過去
そして、その日の夕食はイエヌイノブタの肉で牡丹鍋をつくることにした。新鮮なイノシシ肉が手に入った時の定番料理といえる。
とりあえず解体作業が終わった後に昼過ぎまで睡眠を取った八雲は、料理の下ごしらえをする。
「おっ、なんだ。これ? イノシシの肉か?」
食いしん坊の樹はさっそく関心を示すのだった。
「ちがうよハチ。イエヌにイノシシはいない。これはイエヌイノブタだよ。これで牡丹鍋を作るんだよ」
「おお、そうかそれはうまそうだな」
そこにレラが通りかかる。ちなみにイエヌ民族であるレラでも、さすがに猟の時とは違い寮内ではイエヌの民族衣装を着ていない。今は白色のスウェットを上下に着用しているのだった。
「おう、レラ。見ろよ八雲がイノブタを捕ってきてくれたんだぞ。凄いよなこの前は何も捕れなかったのに」
「ふぅん」
「それで今夜は牡丹鍋にするっていうんだ。オマエも食うだろ?」
「遠慮するわ」
「はあ? 今日の夕食だぞ。これを食べなかったから今日の夕食はなにもないぞ?」
「ええ。わたしはひとりで適当に何かを食べるわ」
「なに言ってるんだよ、一緒に食おうぜ。せっかく八雲が初めて捕ってきた獲物だぞ」
「だから、いらないの。そんな物を食べるくらいなら、ひとりでパンでも食べているわ」
そのひとことに、樹は眉を急角度に跳ね上がるのだった。
「オマエなぁ! いい加減しろよ! せっかくこっちが誘ってやってるのに!」
胸倉を掴むかかりそうな勢いで、レラに詰め寄る樹。
「もういい、ハチ! 本人が食べたくないって言ってるんだ。無理強いするな!」
「いいや、もうボクは我慢できないね! いつも済ました顔で八雲の好意を無下にしやがって! オマエ自分がどんだけ、人間としてどんなに醜いことをしているか分かっているのかよ! ああ? いったい八雲の何が気に食わないんだよ」
その言葉を聞いた瞬間のレラの表情を八雲は一生忘れられないだろう。神霊なような凛とした整った美貌は崩さぬまま、双眸にだけ青白い炎のような怨嗟を色の浮かべ、低く、濁った冷たい語調で自らの心情を吐露するのだった。
「わたしは、あいつのような自然の強大や恐ろしさ、人間のちっぱけさも理解していないのに、軽々しく『自然を守りたい』なんて世迷言を口にする連中にすべてを奪われたのよ。この世のすべての残酷さから身を挺してわたしを守ってくれた人も。無条件に愛されることが当たり前だった、甘く夢見るような幸せな日々も」
それだけ言い終えると、レラは足早に自室に引き上げていくのだった。
そして、その日の夜は当初の予定通り、牡丹鍋は食べることにしたのだが、当然のようにレラは自室から出てこなかった。
新鮮なイエヌイノブタの肉、ゴボウやニンジン、ダイコンなどの野菜がたっぷり入った味噌仕立ての鍋の味は文句なかったが、その晩餐の場が重い雰囲気に包まれたのは言うまでもない。
「ふぅん。今日はレラとそんなことがあったのか……」
ダシの味がたっぷり染みたうま味の塊のようなダイコンを箸で取り、楓はつぶやく。
「そうなんだよ、楓ちゃん。それでボクは頭にキちゃってさぁ!」
ただひたすら肉のみを口の中に放り込む樹が声を荒げるのだった。
「教師のわたしがひとりの生徒に肩入れするのよくないんだが、わたしはレラを幼少の頃から知っている。だからこそレラを許してやってはくれないか。あいつはあいつで今でも過去に引きずられているんだ」
「それだよ。楓ちゃん。あいつは八雲のような人間に全てを奪われたって言うんだけど、あいつの過去にいったい何があったって言うんだよ」
そう声を荒げて問い質す樹に対して、楓は大きく息をついて宙を見つめる。
