第一章 永劫回帰(ウロボロス)/4
直径の違う二つの円が大きな円に小さな円が入るように描かれ、その囲まれたスペースにローマ字ににた魔術文字を書かれている。
ルーン、と呟くと紙を取り上げ更に見つめた。
小さな円のその真ん中には太い輪が書かれている。その輪は只の輪ではなく、所々に大小様々な瘤があるように見えた。
「――真ん中の絵が不可解だな」
と千姫は口に手を当てながら呟いた。
「召喚? 召喚と言うと、あの天使とか悪魔とかを呼ぶ、あれ?」
「ああ、大体そう。よく地面に模様を描いて天に仰ぐようなイメージのあれだよ。実際はあんな風にするとは限らないが。それに君達が想像するような悪魔は召喚しない。羽羅、お前が想像した悪魔って言うのは、ベヘモスとかベルゼブブやメフィストフェレスのような悪魔だろう?」
「……まあ、そうね。悪魔と言われて思いつくのはそのぐらい。強いて挙げれば夜叉とか」
「あれはどちらかというと鬼だ」
鬼と悪魔は違うのね、と羽羅は呟く。
「まぁな。――それで召喚に関してだが、基本的にその認識は間違いなんだよ。一般的には、人間には悪魔は喚び出せない。人間の許容範囲を超えてるからね」
「千姫も出来ないの?」
興味本位で訪ねてみる。
「そうだな、私が喚んだら――永遠に昏睡するかも知れないな。
――とにかく、悪魔って言うのはね、よく堕ちた天使と言われてるけど魔術的には少し違う。ただ逆位置にいるだけ。もちろん、天使から逆位置に成った悪魔もいる。それにサタンと呼ばれる悪魔たちはね、所謂世間一般に言われてる“神”と同等。魔術師で言う、神と言うと創造主になってしまうからね。そうなると少し違ってくる。
……済まない、話が逸れた。だから悪魔は決して下等な存在ではない。天使とは表と裏ということだけ。上を見れば下が下になって、下を見れば下は上になって上は下になるでしょ。そんな感じ」
使い魔という存在が弱い悪魔もいるんだけど、と付け足した。
「……よく分からないわ」
すると笑いながら、
「いきなり言われても理解はできないな。まあだから、召喚の類でも天使や悪魔ってことはない。事件の当事者は魔術師としてはずぶの素人。もはや存在すら知らん
だろう。それに魔力が高いわけでもない。なら自ずと魔術は絞られてくる。……それでも何十とあるがね」
現象だったら厄介だ、とぼやきながら煙草を咥える。
「……これは何処で手に入れた?」
「学園よ。この絵を使った遊びが学園で流行ってるからどうにかしてくれって言われたのよ」
「――遊び? どんなだ?」
「血で手の平に描いて教会で祈る……だったと思うわ」
羽羅の言葉を聞いた途端また煙草がバランスを崩し、今度は落ちてしまった。
火のついたまま落ちた煙草も気にせず、千姫は嗤いを噛み殺した笑みを浮かべる。
「……ああ、ああ、成程ね。そういうこと」
千姫の目に怪しい黒さが宿ってくる。
それは彼女の中で魔術に関わる際にスイッチが切り替わる為だ。
「目星がついた。少しこの円について調べる。なんだったら羽羅は帰ってもいいぞ?」
「私は此処に居るわ。どうせ帰りたくもないし」
羽羅はソファーから緩慢な動作で立ち上がる。向きを変えた先は千姫の私室だった。
その羽羅が歩き進む先を見て、千姫はまた別の種類の笑みを浮かべる。
生暖かい笑みで羽羅を見ていると、羽羅はノブに手を掛けたまま首だけ振り返って言葉を投げかけた。
「千姫。私はその口調の方が貴女に合っていると思うわ。あの丁寧な対応は気持ち悪い」
意表を突かれ、煙草を加えていたならまた落ちるくらい驚いたように口を開いた。
無作法に音を立てて扉を閉めるのを見届けて、
「それじゃ依頼主が怖がってしまうわ」
苦笑いを浮かべながら言った。
▼
諾はベッドで横たわり、安らかな寝息を立てていた。
眼鏡は外され近くの机に置かれている。
――“幻視の眼”
諾が持つその双眸は末恐ろしい瞳だ。
元来、生物が持つ目という感覚器官は光の反射を捉え、網膜に映ったそれを視覚情報として脳が処理し、記憶しイメージとして得るものだ。
しかし彼の瞳人は光に頼らない。
その時点で異質と言える。
医学用語にも『幻視』という症状があるが、これは実在しないモノを見てしまうことを指している。つまりは幻覚、幻、ただ脳内で構成された虚像の産物に過ぎない。
だが諾は違う。
実在するが見えないモノを視てしまう。
つまりは、諾は人間を超越しているということになる。彼の家の血筋に何か呪があるわけではないが、何故か彼はこの世に生誕したその瞬間から眼を持っていた。
