栗橋八雲と蜂須賀樹③
「騙された……」
どこまでも続くような白く凍てついた大地と空の下で、焦点の合わない瞳でただ茫然と佇んでいる樹。そして、物静かなこの場所でなければ絶対に聞き逃していただろう小さな声でそう呟くのだった。
時折、びゅうっと強い北風を受けて木々が大波のように激しくどよめき、羞恥心などとうの昔に忘れ去っている樹の鼻水も大きく揺らす。
旭川空港から楓のパジェロを走らせて、約2時間。八雲と樹は札幌市内にある北央大付属高校特英科の寮に無事到着した。
騙された、などと口にしているが、寮は楓の言うとおりの新築だ。
できたてホヤホヤの壁がぴかぴかに光っている鉄筋コンクリート造りの二階建て。
内装も、玄関をあがると、吹き抜けになっている開放的なロビーが広がり、清潔感溢れる食堂とちょっとした温泉宿の大浴場くらいの広さがある浴室が兼ね備えらえており、8畳一間の個人部屋はシンプルなつくりながらも真冬のイエヌの寒さに耐えられるように防寒設備も最新。そこには一般的な学生寮のような不潔で狭く、暑苦しい負のイメージなど微塵もなく、むしろ八雲の想像以上だったほどだ。
だが、それでも樹が騙されたと信じて疑わないのは、この場所には、寮以外の人工物がまったく目につかないからだ。
そう、寮の敷地から1歩外に足を踏み出すと、辺りは見渡す限り白く塗りつぶされた山と森林の世界なのだ。
植林された森とは違う。混沌とした秩序のもとに、多種多様な木が氷点下の冷気と雪化粧を身に纏い、吐息だけではなく発する言葉すらも凍りつかせてしまうほどの厳しい白の世界をつくりあげている、
「なんなんだよ!」
ようやくまともに言葉を発することができるまでに立ち直ったのか、喉をのけぞらせてオオカミが吼えるような大声で怒りを露わにする樹。
「寮は札幌市内にあるんじゃないのかよ! あの女に騙された!」
「いや、ハチ。先生はウソはついていない」
八雲がそう弁明すると、樹は「はあ? なんでだよ!」と、まるで親の仇のように目を剥くのだった。
「こんな旭川から2時間も北上した、人よりも野生動物の数のほうが多い山の中のどこが札幌なんだよ。よくよく地図を見てみたら、札幌は旭川よりも南にあるじゃないか。それをよくもぬけぬけと札幌市内だなんて、悪徳政治家のマニフェストもびっくりの大嘘ぶっこきやがって、寝ぼけた頭での居眠りは国会議事堂の中だけにしとけよ。あのクソアマ!」
「いや、ハチ。信じられないかもしれないが、ここも一応は札幌市なんだ」
そう、この場所は確かに札幌市だ。正確な住所はイエヌ道札幌市収容区。
札幌市の市街地から100キロ近く離れてはいるが、日本で唯一の飛び地の行政区なので行政上は紛れもなく札幌市ということになる。ちなみに、収容区の面積は札幌市どころか日本にある行政区の中でも最も広く、反対に人口は日本一少ない。住所の上では大都会である札幌市ではあるものの、周囲には山と森しかないような僻地に変わりはないということだ。
一応、そのことを説明してやると、樹は「くそ! くそ! くそ! くそ! そんなの認めねえ! そんなの認めねえ!」と、怨嗟の呻きをとめどなく口腔から垂れ流すのだった。
そもそも、札幌市内に行こうとする場合の最寄り空港は千歳空港なので、旭川空港で待ち合わせている時点で、イエヌの地図が頭の中に入っていたら少しでもおかしいと感じるはずなのだが、樹は道中の車内でも微塵も疑っていなかった。
北央大に関する知識も皆無だったこといい、どうやら本当に樹は保護者である祖父から命令されただけで、この学校に入学したようだ。いっぽう八雲のほうはいうと、普通に特英科の成り立ちや理念を理解したうえで入学を希望している。人里離れた山の中での実地訓練くらいはできるであろう、このくらいの環境下は充分に想定内だった。
樹が立ち直るまで、このままにしておこうかと思ったが、さすがに入寮初日から風邪をひいたら可哀想なので、その小さな身体をひっぱって、寮内へとつれていくのだった。
