雪龍⑤
楓たちが八雲の声に反応して上空を見上げたときは、すでに木の上から落下してきた雪龍が八雲に襲いかかろうとしていた時だった。
通常、止め足を使用した龍は手近なブッシュなどに潜んで、追跡者の背後を取って襲いかかるものだ。しかし、この雪龍は、背後に気を取られていると視覚的にも心理的にも死角になる上空を潜伏場所に選んだのだ。
裏をかいたと勝ち誇っていたら、さらに相手に裏を読まれていたというわけだ。獣にしてやられた悔しさと最大の好機が一転して最悪のピンチに変わってしまった焦燥がない交ぜになり、楓は激しく歯噛みするのだった。
空中からの奇襲を仕掛けてきた雪龍は、位置関係から最も間近にいる八雲にまっさきに襲いかかる。
「栗橋!」
楓が叫んで、警告を促した時はすでに遅かった。しょせん人と獣である雪龍とでは反応速度が違いすぎる。雪龍によるたったひと振りの爪の一撃を側頭部に叩きこむと、八雲はダンプカーと正面衝突したかのように激しく吹き飛ばされるのだった。
普通の人間ならまず間違いなく即死であろう一撃を食らい、八雲の身体はぴくりとも動かない。おそらく即死、万が一生きていたとしても、あと数分で死に至るような絶望的な重傷に間違いない。
だが、楓とてただ八雲に叫んで警告を促していただけでない。声を出すと同時にライフルの引き金をひいて、雪龍の脚の付け根の股関節を狙い撃つのだった。
破る耳を聾するほどの轟音が、森の中の楚々とした静寂を打ち破る。
必中の手ごたえを感じた楓は、相手の脚の自由を奪ったことを確信する。もちろん、タフな獣なのであるていど歩くことくらいは可能だろうが、片足の自由がきかない状態なのでもう先程まで俊敏な動きはすることはできない。あとはレラが心臓を神術で打ち抜いて心筋を破壊さえすれば、相手の機動力を完全に封じることができる。
この時の雪龍の目は座りきっていた。片足は破壊されたものの、今すぐこの場にいる全員を抹殺すれば、自分が生き残れることを理解しているのだろう。その眼窩の奥から発せられる凶悪なまでの殺意に満ちた眼光は、北の大地の王者として君臨してきた生物の残虐性をまざまざと感じさせるものだった。1秒でも早くこの生物の命を奪わなければ、自らの命を差し出す結果となる。これまで何度も経験した人と獣の対等な関係に、楓は体内のアドレナリンがふつふつと滾るような感覚にとらわれる。
しかし、先程の作戦で取り決めたにもかかわらず、レラはいつまで経っても風の神術を放とうとしない。
もちろん、それは客観的な計測ではほんの数瞬ほどの短い時間だったに違いない。しかし、命のやり取りをしているこの状況では無限に近いに感じられる。
「レラッ!」
恐慌状態に陥りそうになる自らの心を理性で抑えつけ、端的かつ最小限の叱咤を放つ楓。
だが、レラも自らの役割を忘れているわけであった。
なにか不測の事態が発生して神術を放つことができないようだ。その顔は驚愕と恐れで加速度的に色艶をなくし、収束のつかない混乱のせいで視線は完全に宙を泳いでいた。
悪い時に悪いことが重なるとは、まさにこのことだ。
レラはこの年頃の少女にはめずらしく感覚よりも理性で行動の決を取り、自らの頭の中で明確な回答を導き出してから行動に移す慎重派タイプ。
だが、それだけに、自らの判断だけでは処理できない不測の事態に陥ると、こういうタイプは意外なほどに脆い。
当初の作戦を捨てた楓は、心臓に撃つべき次弾も自らのライフルで放つことを決意する。
しかし、脚に傷を負って機動力は大幅ダウンしているとはいえ、無傷の上半身のハンドスピードは人間の敏捷性とは比べもにならないのが野生の獣。楓が引き金を引くと同時に刃物のような鋭い爪のついたその手でライフルを払い、目の前の人間の無力化に成功する。
楓の顔を凝視して、わずかに唇の端を持ち上げる雪龍。楓にはそれが、圧倒的弱者である獲物を前にした嗜虐の笑みにみえるのだった。
〝こいつ……〟
〝愉しんでいやがる!〟
楓はこれから自分たちに訪れる最も確率の高い未来を予測できていた。
食害をおこなった龍は、最初に食べた個体の性別の味を覚えて、執着すると言われている。この雪龍が最初に食べたのは女性の密猟者。いぶきがその身体を完膚なきまでに食いつくされ、いぶきの兄や中年の密猟者、そして八雲が頭を叩き割られただけなのは何も偶然ではない。