幻視の眼は、俗に言う幽霊を視る霊感視とはまた異なる。
霊感視はいわば生物の残留思念を視覚する眼だ。しかし幻視の眼はそれに限定しない。
眼の前に在る魔力、霊力的な流れ別け隔てなく視てしまう。
それがどれだけ恐ろしい事か。
彼の眼には意図せずありとあらゆるものが入り込んでくるのだ。
恐怖とか、妬みとか、そう言った人間の負の感情でさえ視覚化し、認識してしまう。
実際、諾がこの年まで生きてこれたのは奇跡の行跡に等しい。
なればこそ、諾は千姫の言う通り眼を持つに相応しい身体だということか。
「――――」
知らず、奥歯を噛み締めていた。
目の前では脳を掻き乱され昏睡に陥っている諾がいる。
それは識っている光景。過去に見た光景。
それは嫌怨する恨事な過去。
私はこうなるのが堪らなく厭だと言うのに――
視えぬ何かへ殺意を抱きながら、羽羅は部屋を後にした。
――
「それにしても、魔術師っていうのは誰でも為れるものなのね」
皮肉を込めた嫌味に千姫は不満げな声を上げて本から目を離した。
「羽羅、お前は魔術を誤解している――お前なら理解していると思ったんだが」
そう言いながら啣えた煙草を灰皿に押し付け火を消した。
休憩がてらということなのだろう。千姫は説明を好むから丁度良い気分転換のようだ。
「いいか、魔術は学門だ。だから学べば誰でも為れる」
ちなみに魔術の表記はMagicではなくMagickだ、と付け足す。
「だけど『魔力』なんて得体の知れないもの扱うのでしょう?」
「まあな。だがそれは便宜上の呼び名に過ぎない。『気力』でも良いし『精神力』でも『生命力』でも、極論『存在感』でも良いさ。
何だって良い。とにかく『世界』というものに語りかける力を指す。そしてそれが魔術には必要になってくる。魔力を持っていない生物など存在しない。極限まで無いに等しくとも、無い訳じゃない。無ければこの世に存在していないことになる。
――魔術とは『世界』に語りかける学門だ。ここで言う『世界』とは文字通り世界だ。森羅万象、異次元、時空の異なる総ての『モノ』を指す。言わば絶対的な『創造主』だな。魔術師は術を行使するために世界に魔を籠め語りかけ、世界に返答を求める。その語りかけは様々な形で行われる。言葉だったり身振りだったり、文字だったり。そして世界の返答とはその魔術の結果だ。各宗教が各々崇める神に傅くのだとしたら、我々は世界に傅いていると言っていい」
「ふぅん……なら、私も為れる訳ね」
そうだ、と千姫は答え、続ける。
「だがやはり、得て不得手がある。先に言った通り、魔力が低い者、世界に語りかける事が苦手な者、魔力を上手く練れない者、声に魔力を籠められない者。言い出したらキリがない。そういった者達は恐らく、人の寿命なんていう短い歳月では成就しない。それこそ何倍という年月を過ごさなくては世界へ任意に干渉できるほど魔力が増幅されない。――ほら、よく長生きした猫は神格化しネコマタになるっていうだろ? あれだよ
――そして、魔力が強い者は魔術行使に於いて圧倒的な優位に立つことが出来る。弱い者は術を行使するにあたって長い過程を踏まなくてはならないが、それを省略できる。中でも秀でた者は――世界への干渉の度合いにも因るが――念っただけで現象を引き起こすことが出来る。
――まあ、神秘の力とか言われていた魔術だが今では科学の力の方が圧倒的だ」
火を点けるのもこんなにも便利だ、と煙草を啣えながらライターで火を点けた。
深く吐いた息と共に大量の煙が撒かれる。
――
「解ったぞ、羽羅」
三時間以上経った頃、本を漁っていた千姫は声を上げた。
羽羅は覗いてた窓から面倒臭そうに視線を外す。
「なんだったの? 結局」
「これは自己喚起だ」
「自己、喚起?」
聞き慣れない言葉に羽羅は知らず反芻していた。
「自己喚起っていうのは、簡単に言えばもう一人の自分を呼び出すことだ。
人は必ず、意識下と無意識下という二つの精神状態が混在している。普段物を考え、思考しているのは意識下。逆に無意識下は夢で見る光景だったり、あとは生理的に受けつけないっていう場合も無意識だ。
言い換えれば意識下は理性。無意識下は抑圧された理性――本能みたいなものなんだ。
自己喚起は無意識下の自分を世界に体現させる。それは時には妖精のような姿だったり――悪魔だったり。悪魔を召喚するって、よく言うだろう? あれはもう一人の自分ってわけだ。抑圧された理性は基本的に邪悪だ。だから姿は自然と醜くなる。……まぁ中には本物の悪魔を呼び出しちゃう化け物も居るんだが。
