雪龍④
そして、八雲たち四人と楓の猟犬であるリュウはいぶきたちを食害した雪龍を追うために森の深部まで足を踏み入れる。
しかし、いぶきが土饅頭の中に保存されていたことを考えると、獲物はそう遠くへは行ってないはずだというのは楓の言。
「なあ、楓ちゃん。あの兄ちゃんは散弾銃を持ってても龍にやられたけど、散弾銃を持ってても返り討ちに遭うもんなのか?」
猟犬のリュウを先頭にして、先を行く楓に樹が問いかける。愛銃であるMURATA90式は連射がきかないので、指のあいだに弾丸を仕込んでいて彼女はすでに臨戦体勢だ。
「ああ、そうだな。蜂須賀も自分のじいさんから銃器の扱いは教えられてたみたいだから、散弾銃とライフルの違いは分かるよな」
「うん。まあね」
「散弾銃は狩猟のために進化した銃で、文字通りシェルケースの中に小さな弾が入っていて、発射された瞬間にそれが扇状に広がって獲物を仕留める仕組みだ。当然、エネルギーが分散される分、一点集中のライフルよりも威力も射程距離も格段に劣る。だから、どこの自治体も散弾銃を数年に渡って所持した実績のある者でなければライフルの免許は降りないようになっている。
そして、散弾銃の弾にもいろいろな種類があって、島村が使用していたのバックショットという弾だ。バックショットのバックは『鹿』のことで文字通り、鹿などの大型獣を撃ち取るための弾で、鳥などを撃つバードショットなんかよりも威力はある。だが、それでも雪龍を相手にするにはまったくの火力不足だ。やはり雪龍を相手にするには、絶対にライフルが必要だ」
「じゃあ、ライフルで龍を倒すにはどうすればいいのさ?」
「まず一発で仕留めようと思わない事だ。龍の鱗と筋肉は非常に硬くて、心筋もタフそのものだ。心臓に致命傷となる一撃を撃ちこんだとしても、息絶えるまでのあいだに数百メートルの距離を詰めて猟師を道連れにしたなんて話もあるくらいだ。頭だってそうだ。頭蓋骨は龍の骨の中でも最も硬く、厚い。しかも奴らは斬首された状態でも、蛇のように身体を動かすだけならできるからな」
「聞けば、聞くほどバケモンって感じだな。楓ちゃんは龍を仕留めたことはあるの?」
「いや、あたしもさすがにない。なにせ雪龍は龍の中でも個体数が多いほうではあるが、それでも希少生物に変わりはない。今回のような特別な事情ないかぎりは狩ること自体が許されていないし、イエヌでも龍害事件が発生したのは四年ぶりなんだからな。その四年前の龍害の時、うちのじいさんとオヤジがウェンカムイとなった雪龍を殺めた時は、ふたりが交互に脚の付け根、心臓、脳天の順に撃っていた。まず脚の付け根に撃って機動力を封じて、心臓、最後に脳天を撃ってトドメを打つ──。それぐらいの念の入れようじゃないとこっちが返り討ちになる」
「じゃあさ、もしライフルがない状態で森で出会ったら、どうすればいいのさ? 木にでも登ってやり過ごせばいいの?」
「ハチ、残念だが、雪龍は木に登ることができるんだ」
ふたりの会話に割り込んで、八雲が答える。
「えっ、そうなの?」
「ああ、雪龍の体重に耐えられるほどの木だったら、あの鋭い爪を木に打ちつけて簡単に登っちまう。だから木の上に登っても無駄なんだ。雪龍は翼が退化していて飛べない分、足も速いし、泳ぐのも得意だ。だから走っても水の中に逃げ込んでもダメなんだ」
「じゃあさ八雲、火は? 動物は本能的に火を怖がるんだから、火をみせれば大丈夫だろ?」
八雲は首を横にふる。
「雪龍は火を恐れない。それどころか、自ら火を起こすことができる」
「マジか?」
