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山の神②

〝ウソだろ?〟

〝本当に出やがった〟


 体長は2メートル強、体重は250キロ前後。イエヌ……いや、日本でも龍に次ぐ大きさの陸上生物であるヒグマが八雲の目の前に現れる。その、突き出た鼻の上でくぼんでいる異常なほど底光りする眼窩から八雲をまっすぐねめつけているのが理解できるのであった。そこにはテディベアなどのぬいぐるみやハチミツを無邪気に舐めるような、本土の人間が思い浮かべるデフォルメされたクマの愛嬌など微塵もない。今、八雲の目の前には、古くからイエヌ人によって山の神と崇められていた獣だ。


 その圧倒的な恐怖。爪のひと振り、牙のひと噛みで人間を含むほとんどの動物をただの肉塊に変化させることができる殺傷能力の塊に、八雲は今すぐ悲鳴をあげて一目散に逃げ出したくなるのだった。


 だが、その衝動をあと1歩のところで押しとどめたのは、これまで何度も聞いてきたヒグマに対する生体の知識だった。


 ヒグマを初めてとする野生動物と対面した時に、こうすれば絶対に助かるなどいう方法は存在しない。だが、ヒグマに関して言えば、こうすれば絶対に殺されるという方法は存在する。


 それは、背中を見せて逃走することだ。


 ヒグマは本能的に背中をみせて人間を襲うということは、実験や過去の事件からあきらかになっている。だから、生きたまま自分の贓物を食らわれるさまを眺めてみたいなどという特殊な自殺願望がないかぎり、背を見せての逃走だけはやってはいけない。ちなみにヒグマは時速60キロと原付バイク並みの脚力で走れるのだ。背を見せての逃走をやってしまったら、まず間違いなく逃げきる前に追いつかれてエサになってしまう。


 そして、逃げることができないからといって、戦ったところで人間がまともに勝てる相手ではない。その爪と腕力は虎やライオンの首でさえ、一撃でへし折ることができるほど強靭なのだ。


 その証拠に世間一般で知られるヒグマに対する対処法は、如何にして山でヒグマに出会わないかに終始しており、出会ってからの対処法はほとんど語られていない。つまり、出会ったらその場で死を覚悟しなければならないほどの存在なのだ。


 だが、八雲は生存を諦めたわけではない。


 ヒグマに対抗できる武器も野生の牙も爪もない八雲がとった行動は、静止。身動きひとつせずに、ヒグマから目を逸らさないことだった。


 八雲がヒグマを恐れているように、ヒグマもまた八雲を恐れているはず。


 たしかに、単純な膂力や敏捷性だけで鑑みれば、ヒグマから見れば人間の八雲など冷笑にも値しない虫けらのようなもの。 


 しかし、現代ではライフルで、古来では弓矢に塗った毒を駆使して狩りを続けきた人間は、ヒグマにとっては脅威の対象であり続けてきた。だからこそ、ヒグマは現代でも人間に対する畏怖が本能レベルで存在している。ヒグマの立場からすれば、縄張りを侵されたり仔熊を危険から守ること以外では、できるだけ人を襲いたくはないのだ。


〝しかし、本当にデカいな……〟

〝まるで巨大な黒い岩石だな。これは……〟


 日本に存在するクマは、本州以南に生息するツキノワグマとイエヌに生息するヒグマの2種類に分けられるが、この両者の決定的な相違点はそのサイズである。


 本州のツキノワグマは成体でも体長180センチ・体重100キロほどなのに対して、ヒグマは体長3メートル・体重400キロに達する個体さえもいる。この両者、ツキノワグマが胸元に三日月のような白い模様があること以外は見た目では大差はない。しかし、なぜ、ここまで体格に差が出るのかというと、恒温動物は同じ種でも寒冷地帯に生息している者ほど体が大きくなるという「ベルクマンの法則」に由来するものだ。ゆえにこの日本最北の寒冷地帯であるイエヌでは、クマのみならず鹿もフクロウもみなサイズが巨大で生物相が本州とは大きく異なる。「イエヌが日本であって日本ではない」と言われる所以のひとつである。ちなみに、平成の世に入ったつい最近でも、秋田県でツキノワグマによる獣害で4名もの犠牲者を出す事件が発生したが、ヒグマよりも一回り以上体の小さいツキノワグマでさえこの被害の甚大さなのだ。ヒグマの脅威がいかに恐ろしいものは想像に難くない。