――それはどうでもいいな。要するに自己喚起魔術っていうのは、悪魔という名の自分の無意識下を体現させる。魔法円の中に悪魔を閉じ込め、その後自分の魔力を持って使役する。魔法円を敷くのは呼び出すだけじゃなくて自分を含めた周りに被害が及ばない為の結界なのよ」
一つ疑問が浮かぶ。それは地に魔法円を敷いた場合だろう。
肝心の、自分たちが知り得ている情報とは一致しない。
「じゃあその魔法陣を、自分に描いた場合はどうなる?」
「反転する。無意識と意識が逆転し、無意識を行動理念とするようになる。要は本能の赴くままってことだ。
この真ん中の輪はウロボロスだった訳だ。この大きな瘤は豚の頭。輪のように長いのは竜の体。小さい瘤は手や足や毛だ。何故新石器のウロボロスが描かれているかは謎だがまあいい。ウロボロスは循環性と永続性の象徴だ。意識と無意識は切り離せない相反し相関している存在だ。有があれば無が在り、有が亡くならない限り無は在り続ける。自己喚起を表現するには持って来いのシンボルだったということだ。――ああ、成程。それで“裏返っている”か。相変わらず的確な表現をするな、諾は」
魔術師の顔で口を歪めた。千姫は悦びに嗤う。
「――という訳で羽羅、明日は聖堂へ行くぞ。放課後、ここに来てくれ」
▼
ひたひたと、足音がついてくる。
武井はそれを不気味に思いながらも自分のものだと言い聞かせていた。
ふと吹く風に葉を擦らせるその音にもまた過剰に反応してしまう。
夜道を歩く人影は少ない。まだ八時を過ぎたばかりだというのに、人通りは丑三つ時のように乏しかった。
当然、事件のせいである。
武井も好き好んで危険に身を晒しながら歩いている訳ではない。出来るなら、徒歩でなく自家用車で帰宅したい。けれどそれは叶わない。何故なら今、武井の手元に車は無いからである。
昨日、運転中に背後から当てられ、修理に出しているところ。
なかなかに愛車の損害は酷く、バンパーの部分は完全に拉げてしまった。ぶつけられた際に搭乗者は頸椎捻挫でもする筈だが、幸か不幸かその症状は見られなかった。それでも一応、念の為ということで通院をしている。
今はその帰りで、バス停へと向かっている所だ。
出来るなら大通りを通りたいのだが、生憎と病院と目的地のバス停の間には大通りを介して行く手立てが無い。仕方なく住宅街を練り歩くように向かっている。
ふと見上げると見なれた建物があった。
仁稜学園。
武井の勤務先が視界に入る。数ある窓の中、数か所がまだ電気を灯していた。物騒な中、未だに仕事を行っている方がいるようだ。
――コツ、コツ
「――ッ!」
突然の足音に慌てて振り返る。
緊張は一気に揚がり、その足音の正体を見ると肩を下ろした。
「……何だ、先生でしたか。驚かさないで下さいよ」
おどけた調子で若い教師は笑った。
不安を吹き飛ばす為に。悪寒を温める為に。
「はは、は……」
しかし笑わない。
足音の正体は無骨な苦悩者のような表情を一切崩さない。
口は言葉を失ったように閉ざし、双眸は虚空。存在感のある巨体の影はとても薄い。質量のない映像。それはまるで立体映像か――亡霊のように感じた。
暗い中見るその相貌を見て湧き上がる感情は到底御しえるものではない。
かつかつと、男は近寄る。
「……え、と」
不気味な影を背負い近寄る男に武井は後ずさる。
街灯を遮る影が武井の体を覆っていった。
そのまま男は手を伸ばし、武井の顔を鷲掴む。
一瞬呻き声を上げるも、それを無視し、男は手の平を男へと押しつけた。
「――mann」
空虚な重低音で呟く言霊は、暗闇に霧散した。
▼
今日も神に祈る。
膝を着き、手を組み、頭を下げ、身体だけでなく精神までも神に捧げる。
我は神の僕、神に寄り添い、神を崇め、神を信ずる者。
――毎日
、毎日
、毎日毎日毎日毎日
決まった時刻に決まった時間、礼拝する。
二年間、休まずに。
妻を失ったあの日から。
志藤を失ったあの日から。
途方もない苦しみと悲しみと虚しさから解放されるため。
またあの幸せを得る為に。
己が願いの為だけに。
志藤は礼拝し、聖堂を後にした。
――
今日もまたもや職員会議なるものがあった。
しかし議の内容は若干異なっていた。事件に関わっていることは確かだが、校長が話す言葉には衝撃があった。
武井先生が警察に保護された。
