街へ⑦
そして、樹が盗み聞きしたとおり、いぶきと八雲のふたりはショッピングモール内のフードコートの前を通ろうとした時だった。
だが、突然、耳を突き刺すような鋭い怒声が響き渡る。何事かと思ったいぶきは声がしたほうを振り向くと、そこには1組の親子の姿があった。
子供は幼稚園に通っているかどうかくらいの年齢でその小さな頬をめいいっぱい涙で濡らしている。いっぽうの父親も、まだ子供が幼児なだけあってそれほど年齢はいっていないだろう、おそらく20代中盤くらいで、スウェット姿で色のまだらな茶髪とあごひげを蓄えている。そして、激しく口角に泡を飛ばして子供が怒鳴りつけているその姿は、お世辞でも「上品ですね」とは言えないようない風貌と立ち振る舞いだ。この日は休日ということもあって、いぶきたちだけではなく、フードコートで食事をしていた他のお客もこの親子に視線を注いでいる。
おそらく、最初は些細なことが原因だったのだろうが、子供は父親の度を越した怒声のせいで余計に泣き叫び、親のほうも完全に子供の泣き声が引き金になってアドレナリンを放出して怒声を放つという悪循環に陥っている。このままでは、父親が怒りに任せて子供に暴力をふるうのは時間の問題にも思える。
たしかに、子供の教育には時には激しく叱って物事の善悪を教え込まなければならないときだってあるし、教育方針だって家庭の数だけ個性があるといってもいいだろう。
しかし、この父親の怒声は相手の行動を正しい方向に導く教育ではなく、ただ自らの怒りを子供にぶつけているだけにしかみえず、第3者の立場から言わせてもらえば、けして見ていて気分がいいものではなかった。このフードコート内にいる他の客もいぶきと同じ思いなのだろう。皆、その光景を怪訝な顔つきで眺めている。だが、いぶきもそうだが、誰ひとりその父親に注意する者はいない。たとえ、見ていて気分がいいものではなくても、好き好んで火中の栗を拾って、あの父親の怒りの矛先が自分に向かうようなマネは誰だってしたくないのだ。
やがて、父親はいぶきの予想通り、子供に手をあげる。その小さな桜色の頬が赤く腫れ上がる。そして次の瞬間、火が出る勢いで泣きじゃくる子供。(自らの愚行が招いた事態にもかかわらず)その反応が気に食わないのか、よりいっそう激しく子供を怒鳴りつける父親。
いたたまれなくなったいぶきは、「もう行こう、八雲さん……」と言いかけるが、そこには八雲の姿がなかった。
なんと、八雲はあの父親のもとに歩み寄っていた。
そして、八雲は未だに子供を怒鳴りつけている父親に激しい口調で何かを言う。だが、父親は自分よりも年下の八雲に注意されたのが、よほど頭にきたのだろう。胸倉を掴んで、八雲を威嚇する。
〝八雲さん……!〟
八雲の身の危険を案じるいぶき。しかし、それは杞憂に終わる。
胸倉を掴んで威嚇していた父親が暴力による手段に訴えるよりも早く、八雲の右ストレートが父親の顔面を打ち抜くのだった。
父親は見るからに血の気の多いタイプ。そこから殴り合いの喧嘩になるといぶきは思ったが、その予測ははずれる。
殴られたものの、後方には吹っ飛ばずにその場で膝から崩れ落ちた父親は立ち上がることはなかった。あまりに八雲のパンチのキレが鋭すぎたために、1発で意識を失ったのだ。
自らの行動か、それとも目の前に広がる光景が信じられないのか、その場で呆然と立ちすくむ八雲。
そして、目の前の光景が信じられないのはいぶきも同じだったが、我に返るのはいぶきのほうが早かった。
「はやく逃げよう! 八雲さん!」
この騒ぎを聞きつけた人間が警備員を呼んでいるに違いない。そして、そうなったら、いくらこの場にいる人間の心情が八雲の味方をしているとはいえ、暴力事件を起こした張本人としてよくて停学、下手したら退学処分の可能性だってありえる。
「ほら、八雲さん早く!」
「いや、でも……」
「なに言ってるのよ! 八雲さんはあんなクズ親を殴るためにイエヌに来たんじゃないでしょ? だったら早くこの逃げようよ!」
とにかく、今いぶきに出来ることは呆けている八雲をつれて、一刻も早くこの場を離れることだ。そう決めたいぶきは八雲の手をひっぱり、建物の外につれていくのだった。
燃えるような赤い夕焼けが、西の空と留萌の街を鮮やかな色彩に染め上げていく。
空の色と周囲の色調が刻一刻と変化していく時間帯。
八雲といぶきは二人が初めて出会った公園のベンチで腰かけていた。
「ごめん……」
うなだれた八雲は先程からしきりに謝罪の言葉をくりかえす。
「今日はせっかく俺にレラが怒っている原因は教えてくれようとしていたのに……。暴力なんて、されるのはもちろん、見ているほうも気分がいいもんじゃないよね。今日は本当にいろいろ台無しにしちゃって、本当にごめん」