「ああ、枯れ木とかに爪をこすって、まるでマッチでも擦るみたいに簡単にな……。ああ、しかもこれは最近になって分かったことだが、雪龍は仕留めたシカやウサギの肉なんかも、その自分で起こした火を使って調理をして、食べちまうんだ」
「なんつー動物だよ。バケモンそのものとしか言いようがない身体能力なうえにそこまで賢いのかよ」
今まで知らなかった龍の生態に樹は驚きの声をあげる。
「しかもそれだけじゃない。雪龍は……」
さらに説明を続けようとする八雲だが……
「この前まで自分ひとりでは狩りもできなかった本土者が、ずいぶんとイエヌの象徴である龍について偉そうに語るのね」
冷ややかな仏頂面を崩さないままで、レラは八雲の顔さえ見ずにそう吐き捨てる。
「雪龍が木に登ることや泳げるなんて、今どきネットで調べればすぐに分かることだし、火を使って調理することも、どうせうちの大学の研究所が出した論文から得た知識でしょう」
レラが言う、『うちの研究所』とは、『北央大生物科学研究所』のことである。
この施設は名前のとおり、イエヌと東京に所在地があるの北央大が管理する研究機関である。とくに龍に関する研究では世界一と称されているほどである。
この研究機関が3年前にイギリスの生物学雑誌に載せた論文は、世界中の研究者を仰天させた。それは龍が火を使い肉や魚などを調理するなど、今まで謎に包まれていた龍の生態が克明に記されていたのだ。
「たしかにあなたの知識がそれなりなのは認めるわ。でもね、このイエヌの森では生きていくために本当に必要な知恵は、経験にでしか得られないの。知ったかぶりの都会人の知識だけでは雪龍は殺められないということを肝に銘じておきなさい」
声音に静かな怒りを滲ませながら断言するレラ。
「くそ! 胸くそ悪いな。ボクちょっとションべン行ってくる」
舌打ちして雪を蹴る樹。
「おい、危ないぞ。俺もついていくから」
「は? この歳になって連れションなんて恥ずかしくてできないだろ。いいよ。たとえ襲われたとしてもボクはひとりでも対処できるさ」
そう言って樹は木の影に消えていく。
だが、数十秒後、樹の叫び声が聴こえて八雲たちはすぐに駆け付ける。
「これ、龍にやられた死体じゃないのか?」
そう叫ぶ樹の足元には、おそらく雪龍に首をへし折られたのであろう中年の男性の死体が転がっているのだった。
「しかも、このおっさん、最初に女の密猟者の死体がみつかったときに、ボクらを悪態ついてきた憎たらしいおっさんじゃないのか?」
たしかに樹の言うとおり、この中年は楓や八雲たちに対して『若いねーちゃんやションべン臭いガキ』と見下していた猟師である。だが、いぶきのように食害された様子はなく、死体の付近には銃身が捻じ曲げられたライフルが転がっている。さらに付近には、子連れと思われる足跡も。これはいぶきを食害した加害龍とも一致している。
「見ろよ、楓ちゃん」
樹がそう言って地面を指さす。そこには人の頭ほどの大きさのピーナッツクリームのような色をした半練り状の物体があった。
「こりゃあ、龍の糞だな」
そして、八雲をはじめこの場にいる全員が加害龍の糞だということを察知した。なにせ、半練り状の糞にはおびただしいまでの未消化の人髪が絡まっていたのだから、おそらく最初に食害された密猟者のものだろう。感想具合からして、つい前までこの場にいたのは間違いない。
楓はさっそく糞の検証を始める。糞はその色や形、大きさ、内容物から現在の動物の状態をありのままに映し出す重要な痕跡である。追跡において、糞の検証は重要なヒントになるのだから、調べない手はない。
