足を取られ転けてしまった。体がびちゃんと飛沫を立てて地面に倒れ込む。
……もう最悪最悪最悪最悪さいあく!!こんな目に遭いたくて猫になったわけじゃないのに!
「おや……」
倒れたまま不貞腐れていると目の前で声がした。影がかかって雨が当たらなくなり、誰かがそっと私の体を持ち上げた。
そうして私はあの地獄のような生活から脱却し、飼い猫になったのである。そう、これこそ私が夢に見ていた猫の姿だ。飼っていたタマの姿を思い返し、これからは念願の自由気ままな生活が送れるのだと胸を撫で下ろした。
が、もちろん現実は甘くはなかった。
私を拾ったのは、頭も薄けりゃ幸も薄そうな冴えないぽっちゃり体型のサラリーマン。どうやら独身のようだ。
次の日に病院に連れて行かれ、色々処置してもらったおかげで数日後には目脂も痒みもなくなり快適になった。そうして元気になったらまたもや病院に連れて行かれて去勢させられ、その時初めて自分が雄だということに気づいたのだった。まあ話を戻そう。
飼い猫になったので名前を貰った。嬉しいのは嬉しいのだが
「フライドポテトちゃ〜ん、ご飯の時間だよ〜」
……この名前である。人は、なぜ、ペットに食べ物の名前をつけるのだろうか。
いや、気持ちはもちろんわかる。私も昔名前をつける時、”きなこ”とか”ミルク”とか可愛いなぁ、なんて思っていたのだ。……だが猫の立場になると、食べ物の名前をつけられたのがどうにもいけ好かない。フライドポテト、絶対こいつの好物だろ。
そしてご飯。好きなものをお腹いっぱい食べられるわけではなく、時間も量もキッチリ決められ徹底管理されている。まだ欲しいと強請ってみても、もうだぁめ、なんて気持ち悪い猫なで声で言われてお終いだ。
それから外は危ないからということで家から出してもらえなくなった。外に出られず窓から風景を眺めるだけ。元人間兼野良猫だった私には少し辛い。
部屋の数も少ないこともあり、飼い主の男が居るときはあまり落ちつかない。私が元気かどうかちょいちょい見てくるし、話しかけてきては撫で、顔をお腹に埋めてくる。図々しいと爪を立てても嫌がる素振りは一切見せず、デレデレと笑っているのだ。トイレも毛玉を吐くところも見られたくはないし、もっと伸び伸びと自由に過ごしたい。
そんなわけで私はやっと気づいた。猫の生活は全然自由気ままではなかったと。
隣の芝生は青い。まさにその通りだ。人間目線と猫目線じゃ全然違っていた。小さくため息をつく。せめて人間の記憶がなければ普通に猫人生を過ごせていたのだろうか、なんて思いながら窓の外を眺めていたら、ふよふよと飛んでいる見覚えのある姿を見つけた。
……!!!仏様!!!案内仏さん!!!!
「……?おやこれはこれは」
ニャーニャー言いながら窓を叩く。気づいてくれたようで窓をすり抜け部屋に入ってきた。
「こんにちは、私は案内仏のヤマシタと言います。私が見えるということは、前世は人間だった方ですね……前世の記憶が残っているのは珍しい」
……そうなのよ!なぜか記憶が残ってるの。この記憶、猫の間だけ忘れることは出来ないの?
「うーん、普通なら前世の記憶はですねえ、生きてる間、思い出せない仕様になっているはずなんですが……人間時代のお名前を聞いても?」
名前を伝えると、ヤマシタの持っていた書類が勝手にパラララと捲れていって真ん中あたりで自動で止まった。すごいな、さすが仏。
「ああなるほど!なんで記憶があるのか分かりましたよ。あなたがそう望んだからですね!」
そう言って書類を見ながらフムフムと1人で納得している。
……はあ!?私そんなこと望んでないわよ!?
「いやいや、望んでいます。私も“猫の姿”になって自由気ままな暮らしをしてみたい。って」
……なっ
「“猫になりたい”ではなくて“猫の姿になりたい”だったので、あなたの希望を聞いた担当者が文字通り“中身は人間のままで猫の姿”になれるよう上に頼んでくれたのでしょう」
良かったですねえ。とニコニコ笑顔を向けてくる。
……待ってよ、そんなつもりでそう言ったんじゃないの!私は普通に中身も猫になりたくて……
「“察して”は我々には通じませんよ、はっきり伝えないと。中にはちゃんと察してくれる者もいますけどねえ、我々も激務なので大体文字通りに受け取って次へ流しますし」
とケロリとした顔で言う。なんてやつだ。
……私の希望を文字通り聞いてくれたのは分かった、でもどうにか人間の記憶を封印することはできないかしら?今のままじゃ人間時代と今を比べちゃうのよ。
「そうは言われましても、あなたの望みをこちらは叶えた形になってますからねぇ……難しいでしょうね」
「……フライドポテトちゃん?何もないところを見つめて鳴いてるけど、どうしたの……?」
騒ぎすぎたせいか飼い主が部屋に入ってきた。そして少しびびっている様子だ。それを見て私ははたと気づく。
ねえ……ペットがたまに何もない空間を見つめてたりすること、あるわよね?
「ええ先ほども言ったように、人間から動物に生まれ変わった者は、記憶を忘れていても我々の姿が見えるのですよ。もちろん普通は人間時代を忘れているので喋れませんが。あなたのように覚えていて話しかけてくる者は滅多におりません。誰だろう?って感じでじっと見つめてくるだけですね」
……ちょっと待ってよ。昔飼ってたタマも時々、虚空を見つめて……それってもしかして……
「なるほど。お調べ致しましょうか。元人間の方は、動物として生涯を終えた後も我々が迎えに行きますから、ここにデータが……」
……いい!調べなくていい!怖いから調べないで!!!
とんでもない事実を知ってしまった。タマが元人間だったとか考えたくもない、知らないままの方がいいこともあるのだ。
「フラポテちゃん……ちょっと怖いよ、向こうでおやつ食べようか、ねっ」
しまった、飼い主が側に来ていたのを忘れていた。顔にますます恐怖が浮かんでいる。
……待って、ねえヤマシタさん!どうにか、
飼い主に抱っこされつつ必死で話しかけると、ヤマシタはにっこりと笑って
「そのままでいいんじゃないですか?今のままで、あなたにぴったりじゃないですか」
なんて言ってのける。
「あなたの現在を見ましたけど、飼い主のこと大好きですよね?」
……なっ!!?ななな何言って……
「飼い主が仕事でいない時は、早く帰ってこないか玄関の前で待ってますよね。扉の前で気配を感じたら部屋にサッと引っ込みますけど」
ちょっ…………!
「撫でて欲しい時は自分から近寄って行きますし」
やめて!言わないで!!!
「名前を呼ばれたり、話しかけられたら、ニャ、とか可愛く答えたりして」
ストップストップ!お願い黙って……!!!
「飼い主が落ち込んでる時はすぐに近寄って慰めたり」
うわああああああああ!!!!!!
人間だったら今頃顔はリンゴの様に真っ赤だろう。こんな羞恥耐えられない。飼い主に抱っこされて扉の向こうへ出る直前、ヤマシタが笑顔で手を振っているのが見えた。
「完璧なツンデレですね!全く心配入りません。そのままで、あなたは充分猫ですよ」
パタンと扉が閉まる。その奥で羞恥と怒りに染まった様な鳴き声と、飼い主の慌てる声が聞こえてきて、ヤマシタは笑った。




