反論
数日後、八雲は学園寮の敷地の片隅の土を掘り起こし、金属のワイヤーを取り出すのだった。
そして、鼻を近づけて臭いを嗅いでみる。
〝これでいいかな〟
野生の動物は人間よりもはるかに嗅覚がすぐれている場合が多く、人間の臭いを嫌う。なので、八雲はくくり罠に使用する材料であるワイヤーの臭いを消すために、数日前からこの場所に埋めておいたのだ。
結局、いぶきとのデートで何も得られなかった八雲が考えた末の結論だ。
あの日、八雲は自らの決意を口にしてレラの反感をかった。もちろん、それに口で反論しようと思えば、いくらでもすることができるが、それでは意味がないと思った。
北央大付属高校特英科は野生動物や環境学に対するスペシャリストを養成する高校なのだ。その一員が狩猟で獲物を捕らえることができずに、いくら自然に対する熱意を語ろうが認めともらえるはずがない。
だから八雲は言葉ではなく、行動で反論してみようと思った。
前回の狩りの時は八雲だけが獲物を捕れない結果になってしまったが、今回は単独で猟をしてみようと思った。
狩猟は、大雑把に分類して散弾銃やエアライフルやライフルなどを使用する猟と網やワイヤーなどを使用する罠猟に分けられるが、今回、八雲が選んだのは罠猟だ。八雲には、楓の銃やレラの弓などの道具を使いこなすスキル、そして樹のような野生の獣に匹敵するレベルの身体能力が存在しないので、ベストだと思ったからだ(もちろん罠猟も獲物の痕跡を見逃さない観察眼や獲物の行動を推測しなければならない知識と勘が必要で簡単なわけではないのだが)
さらに罠にも大型の箱に獲物をおびき寄せる箱罠とワイヤーなどを利用するくくり罠に分けられる。今回、八雲が制作する罠はフックトリガー式という昔からよく使用されてきたオーソドックスなくくり罠だ。獲物が罠に近づき蹴り糸をはじくと、地面に円状に置いてあるワイヤーが締め付けられて獲物の脚を縛り上げるというものだ。
八雲はさっそくその日のうちに地中に埋めておいたワイヤーを使用してくくり罠を三つほど作成する。そして、それを寮の裏の山林を練り歩いて地形を吟味して、適当な位置に設置する(慣れないのでひとつの罠を設置するのに1時間近くかかったが)。
だが、最初は寮に帰って次の日に罠の様子を見に行こうと考えていた八雲だったが、設置した罠の様子が気になり、結局、楓の許可を取って山中で夜を明かすことにした。
もちろん、八雲がいたところで罠に獲物がかかりやすくなるわけではない。それどころか、下手に人間の気配をさせてしまったら、獲物が逃げてしまうだろう。
だが、八雲はおとなしく寮のベッドで寝てるなんてことができなかった。
まるでクリスマスイヴの夜に、靴下の中を何度も確認する子供のように胸を高鳴らせていたのだった。
イエヌに来て2週間ほど経つが、日に増して暖かくなってきた。
夜の深い静寂の中、星は松明のように大きな輝きを見せていた。
八雲は木の上に登って、その名もなき夜空を見上げている。罠猟にしろ銃を使った猟にしろとにかく野生動物を相手にする場合は人間の気配を悟られていけない。八雲は自らの意識を、木や草や星空と一体化させて、ただひたすら獲物が罠にかかるのを待つのだった。
暗闇の中、何もせずに自然と意識を同化させると時間の感覚がどんどん麻痺していく。
どれくらいの時間が経っただろうか。
なにか予感めいたものを感じた八雲は木の上から降りて、罠の様子を確認する。
ひとつめの罠を確認するが、何もかかっていなかった。
ふたつめの罠を同じく何もかかっていなかった。
諦めかけた時、なんとみっつめの罠には獲物がかかっていた。
八雲ははやる気持ちを抑えながら、罠にかかった獲物を確認する。
ブタのような姿形だが、イノシシのような褐色の毛並み。くくり罠に右前脚の自由を奪われた獲物は、激しく脚を振り回して必死になってワイヤーを引きちぎろうとしている。その鼻息は八雲の身体を吹き飛ばしてしまいそうに荒々しいのだった。
〝イエヌイノブタだ〟
寒冷地であるイエヌには本州以南の土地のように野生のイノシシは存在しない。脚が短く積雪に弱いイノシシでは、厳しいイエヌの冬が越せないからだ。しかし、今から数十年前に食用としてイノシシとブタを交配させていた牧場からイノブタが逃げ出し野生化、厳しいイエヌの冬に適応できるように脚が長く進化したのが、このイエヌイノブタである。
その肉は、一般的なブタよりも野趣に溢れ、野生のイノシシよりも脂が繊細で獣臭くないのだという。