そして、今の攻防、雪龍はやろうと思えば楓のライフルではなく、その頭を叩き割って息の根を止めることができただろう。
しかし、最も恐るべき武器であるライフルさえ無効化してしまえば、強固な爪も牙もない人間など手負いの状態でも取るに足らない相手だと知っていた雪龍は、わざと楓を生かして、その叫び、嗚咽を聞きながら食害しようとしているのだ。あの目はそういう目だ
そこには確実に、自らの生命を維持する以外の目的での殺戮を楽しむ魔性の愉悦が存在していた。断じてこの獣は、明日を生きていてもよい存在の生物ではない。
「調子に乗ってんじゃねえぞ! このド畜生が!」
その想いに呼応するかのように、静かな、しかし明確な殺意を孕んだ剣呑な声が耳に飛び込んでくる。
そして、その瞬間、楓の耳を蹂躙したのは、まるでガラスの窓を爪でひっかいたような不協和を発する雪龍の叫び声だった。
そこにあったのは、先程までは絶対的な強者だった雪龍の左腕が切断され、前肢が地面に転がっている光景だった。その斬れ味は凄まじく、切断面から見える筋組織はほとんど潰れてはおらず、今も雪上に真っ赤な血を垂れ長しているのだった。
「ライフルさえ奪ったら、クソ弱い人間なんていつでも殺せるとでも思ってたか? あって? 残念だったな、たしかに人間は弱いよ。でも、ボクは強いんだぜ?」
パーティー全滅の危機を救ったのは、樹だった。
だが、そこには通常時のようなひょうきんかつ人懐こい犬のような親しみさなど欠片も存在しなかった。ただ底なしの奈落を思わせるような深い殺意を讃えた瞳で雪龍を直視しているのだった。
レラが論理的な思考で自らの行動を導きだしてから戦うタイプなら、樹は典型的な何も考えず自らの経験からくる勘を頼りに戦うタイプである。この手のタイプは安定や堅実とは無縁で戦力としての計算はしづらいが、こういう危機的状況や格上の相手にはとんでもない爆発力をみせてくれることが多い。レラや八雲のような優等生タイプとは違い、土壇場において最も頼りタイプだと言えるだろう。
だが、楓が分析できたのはそこまでで、素手の樹がなぜ桁違いの筋骨の強度を誇る雪龍の腕を切断することができたのかのかは分からなかった。
しかし、それは当の本人である雪龍自身もそうであるようだ。
その眼差しはあきらかに不可解な恐怖に凝っているのだった。
「わけが分からないってツラしてるな。いいさ。教えてやるぜ。
こいつは勁鋼線っていってな。生まれてから一度も断髪をおこなっていない11歳11か月11日の乙女の血と髪のみを原材料としてつくられる特殊な鋼線さ。どうだい? いくらテメエがバケモンでもこいつだけは視えねえだろ? なにせ、こいつを造るためにボクはじいちゃんにムリヤリ丸坊主にさせられたんだからな」
そう高らかに嗤う樹。
真に警戒すべきは楓のライフルではなく樹自身だと悟った雪龍は、標的を樹に切り替えてその鋭いに爪を樹に振り下ろすのだった。
しかし、その一撃は空振りに終わる。
そして、続けて繰り出した次撃も、またも空を切るのだった。
反応速度が違う人間では、獣の攻撃をかわすことは不可能だと確信していた楓は目の前の光景を疑う。
だが、樹はその場から動いて雪龍の攻撃をかわしているわけではない。雪龍が攻撃してくるさいに、なんと相手の腕に手を添えて引き寄せるようにしてわずかに運動エネルギーのベクトルを乱し、その場から1歩も動かずに攻撃を回避しているのだった。
その後、樹から聞いた話だと、この防御術は、内家拳でいうところの「化勁」という技なのらしい。
そして、樹は雪龍の攻撃をかいくぐりながら懐に潜り込むと、そのどてっぱらに拳を打ち込む。
素手による人力での攻撃など、ポロボクシングの世界ヘヴィ級のチャンピオンの一撃だったとしても雪龍は意に介さないだろう。それが、ヒトと龍の圧倒的な筋力差である。だが、あきらかに雪龍は樹の攻撃にもだえ苦しみ、血反吐を吐いている。
筋骨の強度や膂力に執着せずに、呼吸法による錬気によって破壊力を生み出す蜂須賀流忍術の恐ろしさを楓は改めて理解する。
「よう、どうだ。バケモノ、見下していた人間に殺される気分は? なかなかイカスだろ?
