純血のイエヌ少女④
冬の低い太陽が、東の空へと完全に消え失せ、天塩の山林に水のように潤んだ青い夜がやってくる。都会の盛り場ならばこれから活気づいてくる時間帯なのだが、人里離れたこの場所では夜の闇の中で荒れ狂う風の音だけが辺りを包んでいた。
そんな青白い夜空の下、空の欠けた星の月光以外に唯一光を放っているのが、八雲たちが泊まっている狩り小屋だ。
プレハブ小屋に防寒仕様を施しただけの簡易なつくりだが、寒風吹きすさぶ外の寒さとは対照的に、小屋の中は人と火の暖に満ち溢れているのだった。
だが、そんな中、八雲だけは暗い顔をして沈み込み、部屋の片隅で体育座りをしているのだった。ちなみに、この小屋は、楓がかつて所属していた北央大学の狩猟サークルが狩猟期に利用している施設で、狩猟期以外では同じく北央大学の野生動物の研究者が活動拠点にしているのだという。
結局、八雲は楓が指定した時刻まで獲物を取れなかったのだった。
しかも、まったく獲物が取れなかったのは八雲だけで、後は楓もレラも樹もエゾシカなりウサギなどのハントに成功している。
なかばこうなることは覚悟の上だったが、やはり現実にこうやって結果を突き付けられるショックなのは、事実だった。
「あ~、うまかった!」
樹が満足そうに腹部をさすり、舌鼓を打つ。
ちなみにこの日の夕食のメインデッシュは、楓が仕留めてきたエゾシカの背ロースを、この小屋に置いてあるクッキングストーブでグリルしたものだ。
「しかし、エゾシカってうまいな~。じいちゃんが取ってきてくれた本州のシカやイノシシなんかもっと臭かったぞ」
「ああ、それはエゾシカと本州のシカの違いというよりは処理の仕方に問題があったんだろ。あと、あたしはオマエの教師だ。敬語を使え」
樹の言葉に、楓がそう答える。
「そうなのか? でも、じいちゃんだって一応は血抜きくらいしてたぞ」
「いや、シカ肉の臭みの原因は死後の細菌感染による腐敗であって、血そのものが臭いわけではない。それよりも、細菌感染しないように一刻も早く殺めた獲物を雪や川の水で冷却することのほうが大事なんだ。あと、あたしはオマエの教師だ。敬語を使え」
「ほえ~、そうなのか楓ちゃん」
「ああ、あと聞いたところ、オマエのじいさんは獣を仕留めることに関して腕は立つが、調理に関してはあまり頓着しないタイプなんだろう。あと、あたしはオマエの教師だ。敬語を使え、楓ちゃんと言うな」
「そーそー、そうなんだよ楓ちゃん。ボクのじいちゃんはさあ、食事をただの栄養補給としか考えていないタイプの典型でさ~。そのせいで、子供の頃のボクがどんなにひもじい思いをしてきたっことか……」
「まあオマエに限らず、とくに年配の人間は野生の獣肉は臭みが強いって勘違いしている人間は多い。でも、その原因はきちんとした下処理をしていない獣肉を食ったことがほとんどだ。
あと、これは狩猟の盛んな地域でよく聞く話だが、自分たちが食べないような質の悪い獣肉を知り合いや近所の人間にタダでやってしまう猟師も少なからず存在している。そんな肉を食って猟師の取る獣肉はまずいなんて勘違いしてしまっている人間も多い。まあ、どっちにしろ、その責任の大半は猟師にあるんだがな。あと、あたしはオマエの教師だ。敬語を使え。楓ちゃんと言うな」
シカ肉はジビエの最高峰のひとつであり、サバンナの肉食獣も積極的にシカ科の動物を追い求める──。その事実が示す通り。楓が仕留めて調理したシカのローストは、八雲も食べさせてもらって確かに絶品だった。しかし、それは自分が仕留めた獲物ではなく、あくまでお情けでもらったものだ。
その事実が八雲もよりいっそう惨めな気分にさせるのだった。
「なんだ、栗橋はまだ落ち込んでいるのか」
そんな八雲を見かねてか、楓が声をかけるのだった。
ちなみに、小屋の外は痛いほどに鋭い冷気が絶え間なく吹きつけているような状況にもかかわらず、上衣はタンクトップ1枚だけというラフな格好だが、これには意味がある。楓が言うには小屋であれ野宿であれ冬の雪山で眠るときは厚着でいると却って危険だというのだ。なぜかというと、薄着だと寝ている最中に暖を取るための火の勢いが衰えてしまってもすぐに気がつくことができるが、逆に厚着だと気がついた時には手遅れになってしまっているのだという。今日は、大人数ということもありこの小屋で寝泊まりしているが、楓がひとりで猟をする場合は、地面の窪みにトドマツを切り倒し、窪みとトドマツの間にできた空間を寝床にする時もあるのだという。火を起こす道具とナイフさえあれば、日本中のどんな場所でも生きていけると自ら語っているように本当にワイルドな女性だ。
「まあ、必死になって獲物を取って来いってハッパをかけたが、今日が初めての狩猟ならこんなもんだろ。むしろ、あたしやレラのように銃も罠も弓を使わずに野生動物を仕留められる蜂須賀の狩猟能力と身体能力が異常すぎる」
