山の神
遠ざかる駅舎の光を背中で感じつつ、八雲は今まで樹とふたりで来た山道を引き返す。
正直、名残惜しさは充分にある。たとえ今日知り合ったばかりとはいえ、樹は高校に入ってから最初に出会った友人なのだ。共に学園生活を過ごしたかったのだが、樹が他人に言われたからといって、自分の信念を曲げるような人物ではないことを短い付き合いだが理解しているつもりだ。だからこそ、八雲は別れの言葉ひとつ残さずこうやって立ち去るのだった。
〝しかし、今からだと帰るのは何時になるんだ?〟
行きは下りを猛スピードで駆け下りたから、三時間ほどかかる計算だった山道を1時間ほどでたどり着いたが、今度は登り坂。それでなくても樹の無茶なペースに付き合ったので、寮まで走って帰るマネなんて絶対にできない。──というよりも、今すぐこの場で倒れ込みたいほど疲労困憊だ。無断で外出、しかも樹の脱走を黙認したことを楓にどう謝罪しようか。そんな事を考えると、疲労がよりいっそう重たさを増す。
だが、火を起こす道具もナイフも持ってきていないこの状況での野宿は危険すぎる。
それでなくても、イエヌの山には「あの」生物が存在しているのだから。
そう……八雲が今この状況で遭遇することを最も恐れているのはヒグマだった。
龍がイエヌの人間にとって空の神と崇められているに対し、ヒグマは山の神と称されているイエヌを代表する獣。
だが、山の神と称されている一方で、この獣にはもうひとつの側面をイエヌの人間に見せている。
それは、最も人間の生活圏の近くで活動している最も危険な獣。
たしかに、その身体の大きさと牙や爪の強力さでだけで言えば。龍のほうが人間にとって脅威であること間違いない。しかし、龍はイエヌでもその頭数が年々減少の一途を辿り、知床や道北の森など一部の地域でしか生息が確認されておらず、イエヌの人間でもその姿を見ることができずに一生を終えることがほとんどだ。
しかし、ヒグマは龍と違い、道内のほぼ全域で生息が確認されている。
その証拠に、このイエヌでは遠い昔の神話の時代から21世紀の現代までヒグマによる獣害事件が後を絶たない。
大正四年に7名のという熊害史上最大の被害者を出し、その凄惨さゆえに小説のモデルにもなり、100年経った今でも語り継がれているほどのインパクトを誇る「苫前村三毛事件」。
ヒグマの習性を知り尽くしているはずの猟師2名が返り討ちに遭い、計4名もの人間が犠牲になった「石狩沼田幌新事件」。
イエヌの道庁所在地である札幌で発生し、討ち取った後のヒグマの剥製を時の明治天皇が見学したことでも知られる「札幌丘珠事件」。
日高山脈を縦断中のワンダーフォーゲル部大学生5人が襲われ、そのうち3名が死亡。その中のひとりがヒグマに嚙み殺される直前まで綴った生々しい手記が今でも残されている「福岡大ワンゲル部事件」。
本州の人間にとってヒグマは動物園の檻の中にいる人間に飼いならされた獣かもしれないが、イエヌに住む人間にとっては、一歩、道から離れて山の中に入ればバッタリと出くわしてしまうかもしれない獰猛な獣なのだ。もちろん人間が戦って勝てる相手でない。戦闘になれば9分9厘ジ・エンドだ。
先程までは樹と一緒だったということもあり、それほど気にならなかった自分以外の動物の気配やわずかな物音さえも過敏に反応してしまう。
ついつい、「あの物陰からヒグマが出てきたら……」という妄想が頭をよぎってしまうのだった。
そういえば、寮に行くまでの道中の車内で楓が言っていた。
昔から本州・道内問わずに山に入る時にはクマよけに鈴を鳴らしたり笛を吹いたりすることが有効だとされてきたが、今はどうやらそれほど有効ではないとのことなのだ。なぜかというと、あまりにも多くの人間がそれをやっているがためにクマが慣れてしまったというのだ。実際に、多くの獣は発砲音を耳にすると一目散に逃げていくものだが、千歳などの近くで自衛隊の演習がおこなわれている地方では、発砲音を聞いてもクマを始めとする獣はまったく怖がらないのだという。
ならば、いったいどういう音を出せばクマよけに効果的かというと。ただ単純に、自然界には存在しなくてクマが聞き慣れていない音を出せばいいのだという。楓曰く今ではカラのペットボトルを指でへこました時のポコポコという音がかなり効果的なのだという。まあ、楓は学者でもなければ研究者でもないので、あくまでも結果論と経験則の域を出ていないのだが、楓は幼い頃からイエヌの血を引く祖父と父に山での生き方を教わり、教師のかたわら今でも猟友会に所属している生粋の猟師。信憑性は絶大だ。
しかし、今はカラのペットボトルもなければ、鈴も笛もない。おとなしく、ヒグマの影に怯えて、寮までの道のりを歩くしかない。
それにヒグマだって、無暗にやたら人を襲うような凶暴な生き物ではないし、近くにヒグマが存在しているなら、糞の跡や木についている爪痕に注意にすれば不用意な遭遇は高い確率で避けられる。八雲は自分にそう言い聞かせるのだった。
しかし、その時、八雲の目の前にあるブッシュが一瞬、揺れたような気がした。
恐れていた事が現実となりかける恐怖と動揺で、八雲の心臓は目眩が起こりそうなくらい速く、激しく鳴り響く。そして、粘度の高い汗が背中から臀部にかけて滴り落ちるのだった。
だが、その警戒も杞憂に終わる。
ブッシュから姿を現したのは、キタキツネだった。キタキツネは、たしかにエヒノコックスなどの感染症は人間にとって脅威だが、ヒグマのように食害の対象になる動物ではない。
八雲は安堵のため息をつくのだった。
だが、その安堵も束の間。八雲はキタキツネの視線の中に自分がいていない事に気がつく。そう、安堵の表情を浮かべていた八雲とは対照的に、キタキツネは恐れていたのだ。その表情は、自分よりも圧倒的に強大で、絶対的な食物連鎖の頂点を仰ぎ見るものだった。そして、その視線は八雲ではなく、そのすぐ後方に注がれている。
とっさに後ろを振り向き、身を翻した時に八雲の視界に飛び込んできたのは、巨大な肉の塊だった。
岩石のように巨大な体幹と興奮によって逆立った黒毛。そして、そこから生えている切り株のような太くたくましい四肢。口腔から覗く黄色い牙が夜の闇の中でもはっきりと分かり、その牙の隙間からふぅーふぅーと激しい呼吸音とうなり声が漏れ、鼻を塞ぎたくなるような獣臭が辺り一面に漂うのだった。