でもよぉ、テメエは楽に殺さねえぜ。生きながらナマスに切り刻んでやる。こちとら、死んだほうがマシだと思えるような拷問方法をガキの頃から自らの身体で学んできたんだ。たっぷり味わわせてやるよ」
苦しむ雪龍を足蹴にする樹。
「なにやってるんだ! 蜂須賀! さっさとトドメを刺せ!」
楓は喉が潰れんばかりに声を張りあげる。野生の獣を殺めるときは、やれる時にやるのが鉄則である。それ以外の目的を挟んだら、不測の事態を巻き起こし、その結果、命取りとなる。楓はその事実を痛いほどこれまでの経験で学んでいた。
「なに言ってんだよ、楓ちゃん」
冷たく、静かな樹の声音。
「こいつは八雲を殺したんだぜ。ボクが……15年間、ずっとじいちゃんと修行しかしてこなかったボクが初めてできた友達を……親友をあっさり殺したんだぜ。まともな殺しかたなんかするかよ。こいつには自らの運命を嘆くような、生き地獄を味わわせてやる」
こいつ……
〝完全にキレてやがる……〟
幼い頃から忍術の修行を積み、同年代の者どころか手練れの戦士すらも超越するほどの戦闘力を手に入れた樹だったが、それは満たされない心と歪な感情を生み出す結果となってしまったようだ。
「さてと、それじゃあジワジワと殺してやるか」
そう冷淡に呟く樹だったが、次の瞬間には雪龍から足元に視線を移すことになる。
「痛ってぇな」
そこにはおそらく雪龍の子供なのだろう、樹の膝丈にも満たないほどの大きさの仔龍が彼女のふくらはぎに噛みついている。
おそらくまだ牙も生えそろっていないほどの年齢なので、樹が受けた肉体的なダメージは皆無と言ってもよい。
だが、自らの仇撃ちの邪魔をされたことがよほど気に障ったのだろう。
「なんだよ。そんなにはやく死にたいのかよ。じゃあ、親子ともども地獄に送ってやるよ」
そう穏やかかつ冷淡な口調でつぶやくのだった。
だが、その瞬間だった。
樹が足元の仔龍に気を取られていたほんの一瞬を見計らって、それまで呆然と立ちすくしていたレラが山刀を手に不明瞭な叫びを口にしながら雪龍に向かっていくのだった。
〝馬鹿な真似はやめろ!〟
いくら刃物を手にしたとしても、神術の使えないレラでは雪龍相手に勝ち目はない。しかし、レラはそれでも無謀にも雪龍に立ち向かっていく。
自らの両親の仇を討ちたいという私怨と、それから今日という日まで磨いてきた神術がまったく発動できないという現実、さらには軽んじていた樹のほうが戦力になっていることに自尊心を傷つけられたのか、とにかく今のレラは完全に冷静さを失っている。
案の定、雪龍はレラの攻撃などまったく効いていないようだ。山刀を弾き、その鋭い爪を深々とレラの腹部に突き立てる。
「あっ……」
口元から一筋の鮮血を流して、間の抜けた呟きを漏らすレラ。
そして、まるで不用品でも処理するかのように、雪龍は崖下にレラを放り投げるのだった。
「レラァーッ!!」
だが、そのレラの危機にいちはやく反応したのは、楓でもなく、ましてや樹でもなかった。
なんと、最初に雪龍の一撃を食らい即死と思われていた八雲だった。
おそらく今までは気絶していただけなのだろう。即死と思われていた八雲が生きていた事実に楓は驚くが、その後の行動にも楓は驚いた。
なんと、崖に投げ捨てられたレラを助けるために自らも崖に飛び込んでいったのだ。
レラが空中で弧を描くような軌道で投げ捨てられたのが、幸いしたのだろう。八雲は空中でレラの身体を抱きとめることに成功する。
しかし、だからといって、翼のない人間が万有引力の法則に逆らえるはずがない。そのまま数十メートル下の崖下に転落して、雪が降り積もった森の木の中に消えていくレラと八雲。
楓は呆然とその光景を眺めるのだった。