そして、八雲は樹の身体についた雪を払ってやり、寮の2階にある彼の個人部屋にふたりで入る。驚いたことに洋間のこの部屋は床暖房だ。そのうえ、来る途中の廊下には、濡れた衣服を乾かすための乾燥室まである。いったいどれくらいの金をかけているのか、少し恐ろしくなる。
やがて時間が経ち、室内の温度が上がり、上着を脱いでも平気で過ごせるくらいの暖かさになっても樹は言葉を発しない。
「ハチ……」
しかし、そう八雲が話かけた瞬間、それまで沈黙を守っていた樹がとつぜん大声で笑いだす。
「ヒャーハッハハ!! ヒヒヒ! アハハハハッーーー!!!!」
だが、それは、とても大笑だとか朗笑とかいうような生易しいものではなかった。ましてや微笑みや微苦笑などでもない。頬が裂けんばかりに大口をあけて絞りだすその笑い声は、まるでこの世のあらゆる不吉を孕んでいるかのような不気味さだった。
あまりにも予測不能な行動に八雲が固まっていると、樹は次の瞬間には笑うのを止め、口を真一文字に結んだ表情で、スクっと立ち上がる。そいて、強い意志を感じさせる澄んだ瞳でこう言い放つのだった。
「脱走する!」
「はあ?」
八雲が素っ頓狂な声をあげる。
「脱走って、今からこの山を下りる気か?」
「そうだよ。そして伊賀に帰ってジジイをぶん殴る」
さも当然のことのように、樹は今まで見たことがないような冷徹な表情でそう断言するのだった。
「脱走っていったって、どうするつもりだよ? こんな山の中じゃあ、電車はおろかバスだって来てないんだぜ?」
「そんなの走って下山するに決まってるじゃん! 山の麓まで行けばたしか電車の駅があっただろ? ボクだってお金は持ってるんだし、そこまで行けばなんとかなるよ。そりゃあ行きの時のように飛行機なんて使えないけど、まあ、小さな町でも市街地まで行ければ金なんていくらでも稼げるしね」
「なに言ってるんだ。ひとりで初めて来た山を下るなんて危険極まりないぞ」
「さっきも言っただろ。ボクは伊賀の山奥で生まれ育ったんだ。そのへんの都会のもやしっ子と一緒にするな。こんな山を下るのなんて、どんなに遅くても1時間もかからないよ」
そう自信満々に豪語して部屋を出ていこうとする樹だったが、八雲は「ああ、こいつは冬のイエヌの山を舐めている」と直感した。
たしかに、伊賀の山奥で生まれ育ったという樹なら普通の山道なら難なく駅までたどり着くことが出来るだろう。しかし、ここはイエヌだ。腐葉土や木の根が複雑に入り組んで平地と比べてただでさえ歩きにくい斜面に加え、雪が加わる。しかも、この辺りの雪質は用意に雪玉をつくることができないほどなので、余計に足を取られやすい。
東海圏とはいえ気候的には温暖な近畿地方に近い伊賀出身の樹が、冬の雪山を歩き慣れているとはとても思えない。
さらに、問題なのは本土とは違い冬のイエヌは午後の3時半を超えると完全に陽が落ち、真っ暗になってしまう。イエヌの地理や風土のことをまったく予習していなかった樹が、とてもこの事を知っているとは思えない。その証拠に、樹は駅まで下山するのに1時間かからないと豪語していたが、とんでもない。八雲の見立てでは3時間以上はかかる距離だ。そんな簡単な見立てもできない素人が、夜の冬の雪山を歩いて下山するなんて、それこそ大袈裟ではなく自殺行為だ。
「ハチ、本当に脱走するつもりなのか? たしかにここはオマエが憧れていたような都会じゃないけど、それでもせっかく入った学校なんだ。我慢してみる気はないのか?」
「くどいぜ、八雲。ボクは一度やるって決めたらトコトンやる性質なんだ」
ああ、そうなのだろうな、と八雲は思った。この男は合理的な損得や費用対効果などと賢しいことは考えず、周囲から愚直と馬鹿にされても常に自らが望んだ未来に対して良くも悪くも全力を傾ける情熱の持ち主なのだ。たった数時間ほどの付き合いだが、八雲はそのことを充分に察していた。
「じゃあな八雲。短い付き合いだったけど、楽しかったぜ」
樹はそう言って、振り向きもせずに部屋を出ていくのだった。
だが、だからと言って、黙って見過ごすことができる八雲ではないのであった。