雪龍②
いぶきは最初、その生物の襲来による建物の揺れを地震だと思っていた。
兄との狩りを終え、狩り小屋に戻ってきた時だった。いぶきはその日の狩りの成果を八雲にLINEで連絡しようと思ったが、よく考えたらこの狩り小屋は圏外だということを思い出し肩を落とした。
狩り小屋が激しく揺れたのは。そのときだ。
地震だと思ったいぶきは咄嗟に地面に伏せたが、兄は「違う!」と叫んだ。そして、次の瞬間には窓ガラスが破られて、雪龍が小屋の中に侵入してきた。
いぶきは悲鳴をあげて、破られた窓ガラスをみつめる。
いくらプレハブとはいえ、この小屋は防寒対策が施されていて壁も厚く設計されている。それにもかかわらず、雪龍は建物の窓を破り、壁をまるで飴細工のように簡単にへし曲げて室内に侵入してきたのだ。異様なまでに生臭い吐息が部屋の中を覆う。破壊された壁から吹きすさぶ冷風よりも、その圧倒的な膂力と目の前の野生にいぶきは心の底から震えるのだった。
「いぶき、なにやってるんだ! はやく逃げろ!」
兄は狩りに使っていた散弾銃を撃つが、無数の小さな弾をばら撒く散弾銃程度では雪龍にはかすり傷程度の傷しか与えらないらしい。血は流すものの怯む様子はない。
それどころか、その抵抗が雪龍をさらに興奮させる結果になったらしい。底力のある荒々しいうなり声と共に、アイスピックのように鋭い鉤爪のついた右腕を兄の頭に振り下ろすのだった。
兄の首は90度に九〇度に折れ曲がり、手に持っていた散弾銃は床に零れ落ちる。兄の頭皮と頭蓋骨はまるで熱し過ぎたポップコーンのように弾け、そこから赤い血と脳脊髄液が飛び散るのだった。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん!」
はやく逃げろという兄の忠告も雪龍が間近にいる恐怖も忘れ、ただの一撃で即死しただろう兄のもとに泣き叫びながら駆け寄るいぶき。
しかし、そんないぶきを現実に引き戻したのは肩に走る激痛だった。
雪龍はいぶきの肩に爪をひっかけて部屋の中央に引きずる。そして、そのままいぶき覆いかぶさり、口腔を開くのだった。
燃えるような赤い舌とノコギリの刃のような鋭く大きい牙。耳を撃つ激しい息遣い。生ゴミにも似た鼻を曲げたくなるほどの口から発せられる唾液の獣臭。その全てがいぶきが体験したことのない圧倒的な威圧感となって、あらゆる心の垣根を飛び越えて魂の芯まで圧し潰しにかかってくるのだった。
「~~~っ!」
銃弾で肉を抉られるよりもなお鋭い痛みがフトモモに走り、いぶきはその個所に視線を走らせる。するといぶきのフトモモの肉は衣服ごと食いちぎられ、歯型のついた皮下脂肪と大腿四頭筋の中から白い大腿骨が露出していたのだった。
まるで食べかけのフライドチキンのようだといぶきは思った。
昨晩の風呂上り、体重が増えたいぶきは「もっとダイエットしたほうがいいかなぁ」と兄に相談した。すると、兄は「いぶきはぜんぜん太ってないし、中学生なら体重が増えるのが健康の証、それに女の子は少しくらいぽっちゃりしているくらいがちょうどいい」と笑い、いぶきは「一般的な男の人じゃなくて、八雲さんの好みの問題なの!」と眉を吊り上げるのだった。
だが、そんなふうな兄弟の会話も、今では遠い世界のおとぎ話のように現実感がない。八雲に気に入れられるために磨いた美貌が、まさか龍の餌になるとは思っていなかった。
いぶきの瞳に涙の膜が張りつめ、それはみるみるうちに大きく膨れあがって零れ、頬から滴り落ちる。
そして、それが、いぶきが『心の痛み』によってこの世で流した最後の涙だった。
〝いや! やだ! やめて!〟
〝助けてお兄ちゃん、八雲さん……〟
いぶきは傍らに転がっていた小型のナイフを何度も突き刺すが、雪龍はそんな攻撃に頓着する様子もなくおもむろにいぶきの下腹部に黄色い牙を突き立てるのだった。
龍が、ライオンや虎といった猫科の猛獣のように、相手の喉元に食らいつきトドメを刺してから食害するような動物ならば、いぶきは不必要な苦しみを味わうことはなかっただろう。
しかし、圧倒的な体躯と膂力を誇る龍は、そんな無駄な工程を踏まなくても、相手の抵抗など意に介さず獲物の腹部や臀部、大腿部など肉が柔らかく食べごたえのある部位を貪り続けることができる。
一度ヒトを食い、人間の脆弱さを知った龍は、どんな生き物も恐れていなかった。
ヒグマでさえ、彼から見れば食物連鎖の下の位置する存在なのだ。
強力な力ゆえに傲慢な心が生まれるのは当然だった。
やがていぶきの手の力が緩み、握っていたナイフが床に転がり落ちる。そして、痛みと恐怖によって発せられていた悲痛な絶叫が、いつしか蚊の鳴くようなうめき声に変化する。
いぶきこの後、息絶えるまでのあいだ、意識を失うことなく自らの身体を龍に食害される激痛と恐怖を味わうこととなるのだった──。