 客観的な時間ではほんの数舜、しかし、主観では気が遠くなるほどの長い時間、八雲は叫んで逃げ出したくなる衝動を必死に抑えて、ヒグマと睨み合いの対峙を続ける。


 そして、次の瞬間、ヒグマはふぅーふぅーと荒い息を吐くのを止め、一歩、後退してみせる。


 だが、八雲がほんのわずか安堵したその瞬間、後退したヒグマは一直線に猛スピードで八雲に向かってくる。その後退の動作は、撤退ではなく獲物を捕らえるための前兆、弓矢を引き絞るような溜めの動作に過ぎなかったのだ。


 完全に戦闘は避けられない絶望的な状況。もはやヒグマの頭の中では八雲は完全に駆逐すべき敵、もしくは食物連鎖の下方に位置する獲物である。


 そして、今までの呼吸音とは違う、野生の獣独特の胃の腑にズシリとのしかかるような重低音の吼え声をヒグマがあげるのだった。


 そして、これまで如何にヒグマと戦わずにこの状況を脱しようかと思案していた八雲は腹をくくる。ついにヒグマと戦う決意をするのだった。


 腹筋に力を込めコブシを握りしめる八雲。


 だが、ボクシングのフックのような弧を描く軌道でヒグマは掌を八雲の頭に叩きつけようとする。

 間一髪でその攻撃をかわす(というよりもバランスをくずしたため偶然、避けることができた)八雲。しかし、そのヒグマの爪は空振りに終わらず、八雲の後ろにあったトドマツの木の幹を半分くらい抉り取るのだった。


 次の瞬間、自重を支えることができなくなったトドマツが豪快に真横に崩れ落ちるのだった。


 ヒグマの主武器は牙よりも爪だ。まるでフライパンのような強大な掌に五寸釘のように太く長い爪が五本もついている。あんなものを体重300キロ近い膂力で叩きつけられたら、ただの一撃であの世送りは確実である。


 ヒグマはそのままバランスをくずして仰向けになった八雲に覆いかぶさり、大きく口を開けるのだった。吐き気を催すほどの獣臭い吐息、そして粘度の高い唾液が八雲の顔面に滴り落ちる。その両肩には300キロ近い巨体の重みがのしかかり、いま自らが置かれている絶望的な状況を嫌でも認識させるのだった。あと数秒ほど経てば、ヒグマは食するためにその牙を八雲のやわらかい肉に突き立てるのが明白だった。残雪が八雲の背中の体温をみるみるうちに奪っていく。


 だが、八雲が狙っていたのは今まさにこの瞬間の体勢だった。


 八雲はいま眼前に迫ってくる黄色い牙と獣臭溢れる赤い舌が存在するヒグマの口腔に自らの右腕を突っ込む。


 ヒグマは舌を捕まえられたら戦意を喪失して撤退する──


 これはイエヌ道民のあいだでよく口にされる対処法で、東京に住んでいた八雲も耳にしたことがある。


 だが、きちんとした学説ではなく誰が言いだしたことかさえも分からない。そもそも本当にそうやって助かった者がいるのかさえも不明だ。


 しかし、ライフルも毒矢もないこの状況では、戦ってヒグマを絶命させることは不可能。相手の戦意喪失以外に八雲の生存の可能性はない。紙のように脆く薄い理でも、これに賭けるしかなかったのだ。


 舌を掴まれたヒグマは、先程の重低音とは違う、甲高い叫び声をあげて、背筋が凍るような凶暴なまなざしで八雲をにらみつける。 


 しかし、それでも躊躇せずに、八雲はさらに奥まで──それこそ肩が牙にぶつかるくらいの勢いで右腕をヒグマの口内に突き入れる。もちろん、このままヒグマが口を閉じればあっというまに八雲の右腕は嚙み砕かれて、まっぷたつになってしまうだろう。


 しかし、それでも──たとえ右腕を犠牲にしたとしても、この状況を生きて帰れるのなら、充分だった。ヒグマと人間ではそれほど戦闘力に差があるのだ。


 そして、八雲は自らの生存を懸けて、無我夢中でヒグマの舌を右手で掴んでひっぱり続ける。

 その痛みに耐えかねてか、ヒグマは立ち上がり、その衝撃で八雲は舌を掴んでいた右手を離してしまう。


〝どっちだ?〟


 これで相手が戦意を喪失してくれこの場を離れてくれたら、八雲の生存。こヒグマの闘志が衰えていなければ、ヒグマの餌である。


 しかし、2本足で立ちあがったヒグマは、全身の黒毛を針金のように逆立てながら顔を上空に向ける。そして、今まででいちばん大きな吼え声を張りあげるのだった。


〝終わった……〟


 どうやら、ヒグマの闘志は未だに衰えていない。それどころか今の八雲の悪あがきが絶望的なまでにヒグマを激怒させてしまったようだ。限界まで開ききった口腔と逆立った黒毛がそれを証明している。


 そして、その肉球と五寸釘がついたフライパンのような掌を八雲に振りかざそうとするのだった。



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