「そんな……謝らなくていいよ。八雲さん!」
今日の自らの行動に負い目を感じている八雲を責めるよりも、励ましたいと思ったいぶきは、八雲の言葉に激しくかぶりを振る。
「わたしだって正直、あの父親の態度にはムカついてたもん。ううん。わたしだけじゃない。きっと、あの場所にいる全員が心情的には八雲さんの味方だったはずだよ。でも、まさかわたしは八雲さんがいきなりくってかかるなんて思ってもみなかったな」
そういぶきが驚いたのは、まさにそこだった。
これまでのいぶきが抱いていた八雲の印象は、常に相手を気遣うことができるやさしさがありながらも、シャイで押しの弱い性格。他人を殴るどころか言い争いをすることすら躊躇うような人間だと思っていたからだ。
「よっぽどあの父親、八雲さんに失礼なことを言ったんだね」
「違うんだ……」
八雲は明確に否定にする。
「あの父親は俺に対して暴言を吐いたわけじゃない。注意した俺の胸倉を掴んで『人んちのしつけに口をだすんじゃねえぞガキが!』って。だから、俺も反論したんだ『あんたのはしつけじゃない! ただ自分では処理できない怒りを子供にぶつけているだけだ! 子供がかわいくないのか』って。そしたら、あの父親はこう吐き捨てたんだ『うるせえ! こんなガキ、欲しくて生んだわけじゃねえ! 育ててるだけありがたく思え』って。あとはもう気がついたらあの男を殴ってた……」
いぶきはただ黙って八雲の説明を聞き入っていた。たしかにあの父親は暴言はたしかにひどいが、それでも想像を絶するというほどではない。むしろ、公共の場で子供を殴るような男だったら、それくらいの事は言うだろうと想定の範囲内だった。
あのおとなしい八雲が激高するほどの暴言とは、いぶきは思えなかったのだ。
そんないぶきの内心の戸惑いを感じ取ったのだろう。
八雲は自らの胸の内を吐露し始めるのだった。
「この龍の牙で作られたペンダントは父さんの形見なんだ。
俺は高校に入るまでは東京の施設で暮らしていたけど、2歳から10歳の時まではイエヌで父さんと暮らしてたんだ。父さんは強く、やさしくて、いつでも俺のことを第一に考えてくれた。狩りもうまくてシカやウサギなんかも俺のために取ってきてくれて、自分よりも俺にいつも先に食べさしてくれた。血は繋がっていないんだけど、俺も父さんのことが大好きで、冬の寒い日でも寄り添って眠るだけで寒くはなかったし、ただ傍にいてくれるだけで幸せだった。そして、最後は実の息子ではない俺のために自ら犠牲になって、守ってくれた……。
だから、許せないんだ。父さんと過ごした日々が遠い記憶になっても……いいや、年月が経てば経つほどに、他のことは我慢できても、ああいう息子を蔑ろにするような父親を見ると、瞬間的に怒りがこみ上げてきて、今でも我を忘れちゃうんだよ。今日は本当にごめん……」
それっきり八雲はうつむいて、黙り込んでしまう。
重苦しい沈黙が場を支配する。
だが、その沈黙を破ったのはいぶきだった。
「だから、そんな謝らなくていいよ、八雲さん。さっき言ったけど、八雲さんがあの男を殴ってわたしもスカッとしたもん。やっぱり男はいざという時に大切な人を守れるくらいの腕っぷしあったほうが頼もしいよ」
だが、そんな慰めでは自己嫌悪が晴れないのか、八雲は沈鬱な表情でうつむいたままだ。そんな八雲を見かねて、いぶきはさらに言葉を続ける。
「それに、八雲さんはさっきからずっと謝っているけど、わたしは普通のデートよりも今日のほうが楽しかったよ。だって普通に遊んでいたらずっと分からなかった八雲さんの本質を知ることできたんだもん。今日は本当にありがとうね」
そう言って、いぶきは八雲の頬の自らのくちびるを軽く押しあてる。
まるで背筋に冷水をかけられたように目を白黒させて体を跳ね上げる八雲。
「元気出た?
今日はわたしの茶番につきあってありがとうね。八雲さんとデートできて本当に楽しかったよ。あっ、そうだ。わたし、八雲さんたちが行った天塩の狩場に、今度お兄ちゃんと一緒にいくんだ。その時に取ったジビエを八雲さんに食べさせてあげるから、またお店に来てね」
いぶきは夕暮れの公園を歩いて立ち去っていくのだった。
ひとり取り残される八雲。
そして、心の中で八雲は呟くのだった。
〝デート? 茶番? 今日は俺にレラが怒っている理由を教えてくれるんじゃなかったの?〟
〝俺、やっぱり女の子が何を考えているのか分からないよ……〟
結局、レラとの仲を改善する解決の糸口をみつけられないまま、八雲は公園のベンチで肩を落とすのだった。