結末
獣は手負いの時が最も恐ろしい──
これは古くからイエヌの猟師のあいだで伝えられてきた言葉である。
獣はたとえ傷を負ったとしても、まだ遠くに行くだけの体力が残されていたならば逃走に徹する。しかし傷を負い、そのための体力さえも残されていない獣はいよいよ腹をくくる。相手を殺さなければ自分が殺されるので、遠くへは逃げずに追跡者を本気で抹殺しにかかってくるのだ。
楓と樹が捕り逃してしまった雪龍はまさにこの状態だった。
足の骨を砕かれ、腕を切り落とされた状態だっただけに一旦、逃走したものの、近くに潜んでいて楓たち全員を殺しにかかろうとしているのは明白だった。
だからこそ、楓は八雲たちの捜索を押し通そうとする樹を必死になって説得して、雪龍のトドメを刺すことを優先したのだ。
レラが崖に落ち、それを助けるために八雲まで自ら落下。
その行動にも楓は驚いたが、やはり最も衝撃を覚えたのは八雲自身が生きており、なかつあの短時間で崖から飛び降りることができるくらいまでに回復していたことだ。
楓は北央大付属の教師の中でも数少ない八雲の素性を知らされている関係者なので、八雲が龍に育てられたカンナカムイだということは知っている。
だから八雲に超回復が備わっていることは知識と知ってはいたが、それでも頭を一撃で叩き割られたらさすがに死んだものだと思っていた。
それでも、やはり実際にあのタフネスさと回復力をみせられたら、信じないわけにはいかない。やはり、あの男は、時の権力者が多量の時間と金銭を犠牲にしてまで追い求めた正真正銘のカンナカムイなのだ。
たしかに、あのまま崖下に落下したふたりの行方は気になるが、レラとこの天塩の森で龍と暮らしていた八雲ならば生き延びることができる。楓はそう確信するのだった。
そして、楓たちが手負いの雪龍を再び発見するのには、たいして時間はかからなかった。
足の骨を砕かれ右腕を失った雪龍はミズナラの大木の下で身体を丸めているのだった。
「いたぞ」
「どこ?」
「あのミズナラの木の下だよ」
楓がはるか向こうの木を指さす。
「すげーな。楓ちゃん、よくあんなの見つけられたな」
「単純な視力ならオマエとあたしはどっこいどっこいだが、獲物をみつけだす注意力と観察眼ならあたし以上に目のいい人間なんて、そうそういないよ」
楓たちは雪龍に気づかれないように風下からゆっくり最適な狙撃場所まで近づく。
雪龍は人の気配をうかがっていたが楓たちに気づいている様子はない。
しずかに、ゆっくり、だができる限り迅速に銃を構える。
そして、引き金を引くのだった。
初弾は、雪龍の心臓近くに命中。雪龍は大きくのけぞって、膝をつく。そして、驚きと怒りが入り混じった凶悪な表情で楓を睨みつける雪龍。
最後の気力を振り絞り、楓に向かって突進してくる雪龍。
しかし、楓は冷静に指に挟んでいた弾丸をMURATA90式に込めて、次弾を発射するのだった。
弾丸は頭部にみごと命中して、雪龍はもんでりうって倒れるのだった。
「やったかの? 楓ちゃん!」
「ああ」
樹は大急ぎで雪龍の元に歩み寄ろうとする。
「慌てるなよ蜂須賀。まだ完全に死んではいない。近づくのは、掌が完全に開ききってからにしろ」
やがて、雪龍の掌が完全に開ききる。
「よし、行っていいぞ」
喜びをあらわにする樹とは対照的に楓の足取りは落ち着いている。
〝仇は討ったぞ。島村……〟
そして、楓も討ち取った雪龍の元に歩み寄る。
「楓ちゃん……」
しかし、いち早く雪龍のもとまで走っていった樹の顔が急速に曇る。
「なんだ?」
「こいつ、ボクたちが追っていた雪龍と違うんじゃね?」
「なんだと?」
「だってほら。この傷口、ボクがつけた勁鋼線のものじゃねーもん」
たしかに、楓たちが追っていた雪龍は樹の切れ味鋭い特殊な鋼線によって切断された。しかし、いま楓が仕留めた雪龍の左腕の切断面はかなり汚らしい。まるでムリヤリ嚙みちぎられたような荒々しさだ。