さて、獲物を罠で捕まえたといっても、それで終わりではない。むしろここからが本番。最後のトドメを刺さなければならない。
いくら自由が奪われているとはいえ、相手は野生の獣なのだ。しかも、相手だってこの罠から逃げ出さなければ自らの命がない事くらいは理解している。だから文字通り必死になって抵抗してくる。
これが銃でも持っていれば、弾丸を1発ぶち込めばそれで事足りるのだが、高校生の八雲ではそうはいかない。処理の仕方を間違えれば、大怪我は免れないのだ。
〝よし、やるか〟
この日、八雲がトドメ刺し用に用意した道具は、棒の先にナイフをくくりつけて固定した手製の槍だ。
トドメは迅速かつ丁寧に。けして無用な苦痛を長引かせてはならない。それが獲物に対する礼儀である。万が一、トドメに手間取ったら、最悪、獲物は脚を引きちぎって致命傷を負ったまま罠から逃げ出してしまう。もし、そうなったらそれはお互いにとって最も不幸な結末だ。
魂も吸い取られてしまいそうな真っ暗闇の森の中で、八雲の持つ槍の穂先が何度も白く煌めく。
手応えとしては致命傷を与えたつもりだった。しかし、イエヌイノブタはなかなか倒れない。そう、生きている限り何としてでも生き抜こうとするのが生き物の本能だ。そして、その命を奪う重みを八雲は改めて実感する。イエヌイノブタは激しく抵抗して、最後まで八雲の身体めがけて体当たりするように暴れまわる。
やがてイエヌイノブタは、ガラスをこすったような甲高い断末魔を短くあげて前足を屈ませる。そして、そのまま横に倒れるのだった。瞳からは急速に生の色が失われて、灰色に濁っていく。
八雲が初めて味わう命が朽ち果てる瞬間の心のうごめき、それは感動とも哀しみとも微妙に違う言葉にできない達成感と獲物に対する感謝の感情だった。
八雲はイエヌイノブタを背負い、寮までの道のりを歩く。そして、寮内に存在する解体場に運ぶのだった。日本広しとはいえ、野生動物の解体処理施設がある学生寮などここくらいのものだろう。
八雲はホースで水をかけて泥を落とす。そして、次にお湯をかけて体毛を抜いていくのだった。
それが終わると、台に固定していよいよ腹を割いて本格的な解体作業に入る。一般的にイノブタはイノシシよりも体が小さいものだが、このイエヌではベルクマンの法則に従い本州のイノシシ並みの大きさがある。楓のシカの解体作業は間近で見学していた八雲も、これほどの大型獣の解体作業は単独では初めておこなう。
〝見るのとやるとのとでは全然違うな〟
〝先生やレラなんかは、簡単に解体しているように見えたのに……〟
一応、本などを読んでイノシシの解体手順は頭に入れていたものの、やはり実戦経験の悲しさ。思いのほか悪戦苦闘するのだった。
「おお、なんだ。もう獲物が捕れたのか?」
「あっ、先生」
解体場の照明がついているので気がついたのだろう。楓が様子を見に来てくれたのだ。
「ほう。イエヌイノブタか」
「ええ。思いのほか獲物が早く捕れたんで、もう今日のうちにやっておこうと思いまして」
割いた腹から胸骨と恥骨を切り離す作業をしながら、返答する八雲。
その姿を見て楓は「手伝おうか?」と声をかけてきたが、八雲は自分ひとりの力でやりたかったので、その申し出を断った。
「そうか」
その返答を聞いた楓は満足げに微笑むのだった。
「それだったら、これを使え」
楓が手渡してくれたツールナイフだった。ツールナイフといっても市販のツールナイフとは違う。楓が狩猟で捕った獲物を解体する時のために特注で作らせたツールナイフである。柄の中には無数の刃が仕込まれており、大きなノコギリ刃は大型獣の骨でも切ることが可能。薄い刃はバネのように柔軟で複雑な部分でも刃先が滑り込むように出来ていて、さらに小さく鋭い刃は懐石料理のような飾り盛りをすることだって可能な、まさに万能という表現がぴったりな優れものなのだ。
「ありがとうございます」
楓から手渡された特製のツールナイフ使うと、今までとは比べものにならないくらい作業効率があがり、八雲は驚く。だが、いくら道具が優れていようとも、八雲の経験と知識不足が補えるわけではない。
相変わらずイエヌイノブタの解体作業に悪戦苦闘する八雲。
楓は八雲の願いを受け入れ手伝ってはくれなかった。しかし、いつでも助言できるように、八雲が解体作業をしている様子をずっと見守り続けてくれた。
八雲が全ての作業を終えた時には、西の空から最後の月影と星明りが消え失せ、空が緋色を増していった時間帯になっていた。