そして、八雲は楓の糞の検証を横で見ていたが、そこに表面に露出している人髪だけではなく未消化の人骨や人肉も出てきて、この事件が示す凄惨さに八雲は息を飲むのだった。
そして、糞の検証を終えた楓は死体の検証を始める。
「こりゃあ、『止め脚』にひっかかったな」
死体を検証しながら、楓がつぶやく。
「止め足って……なにさ? 楓ちゃん」
「止め足っていうのは、人間に追われていると察した野生動物が使う奇襲戦法さ」
例によって樹の疑問に楓が答える。
「わたしたち猟師は獲物を足跡で追跡する。だが、リスやウサギやヒグマ、そして龍などの野生動物はそのことに感づいたら、今まで来た道についている自分の足跡を正確に踏んで逆戻りして、あとは手近なブッシュの中など足跡がつかない所へジャンプする。こうやれば、足跡は途中で消えて猟師の追跡を攪乱することができるわけさ。
しかし、リスやウサギなどの小動物はただ逃走を目的として止め脚を使うが、ヒグマや龍は違う。そのまま逃げずにブッシュの中などに身を潜めて猟師が素通りするのをじっと待つ。そして、背後から確実に殺しにかかるのさ。まず間違いなくこのおっさんは止め足にひっかかって返り討ちにあったのさ」
たしかに楓の言うとおり、死体の近くの雪には、途中で忽然と消えている雪龍の足跡があるのだった。
「止め足はじつに厄介で、どんな経験豊富な猟師でも見破るのが難しいとされている。とくに遭遇すること自体が少ない龍のものはな」
八雲は改めて認識する。この雪に包まれた野生の森は雪龍のホームグラウンドあって、人間にとってはアウェーでしかない。コンクリートのジャングルならばその頭脳をフルに活かすことができるが、この場所での知恵比べは野生動物のほうが上なのだ。
だが、確実に標的の雪龍に近づいているのもまた事実。八雲はコブシに力を込める。
そして、それから20分も経たないうちに、楓の猟犬であるリュウはすぐさま真新しい雪龍の足跡をみつけるのだった。
「よしよくやったぞ、リュウ」
愛犬をねぎらう楓。
だが、先程の出来事もあり、4人はけして油断はしなかった。野生動物を追跡するためには足跡を辿るのが最も有効な手段だが、人間とは比較にならない巨体と身体能力を持ち、 獣ならざる狡猾さを併せ持つ雪龍相手にはこれからが本番なのだ。一歩、間違えば先程の中年猟師のように雪龍の術中にはまってしまう。
「栗橋」
楓は固い声で八雲を呼ぶ。
「あたしはガキの頃からイエヌの森や山を歩き回っていろいろな動物を狩ってきたが、龍に関しては4年前に一度経験があるだけで、情けないが絶対の自信があるわけではない。オマエは龍の止め足を見破れる自信があるか?」
「大丈夫です。通常の足跡に比べて止め足を使用した足跡は、来た道を戻ってきている分ほんのわずかに大きくなっています。もちろん龍の個体によってそれが1センチ以上の場合もあるし数ミリの時もある。ですが、絶対に止め脚を使用した時とそうじゃない時はサイズが違うので、俺なら見分けることが可能です」
「よし。それじゃあすまないが、これからはオマエが先頭に行って、足跡が止め足を使用したものかそうでないか見極めてくれ」
「わかりました」
八雲は頷いて応じるのだった。
「ちょっと待って!」
しかし、その楓の決定にレラは大きな声を張りあげて異を唱える。
「龍の止め足を見破るのは、熟練の猟師でも難しいのよ。それなのに、ろくに狩りもしたことがないような東京の人間にできるはずないわ。そんな人間に命を預けることなんてできない!