砕かれた足だってそうだ。銃弾の跡などどこにもない。
考えられる可能性は、ただひとつ。
「こいつもあの雪龍にやられただけの身代わりだ。本物の奴はまだ近くにいて、こいつを囮にして逆にあたしたちを狙っている!」
気づくのが遅すぎた! なかば死を覚悟しながらも慌ててライフルを構えなおす楓。
だが、次の瞬間、静かな峰々にこだましたのは楓たちの断末魔ではなく、雪龍の叫び声であった。
今まさに背後から楓たちを狙おうとしていた雪龍の胸に、風の刃が深々と突き刺さっているのだった。
「レラ!」
九死に一生を得た喜びよりもなお熱い感情が楓の胸に湧きあがる。
雪龍の一撃によって腹部を貫かれ、崖下に転落したレラが八雲と共にこの場に現れたのだ。しかも、一時は使用不可能に陥っていた神術も復活している。
「正直、あなたが最初に人を襲ったのは密猟者に出くわしたのが原因だから、同情していた面があるのだけれど、自分がさえ助かれば他人を犠牲にしてもいいなんて考えは、どす黒く許容しがたい、悪行ね。わたしがトドメを刺してあげるわ」
次々と雪龍に突き刺さる風の刃。
そして、響き渡る雪龍の絶叫。
さすがに、イエヌ人と和人が戦った最大の戦争であるシャクシャインの戦いに於いて、「もしイエヌ人の中に神術が使える者があと10人いたら、日本の歴史はまちがいなく変わっていただろう」と称されるほどのイエヌ神術である。
その威力は絶大である。
「これでトドメよ」
だが、そのとき、レラの前に1頭の仔龍が立ちはだかる。
もちろん、子供の龍なので、その戦闘力は親である龍よりも低く、神術を使うレラに敵うはずはない。
しかし、子が親を想う愛情はたとえ人間でも龍でも変わらない。目の前で親が外敵に斬殺されかけているこの状況に、敵わないと理解しつつもその脆弱な身体を盾にしてレラに立ち向かっているのだった。
そして、その仔龍の存在を目の当たりにしたレラがほんの一瞬だが、確実に動揺しているのが楓を始めとするこの場にいる全員がわかっていた。そう、レラはこの仔龍に幼き頃の自分を重ねていた。そして、かつての自分がやりたくてもできなかった行動を、勇気を踏みにじることに迷いを感じていたのだった。
だが、自らの使命を思い出したレラは感傷を一瞬で捨て去り、再び雪龍にトドメを刺すために神術を繰り出そうとする。しかし、そんな逡巡を瞬時に読み取ったのか、次の瞬間、手負いの雪龍は信じられない行動に出る。
なんと仔龍を自らの手元に引き寄せて、残った右腕の爪を仔龍の喉元に突き立てているのだった。
一同は驚きを隠せなかった。その行動の真意は人質。追い詰められた凶悪犯が人質のこめかみに銃口を押し当てているのと変わらない「それ以上、変なマネをすればコイツの命はない」というところだろうか。
きょとんとした様子の仔龍とは対照的に手負いの雪龍の口腔は醜く歪み、起死回生を確信している笑みを顔中に刻んでいるのだった。たしかに楓たちはこの雪龍は獣ならざる狡猾さ持ち合わせていると感じていた。だが、自らの遺伝子も持つ存在を生かそうとするのが、生物としての本能なのに、まさか自分の子供の命を進んで危険に晒すとは思ってもいなかった。
そして、レラの動揺と戦意喪失を読み取った雪龍は、胃の中の内容物──未消化の人骨や血液──などをレラの顔に勢いよく吐き出し、目つぶしにする。
そして、最後の気力を振り絞り、仔龍を残したまま、背中を向けて逃走するのだった。
「逃すかよ!」
その遠ざかる背中に銃口を突きつける楓。
だが、引き金を引くよりも早く,一陣の風が雪龍を捕らえるのだった。
それは獣だった。
黒い頭髪は腰まで伸び、瞳は極限まで縮み、白目は血走っている。服が破けんばかりに肥大している筋肉に口腔から覗く牙はまさに野獣そのものだった。
