第一章 永劫回帰(ウロボロス)/epilogue
「いらっしゃい」
拭いていた眼鏡を急いで掛け、訪問者へ向き直った。
また鍵を掛け忘れていたようだ。気をつけなければ。
「お邪魔するわ」
「羽羅。俺は構わないけど、インターフォンを押してからノブを開けるんだ。そうじゃないと失礼だろう?」
「別に。こんなことをするのは諾相手だけよ」
「それはそれで……なんだな」
羽羅は俺の前では素になる。いや、俺と千姫さんの前では。
それは気を許しているとも取れるし、ただ俺達の前では猫を被る必要が無いとも取れるし。どちらが羽羅の真意かは分からない。……まぁ、俺は後者な気がしてならないが。
「今日は料理する気、起きないわ」
「分かった。それじゃカップラーメンでも食べよう」
「醤油ね」
「分かった」
家主である俺に客であるは実に豪そうに命じる。いつもの事なので、特には気にしないが。
台所下の収納スペースにあるラスト一つの醤油を手に取る。俺は豚骨にした。
羽羅は味に結構拘る。
それも仕方ないと思う。何せ家では超高級日本料理店のフルコースのような食事が毎回出るのだ。舌が肥えない筈がない。小さな定食屋に言った際、声を潜める事もせずに「不味い」と言い放った時は流石に気まずかった。コンビニ弁当など食えたものじゃないと言われたこともある。
けれどカップラーメンは許容範囲内。
どうも羽羅にとっては本物のラーメンとカップラーメンは別の物となっているらしい。ファーストフードの感覚とも言っていた。
焼きそばとカップ焼きそばの差みたいなものかと俺は勝手に解釈している。だってあれ、焼いてないで茹でてるし。
「はい。三分のお待ちを」
胡坐をかいて座る羽羅の前に湯気が立っている物を置く。
「ありがとう」
「――――」
「――――」
――無言。特に何を話す訳でもなく、ただ二人で呆ける。
テレビも音楽も掛けていないので、殆ど無音だ。風が窓を揺らす音だけが微かに聞こえる。
どのくらいそうしていただろう。そろそろ食事が出来上がるかという頃合いに、
「……ねぇ諾。諾にとって嫌なことって、何?」
唐突に投げかけてきた。
妙な問いかけに首を捻る。
が、あの事件に関することだということに思考が至った。
「……そうだな。羽羅がいなくなっちゃう事かな」
「な――」
よほど驚いたのか、目を開いてそのまま固まってしまう羽羅。
「おーい、大丈夫か」
顔を覗くように近づけ、手を振る。
「何で、貴方はそういうことを言うのかしらね」
「? そういうことって?」
俺の問いかけに答えるなどせず、さっさとカップラーメンに手を伸ばしていく。
蓋を開けた後に入れる液体状のスープの袋を持ち、切り口を破こうとするが、
「あ――」
袋は手から滑り落ち、テーブルの上にべた、という音を立て落下した。
開けられた口から、黒色のドロドロとした液体が流れて来る。
「あ〜、ちょっと待って」
直ぐ様立ち上がり、台所へ行く。
蛇口の横に掛けてある布巾群の内、一つの白いハンカチサイズの物を取り、水で濡らして直ぐ絞る。
大体水が出なくなった辺りで、ちょっと駆け足気味にテーブルへ帰還した。
「ほら、これで手、拭いて。それでテーブルを」
「解ってるわよ! 子供じゃあるまいし……」
奪い取るように布巾を取ると、俺が言ったことと同じ動作をした。
はいはい、と言いながら座ると羽羅は何やら眉を顰めていた。
「……ね、羽羅にとって一番嫌なことって何さ?」
吹き終わった頃合いを見て、気になったことを投げかけてみた。
他意はない。ただ純粋に疑問に思っただけだ。
「……そうね」
そう繋げ、俺から目を逸らして、
「――終わってしまうことよ」
何が、と主語は付けず羽羅は表情を俺から隠して言った。