「本当は、こういうことは本人の口から話させるべきなんだが……」
だが次の瞬間には観念したかのように、重々しく口を開くのだった。
「でも、オマエたちはたった3人しかいない特英科の生徒なんだ。いつまでも隠していい話題じゃないしな」
そして、楓は淡々とした、しかしレラに対する愛情が強く滲み出る口調でレラの過去を語るのだった。
レラの両親は、共に北央大の研究者で特に鳥類を専門としている動物学者だったという。住居は大学がある札幌に構えていたが、両親は1年のほとんどを天塩の研究林で過ごしており、レラも物心ついた時から自然と触れ合うようになり、けして人に懐かないような種類の動物もレラには懐くほどだったという。
観測小屋にいる時は親子3人で過ごすことが多く、レラは同年代の子供と接することは少なったが、そのぶん両親は誰よりも愛情を注いで育てていたという。
「今のあいつからは信じられないが、昔のレラは明るく無邪気な笑顔を周りに振りまくかわいい女の子だった。そして、レラにとって両親は一緒に遊んでくれる友達でもあり、学校の勉強や動物の習性も教えてくれる先生でもあった。まあ、とにかく幼いレラにとっては両親と過ごす毎日が世界のすべてだったんだよ」
沈鬱な、うめきにも似た音のつぶやきを楓は口先から漏らす。
そして、今から4年前にレラの母親が懐妊した。もともとひとりっ子でレラに寂しい想いをさせていたと感じていた両親は大いに喜んだという。
だが、そんなある年の秋に、市街地に姿を現しただけのヒグマが、射殺されるという事件が立て続けに発生したのだ。
この事件に、東京に籍を置いているある自然保護団体とそれに共鳴する自称動物愛護主義者が過敏に反応した。
確かに、市街地に現れただけのクマを有無も言わさず射殺するのは残虐な行為に思えるかもしれない。
しかし、市街地に下りることも躊躇わなくなったクマの獲物が、人間のつくった作物から人間の飼っている家畜。そして、下手をすればその標的が人間そのものに移行するのも時間の問題だ。麻酔銃で眠ったところを山に返せばいいじゃないかという意見もあるだろうが、しかし、一度でも人間に対する恐怖や抵抗感が薄れたクマは再び市街地に姿を現す可能性は非常に高い。もし、そうなってからでは遅いのだ。そして、クマは一般人が想像しているよりもずっと屈強な生き物だ。これは少しでも、野生の動物のことを理解している人間ならば、常識なのだが、アニメやぬいぐるみのかわいらしいイメージ……よくて、人に飼いならされたクマを檻やガラス越しから眺めたことがない都会の人間には分からない。
そして、その動物愛護団体とそれに共鳴する人々は、とんでもない行動を起こしたのだという。
クマが市街地に下りてきた原因は、冬眠前の時期に山にエサが不足していたからだと考えた彼らはドングリなどエサを、クマを始めさまざまな野生動物の宝庫というべき天塩の森にばら撒いたのだ。
そして、悲劇は起きた。
愛護団体のひとりが不用意に龍の縄張りに足を踏み入れたのだ。龍はむやみやたらに人を襲う生き物ではないが自らの縄張りを侵されたのなら別だ。しかも、不運にもその龍は子連れであった。自らの子供を守ろうと凶暴化した龍に愛護団体のひとりはあっさり殺され、そして、餌食となった。
「えっ? 龍って人を食うの?」
樹が驚く。
「ああ、普段は森になっているドングリやサルナシの実やブドウなんかを食うが、基本的には雑食性だ。ウサギやシカはもちろん、ヒグマだって食うし共食いもする。それに比べれば人間なんて、1回でも食って味を覚えてしまえば、恰好の獲物にしか映らないだろう。なにせ、ウサギに比べたら体が大きく、しかもシカやヒグマのように逃げ足も速くなくて、食べるのに邪魔な毛皮もないんだからな」