だが、それは正確に言えば獣ではなかった。
その骨格、身長、なによりも楓たちが慣れ親しんだ面立ちは、栗橋八雲のそれだった。だが、その形相と全身から放たれる殺気は、断じて人間ではない異形の迫力に満ちていた。
そして、その栗橋八雲の形をした獣は逃走する雪龍を背後からコブシを放つ。だが、それはパンチなどという生易しいものではない。衝撃によるダメージを与えるための打撃ではなく、コブシを突き入れ心臓を抉り出すことを目的とした打撃。
雪龍の背は、腹とは違い刃物のように固く鋭利な鱗に覆われている。普通の人間が全力でコブシを繰り出せば間違いなく手のほうが先に衝撃に耐えきれないはずなのだが、今の八雲はまったく意に介していない。その身体の強度が、人間の域を脱している証拠だった。
そして、素手で雪龍の心臓を抉り出した八雲は、そのまま握りつぶし、次の瞬間には手刀で首と胴体を切り離すのだった。
タフネスさが売りの雪龍とはいえ、さすがにここまでやられたら生命活動を停止させるしかない。ピクリとも動かなくなる。
「あ、あれは八雲なのか?」
未だに場の状況を理解できないでいる樹が困惑のつぶやきを漏らす。
だが、八雲の素性を知っている楓はすぐに察しがついた。龍の血を飲んだカンナカムイは不老不死の他に超人的な身体能力を得ることができると言われている。今まで超回復は得ていたものの、身体能力の強化はおこってはいなかった八雲。だが、今はまさに身体が龍の獣と化し、驚異的な戦闘能力を手にしている。
だが、八雲は北央大の龍科学研究所にいる5年間のあいだ、どんな実験をおこなっても龍人と化すことはなかった。それが、なぜ今になって龍人として覚醒したのだろうか。
「こいつは……」
龍人と化した八雲が声を絞りだす。その声質自体は楓たちが聞き慣れたものだったが、低く、冷たい声音は逆らい難い異様な迫力に満ちている。
「こいつは、親として絶対にやってはいけないことをした!」
自らの子供を人質として利用し、ましてや逃走のさいに置き去りにした雪龍。
そして、楓は八雲がいぶきとショッピングモールでデートした際に、子供を邪険に扱った父親に対して激高していた事を思い出した。異種族である龍を慕い、父親として尊敬していた八雲にとって、今の雪龍の一連のおこないはまさに逆鱗に触れるには充分な理由だったのだろう。その怒りが八雲を龍人として覚醒させたのだった。
だが、次の瞬間、八雲はその場で倒れて意識を失うのだった。
「栗橋!」
楓は急いで駆け寄るが、雪上で倒れている八雲には外傷はなく、どうやら龍人化することによって体力を猛烈に消費しただけで命には別状はないようだ。いつのまにか毛髪も筋肉の肥大も元に戻り、龍人化も解けているのだった。
だが、その八雲に激しい敵意と憎悪の視線が向けられていることに楓は気がついた。
今まさに眼前と親を殺された仔龍である。
〝どんな外道だとしても親は親か……〟
幼い子供にとって親は特別な存在だ。たとえ、それが龍だとしても。他人から見ればどんなに醜い親だとしても当人同士にしか分からない絆がある。
その事実を、この仔龍の憎悪が証明していた。
「すまんな」
人間に対してこれほど激しい憎悪を抱いた獣を、このまま生かしておくのは、新たな獣害事件を引き起こす可能性があり、あまりにもリスクが高すぎる。もちろん、生きたまま捕らえた幼生体の龍を北央大の龍科学研究所に引き取らせれば、恰好の研究材料として喜ばれるだろう。しかし、楓もイエヌ民族の血を引く猟師。イエヌの動物……とくに神とまで称される龍に関しては侵しがたい畏敬の念を持っているつもりだ。
だから、最後まで実験動物として飼いならされて朽ち果てるよりは、このまま野生動物として最期を迎えさせることが唯一の慈悲のように思えるのだった。
楓は山刀を取り出し、その煌めく白刃を仔龍の喉元に突き入れるのだった。