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大脱走③

 北央大付属高校特英科の栄えある1期生ふたり──栗橋八雲と蜂須賀樹の両名を無事、迎え入れることができ、今日の仕事を終えた姉崎楓はほっと一息をつく。


 そして、寮内の中にある教師用の自室の作業机に腰を下ろすのだった。


〝それにしても……〟


 天塩(てしお)山脈南端の山中に建設された、特英科の生徒に山中でのフィールドワークをおこなわせるためだけに建設した近代的な寮。


 はたして、ここまでする必要があったのだろうか、と特英科の担任を理事長から直々に命じられた楓はいつも疑問に思う。


 楓は机の上に乱雑に投げ出されている特英科の生徒の資料を右手で持ち上げ、視線を移す。


 だが、その資料は今日、旭川空港まで迎えに行った栗橋と蜂須賀の両名のものを合わせても、わずか三名分しかない。通常の学園のクラス編成が30人前後であることを考えれば、まさしく桁違いの少なさだ。


 少数精鋭主義──その表現は半分正解だが半分不正解と言える。たしかに、学園は特英科の生徒を三名に絞ったが、それは学園が目指す特英科の基準に満たす生徒が3人だけだったわけではない。そうではなく、最初から学園はあの3人以外を特英科に入学させるつもりはなかった。ようするに……あの三人を迎え入れるためだけに特英科という学科が創設されたに過ぎない。そう……この豪奢な建物もすべてあの3人を招き入れるためのつくられた施設なのだ。


 たった3人の生徒の育成のためだけに、ここまでの費用をかけるのは常識的に考えれば、絶対にありえない判断なのだが、この3人の経歴とスペックを眺めれば、たしかに学園がどうしても手のうちに入れたかったのも理解できる。楓の率直な感想を言えば、この3人が同学年で生まれ、この地に集ったことは、ほとんど奇跡と称しても過言ではない。


 だが……


〝こりゃあ、ずいぶんと骨が折れそうだな〟


 楓は苦笑する。


 栗橋八雲のほうはいかにも従順な優等生タイプで教師としては手のかからない生徒だが、蜂須賀樹のほうは今度もトラブルが起きることを覚悟していたよさそうだ。そう思っていた直後──


「姉崎先生!」


 楓の耳に寮母の女性の慌てた声が飛び込んでくる。


 楓が部屋を飛び出して、寮母の女性に尋ねてみると、先程から八雲と樹の姿が見えないのだという。


 せっかく今日はふたりが入寮した祝いで寮母が腕によりかけて料理を用意してくれているのにどこへ行ったんだ、と寮内をくまなく調べてみるが、やはりふたりの姿は影も形もない。


 そんな時、視界に飛び込んできた決定的な事実に楓は驚きを隠すことができなかった。 本来はそこにあるべき物が存在しない。


 そう、寮の備品のマグライトが消えているのだ。


〝あいつら、まさか……〟


 楓は視線を窓の外に向ける。すでに森は芯まで闇色に沈んでおり、空には青白く冷たい月が煌々と輝いている。


 予期していなかった事態に、楓の声音は低く、鋼のように硬く、冷たくなっていくのだった。





 楓がふたりの脱走劇に気づき、天を仰いでいた数十分後。


 八雲と樹のふたりはすでに麓にある鉄道の駅まで到達していたのだった。


〝それにしても……〟


 八雲は心の底から驚く。本当に樹は寮から駅までの道のりを、わずか1時間ほどで到達してしまった。しかも余裕綽々の表情で。


 一方、八雲のほうはいうと汗で全身ぐっしょり、脚は下り坂を駆け下りるために必要以上に踏ん張っていため、乳酸が溜まりに溜まって立っているのがやっとの状態だった。


 この1時間で分かったことは、間違いなく樹の身体能力は超高校級どころか人外の域にまで達しているということだった。


 身体能力だけではない。


 八雲は樹の空間認識能力と記憶力にも驚かされっぱなしだった。


 道中、八雲がついていくのがやっとのなか、樹は「もうすぐデカい木が見える」だとか「あと10分もすれば、車で来た時の道を横切る」などというようなことをピタリと言い当てていたのだ。あれには本当に驚かされた。初めて訪れた山にもかかわらず、この山の全体像がきっと樹の頭の中には3D画像のように正確かつ立体的に叩き込まれているに違いない。その言動と見た目は、どこからどうみても生意気ざかりの中学生といった感じなのだが、その能力の高さに脱帽するのだった。


 だが、八雲が感心する一方で、樹は「どうする? 次の電車が来るまでかなり時間があるぞ? 次の駅までまた走るか?」と涼しい表情で問いかける。


 そんな樹に対して、八雲は枯れかけた声で「もういい。かんべんしてくれ」と呟くのがやっとだ。

「それしても、さすがにイエヌの山の中。駅前だっていうのに、何もないな~」


 そう言いながら、樹が辺りを見渡す。


 たしかに、昨日まで東京で暮らしていた八雲はおろか、田舎育ちの樹にとっても滅多にみることができないほどの閑散した駅なのは間違いない。


 なにせ、駅の周囲には商店やロータリーはおろか民家でさえ存在していない。そもそも駅舎自体が雨風が最低限ふせげるようなだけのぼろっちぃプレハブで、トイレもなければ駅員など存在しない無人駅。ホームは除雪していないので、樹がつけた足跡が今でもくっきり残っているのだった。


 東京などでは夕方の帰宅ラッシュの時間なのだが、この駅ではもう次に来る電車が終電である。いったい、誰がどんな目的でこの駅を使うのだろうか? これは推測だが、一般の乗客よりも保線要員の乗降のために設置された駅なのだろう。


 だが、電車が来る時刻をまだかまだかと待ちわびている樹の姿を遠目で眺め、八雲は自分の役目はここまでだと改めて悟る。


 八雲は、ゆっくりとした足取りで駅を離れる。


「八雲、どこいくんだ?」


「トイレだよ」


 樹の問いかけに八雲が答える。


「そんなの、ここでですませろよ。誰もいないんだし」


「でかいほうなんだよ。林の中でするからついてくんなよ」


 そう言って、八雲は再び深い闇の中に身を溶かしていくのだった。




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