楓はなおも話を続けるのだった。
そして、その場にいる全員を食い殺した龍はそれだけでは飽きたらず、さらなる獲物を求めた。それが、そのとき北央大の観測施設で生活していたレラたち親子三人だった。
レラの父親はライフルを手に取ったが、反応するヒマもなくただの一撃で撲殺され、レラの妹を妊娠していた母親は生きたまま腹を割かれ、自らの骨肉と胎児を食べられる生き地獄を味わったのだという。
レラは運よく物影に隠れて難を逃れたものの、自らの父親の死体の横で、母親が腹を裂かれて胎児ごと食害されるという地獄絵図を、耳を塞ぐことも目を背ける事もできずに龍がその場を立ち去るまでの1時間ずっと目に焼きつけるはめになったのだという。
「父と母と生まれてくるはずだった妹。家族全員を喪ったその心の傷は11歳だったレラには重すぎた。それからだよ、レラが笑わなくなったのは……」
そう言ったきり黙りこんでしまう楓。誰も何も言葉を発することができなかった。ただ鍋がグツグツと煮える音だけが部屋に鳴り響く。
だが、そんな重苦しい沈黙を破ったのは樹だった。
「たしかにさ、あいつの過去は想像以上にヘヴィだったし同情に値するよ。でも、だからって八雲を目の敵にするのは完全に間違っているだろ。八雲があいつの両親を殺したわけじゃないし、第一、そのクソど馬鹿な動物愛護主義者と八雲とじゃ言ってることは同じでも本質的に全然違うことくらい一緒に生活していれば分かるはずだろ!」
「ああ、たしかにその通りだ、蜂須賀」
楓が頷く。
「でも、そのことでレラを責めてやらないでくれ。事件の強いストレスで拒食と失声症に陥っていたレラに生きる活力を与えるには、一般的なカウンセリングとは違う、普通じゃない方法を取るしかなかった」
「その普通じゃない方法ってなんだよ?」
「暴走した動物愛護主義者に対する憎悪を過剰なまでに植え付けて、2度と同じような事件をおこさないことが自分の生きる道だという使命感を与えるしかなかったんだ」
「それが今のあいつの性格の元凶かよ!」
「そうだ。だが、当時のあいつを救うにはそれしか方法がなかった。言い訳にしかならないが、あいつは数少ない未成年の純血のイエヌ民族。存在そのものが希少であり神秘なんだ。その血統をあんなところで失うわけには絶対にいかなかった。責任のすべてはあたしを含め、当時あいつの周りにいた大人全員にある」
「まあ、百歩譲って当時のあいつを立ち直らせるのには、その方法しかなかったっていうのは認めるよ! でもさあ、事件からもう何年も経ってるんだぜ。いつまで悲劇のヒロイン気取ってんだよ! 両親の愛に包まれた日々が全て奪われたっていうけどさ、そんなのもの永遠に続くわけがないじゃん。むしろ、そう断言できるだけの日々と楓ちゃんのように本気で心配してくれる大人が周りに大勢いただけあいつは幸せ者だよ。世の中、両親がいない子供だってゴマンといるし、親がいたとしても虐待や放置を繰り返すようなロクデナシの可能性もある。この世の中、みんな、多かれ少なかれそうやって歯ァ食いしばって生きている部分があるのに、あいつだけ世界中の不幸をすべて背負い込んでいるようなツラしてるのが、ボクは気に食わないんだよ」
吐き捨てるように言葉を叩きつけた樹は、食事の途中にもかかわらず部屋から出ていくのだった。
ただ単純に自らの意気込みをみせれば、レラに認めてもらえると思っていた。
しかし、彼女の心に残る傷は、八雲が考えていたよりも深く、大きかった。
たった三人しかいない北央大付属高校特英科。しかし、その3人の仲は崩壊寸前。
八雲はその事実に立ち尽くすのだった。