「はあ……」
「──というか、オマエ、ガキの頃はイエヌの山奥に住んでいたのに、狩りはやったことはなかったんだな。あたしも初めて知ったよ。でも、ジビエを食うのは初めてじゃないだろ?」
「父さんはよくシカやクマを取ってきて、俺に食わしてくれましたけど、俺自身は狩りなんて生まれてこのかたやったことはないですよ」
「ん? じゃあ、オマエ、まだ『クライドリ』もしたことなかったのか?」
「ク、クライドリ?」
聴き慣れない単語を耳にして、呆けた表情をみせる八雲。その隣で樹が話に割り込んでくるのだった。
「ねー楓ちゃん、クライドリってなんなんさ?」
「クライドリっていうのは、まあ、男が山に入る前におこなう儀式のようなものだな。そうーか、栗橋はクライドリもやってなかったのか。そりゃあ、獲物も取れなくて当然だな」
「クライドリって変な言葉だな。イエヌ語か?」
「いや、正確にはマタギが狩りをする時に使う山言葉ってやつだ。まあ、山言葉自体イエヌ語の影響が強いからイエヌ語といっても間違いじゃないけどな」
「ふーん。それじゃあ、今回、八雲だけ獲物が取れなかったのは、そのクライドリってやつをしてなかったからなのか」
「まあ、そういうことだな。おい栗橋、今からでもクライドリやっておくか?」
楓が八雲に尋ねる。
「え、ええ……」
クライドリというものが一体どんなものなのかはよく分からないが、それでも狩猟に関しては自分のチカラだけではどうにもならなかったのは事実。八雲は藁にもすがる気持ちで了解するのだった。
「おーし、それじゃあいっちょやったるか」
30年前の不良が今から喧嘩に臨むときのように指の関節を勢いよく鳴らす楓。
その楓に腕を掴まれると、八雲の身体はオセロの駒のように簡単にひっくり返させられるのだった。
そのまま、仰向けになった八雲の上に馬乗りになる楓。
「ちょっ……なにやってるんですか?」
驚き、目を丸くしながら声を裏返させる八雲。しかし、楓は躊躇なくその指先を八雲のベルトに這わすのだった。
「やめてくださいって、先生」
しかし、そんな抗議も虚しく、ついに八雲は一糸も纏わぬ丸裸にされるのだった。慌てて立ち上がろうとするが、楓がそれを許さない。座った体勢になった八雲を後ろから羽交い絞めにする。そして、次の瞬間、八雲は小屋の外に放り出された。素っ裸のままで、しかも直前に冷水をぶっかけられて。
それまで小屋の中の暖気に慣れきっていた肌に、外の刺すような冷気は厳しすぎる。八雲は歯の根が合わぬほど震えあがり、折檻を受けた子供のように小屋の扉をガンガンと叩く。
「先生、開けてくださいよ! 先生!」
しかし、扉は中から鍵をかけられているようで微動だにしない。
そして、そのあいだにも外を出る直前にぶっかけられた水が急速に冷えていき、みるみるうちに八雲の体温を奪っていくのだった。もうこうなると、寒いだとか痛いなどという感情も吹き飛んでしまう。水と冷気が八雲の意識を根こそぎ刈り取ってしまう凶器だった。
わずか数分のうちに八雲の意識は薄れていき、死の危険すらも感じるほど朦朧とする。
〝ああ、だめだ……〟
ドアを叩く力が次第に弱まり、その場で自らの肩を抱きながら座り込む八雲。
「おう、もうそろそろだな」
そこでようやく小屋の扉が開いて、楓が八雲も室内へと運び込む。八雲は急いで、なかば氷と化している冷水をタオルで吹き、トランクス一枚だけを穿いてシカ肉を焼くのにも使用したクッキングストーブで背中を暖める。
ちなみに、身体が冷えた場合は正面ではなく背中を暖めたほうが暖を取れる。これはイエヌの猟師もやっている方法である。
「なーなー、楓ちゃん、八雲をフルチンで外に凍死寸前まで放り出すのが『クライドリ』ってやつなのか? 変わった風習だな」
横で樹が楓に質問する。
「ああ、イエヌでは森の神様は女、しかもかなりの好色の醜女と言われている。だから栗橋のように若くて整った顔だちの男を水で清めて捧げてやると、大いに喜んで、次の日から獲物をたくさん授けてくれるっていう寸法さ」
「言っちゃ悪いが非科学的だな」
「まあ狩猟っていうのは、大自然の中、しかも野生動物を相手にしなければならない作業だから、どうしても人智を超えた運・不運によって成果が変わってくる。そんな狩猟を生業とするマタギが信仰深くなるのは必然さ。
さっきも説明したがクライドリっていうのは山言葉といって、猟をするために山に入ったら、普段使っている里言葉ではなく山言葉を使わなければならいなんて言われているくらいだから」
「ふーん。でも、さっきから楓ちゃん山言葉なんて使っていないじゃん」
「まあ、あたしは狩猟の携帯食にカップラーメンを食うような平成生まれの現代っ子だからな。そのへんの信仰心はだいぶ薄いよ」
和気あいあいとマタギに関する風習について授業する楓と樹。
ストーブの火に当たりながら、その光景を八雲は恨めしそうな目でみつめるのだった。