先生が自信がないというのなら、わたしがやります。わたしは四年前からこの日のために山を歩き回り、龍の生態を研究したんだから!」
その言葉には、レラがこれまで過ごした四年間の重みが蓄積されてきた。どんな言葉よりもずしりと臓腑に染みるような迫力に満ちていたのだ。
「お願いします。わたしにやらせてください」
だが、楓はそのレラの懇願を静かだが、確固たる口調で封殺する。
「レラ、オマエが納得できないのも理解できる。だけど、あたしは最も適任だと思う采配しているだけだ。それに、オマエは栗橋を東京モンだと言って馬鹿にするが、栗橋は東京に住むまでは、このイエヌの天塩で暮らしていたんだ。狩りの経験こそは今までなかったが、森を歩く経験も龍に関する知識も豊富だ。この重要な役目も任せられる相手だとあたしは思っている」
「でも……」
「いいか。レラ、この集団のリーダーがあたしだ。大自然の中で、指示系統が乱れ、統率を失った集団が悲惨な末路を辿るのはオマエも知っているだろう? 普段の生活ならあたしはできるだけオマエたちの意志を尊重してやるが、命がかかったこの状況なら別だ。死ぬのが嫌なら、おとなしくあたしの指示に従え。これは命令だ」
そこまで言われたのなら、さすがのレラも従わなくてはならない。
だが、よほど納得がいかないのか、全身から殺気に似た怒りの感情が滲み出ているのだった。
「いいか、レラ。これから栗橋には先頭に立って雪龍の足跡を追ってもらい、わたしが最後方、オマエがその前を歩いてくれ。そして、止め脚にひっかかったと勘違いした雪龍が背後から襲いかかってきたところを、あたしのライフルとオマエの神術で返り討ちにする。狙う個所と順番はさっきも話した通り、まずあたしが脚の付け根、次にレラが心臓、最後にあたしがトドメの弾丸を脳天に撃つ」
そして、4人は八雲を先頭にして雪龍の足跡を辿るのだった。
一応は楓の言葉にしたがっているものの、まるで威嚇する猫のように敵意を剝き出しにしているレラの視線を痛いほど感じるが、今の八雲はさすがにそんな感情を気にする余裕などなかった。
いくら止め足を使ったものと通常のものとではサイズが違うものの、それはごくわずかなものである。そのわずかな違いを見逃さないためには大変な集中力を要する。
しかも、今回はその八雲の判断に、己だけではなく大切な仲間の命まで託されているのだ。重圧がかからないはずがない。
八雲の背中から臀部にかけて、粘度の高い汗が流れる。口の中がカラカラに乾ききり、心臓の鼓動とこめかみの脈動が連動しているのが自分でも分かった。
だが、それでも八雲は全神経を集中させて、雪龍の止め足を見破ろうとするのだった。
そして、数百メートルほど歩いたところ。とある急峻な斜面に差し掛かったところで、八雲は雪龍の足跡がほんのわずかに大きくなっているのを見極めた。
「先生、ここです。ここでわずかに足跡が大きくなっています」
常識的に考えれば獣である雪龍に人語は解さない。だが、八雲は自分の気づきを今も近くのブッシュの中で潜んでいる雪龍に悟られないために、3人にだけ聞こえる声量で伝えるのだった。
「よし、分かった。オマエはそのまま気づかないふりをして、そのまま歩き続けろ。あとは、あたしたちを出し抜けたと勘違いしたマヌケのどてっぱらと額にライフルと神術で風穴を開けてやるだけだ」
「分かりました」
そして、八雲は先程と速度を変えずに、同じように歩き続ける。
止め足を見破った今、この時点で八雲はすでに役目を終えたといってもいい。あとの攻撃は後ろにいる楓とレラに役割なのだ。
しかし、八雲の粘度の高い汗はいっこうに止まる気配がなかった。いや、むしろその汗の量は止め足を見破った時から増える一方だ。
たしかに、ここからはいつ雪龍が襲ってくるか分からない状況なので、緊張が解けないのは無理のないことなのかもしれない。
しかし、八雲が感じている悪寒はそんな緊張とは似て非なるものだった。
もっと恐ろしい怖気。普段はたいして意識していない「死」という名詞が、急速に重みを持って心の上に覆いかぶさっていくようだった。
〝俺は何か重大な事実を見逃してるような気がする〟
そのとき、八雲が真上をみつめたのはまったくの偶然だった。
明確な意志など存在しない。
心の中で渦を巻いている悪寒を消し去るために、これまでと異なる行動を取ってみただけに過ぎない。
〝──ッ!!〟
だが、そのほんの気まぐれが八雲の命を救う結果となる。そして、八雲は喉も破れんばかり絶叫するのだった。
「上だ! 奴は上にいる。雪龍はブッシュの中に潜んでいたんじゃない。木の上に登って上空から俺たちの不意を突こうとしていたんだ!」