それだけではよく分からないが、どうも武井先生は昨夜路上をふらふら歩いていたところを巡回中の警察官に保護されたと言うものだ。
当然、事情聴取を行ったが保護した直後は全く言葉も介せない状態で、仕方なしに病院へ送ったようだ。
そして今朝目が覚めた武井先生だが、意識はしっかりしているものの昨日の記憶が酷く混濁していて、殆ど正常には覚えていない状態の様だ。どちらにせよ事情聴取は難破してしまった。
武井先生がここ連日で激動を見せる猟奇殺人事件に関わっているのか、ただ無関係で何らかの原因により意識が混乱した状況になっただけなのか。
「――――」
と、ここまで考えて自分にはあまり関係のないことだ、と志藤は切り捨てる。
最近はこの日常以外の時間で考えることが多すぎる気がある、と独り感じた。
――
高く佇む聖母マリア像。
丹念に彫られ彫像された石造りの聖なる像は祈る信徒を見守る。志藤もまたマリアに傅く信徒の一人だ。
例に洩れず、志藤も信条に基づき死者の復活を信じている。
だがそれは永遠の時を過ごす“来世”としての復活ではない。死者がかつての生者のように甦ると信じているのだ。
それは教会の界隈では異端児だ。
一度朽ちた骸が動き出すことは決してない。それでも志藤は願い、信じ続ける。
――愛する妻が蘇ってくることを。
妻は二年前、交通事故で死んだ。
相手の運転手は飲酒していた。よく聞く、話だ。
私は当時、まだ正式な教師として働いてはいなかった。非常勤という形で働く私は貰う給料も並より少なかった。
それでも、私は幸せだった。
通常の勤務ではない私は帰宅するのが比較的早かった。
よく妻と二人で買い物に行った。
安いスーパーを巡り、大量に買い込み、荒れ狂う主婦に紛れて共にセールに挑む。
よくあることだ。
よくあること、普段の日常、いつものこと――なのに。
赤の信号を外視し鉄の塊は妻を吹き千切った。
何が起こったのか私は直ぐに理解出来なかった。
視界を埋め尽くす巨大なトラック、腹を抉る重い音、横に飛ぶ妻の体、地面に吹き飛ぶ妻、流れる妻の血。――もう返事をしない屍となってしまった妻。
目の前で起こる全てが信じられなくて、認めたくなくて、ただただ夢だと自分に訴えかける。
私達が何をしたというんだ。
妻が何をしたというんだ。
何故私達の幸せを引き千切られなくてはならない。
耐えられない。
一度幸福を験ってしまっては。
だから願う。
幸福を。
また。
――祈りは終わった。
帰宅しようと立ち上がる。
いつもならここでレギナ神父が声を掛けてくるのだが、今日は違った。
何やら神父は見慣れない訪問者と話をしている。色々質問を受けているようだ。二十代前半のスーツ姿の女性と、仁稜学園の女生徒。スーツの女性とレギナ神父は何度も言葉を応酬している。
自分が勤める学院の生徒がいるが、やはり、自分には関係ないと被りを背け教会を去る。
去り際に一瞬、訪問者の一人と目が合ったような気がした。
――
部屋には誰もいなかった。
それは普段の事。もはや当たり前の事だ。
けれど慣れることなど決してない。
暖か味のない暗闇に、人工的な灯りが灯る。
ネクタイを緩め、少し立ち止まった。
最近は酷く体の調子が悪い。あまり食事を取っていない事が原因なのか、あまり睡眠を取っていないのが原因なのか。空虚な心が原因なのか。
それは知り得る所ではないが、何にせよ対策は取った方が良い。
死ぬわけにはいかないのだから。死んでは無に成るだけだ。
冷蔵庫を開けると冷気が顔に付着してくる。今は初夏の季節だが、特にこれを心地いいとも思わなかった。
貯蔵してある食材に視線を巡らす。
肉と青野菜がある所から野菜炒めでも作れば大丈夫だろう。
と肉のトレイに手を伸ばそうとした途端、吐き気がした。
「――――ッ」
思わずトレイを手から落とし、両手で口を押さえる。
ただの吐き気ではない。胃から物を戻すとか、押し上げられるとかの表現の比ではない。そう、例えば
――裏返るような
自らの惨状を理解すると尚、嘔吐感にも似た不快感が強くなる。
志藤は堪らず膝を折った。
食事を取るという状態ではない。
このままでは意識が飛ぶ。本能的にそう悟り、誰もいない室内を這いまわる。床に転がる物など一切意に介さず。
蛞蝓のように床を擦り、電話の元へと辿り着いた。
既に視界は霞掛かり、息はまるで過呼吸のように激しくなっている。
右腕を伸ばし、受話器を取った。
後は番号を三度押すだけ――そこで志藤の意識が途絶える。
力なく放された受話器は繋がる紐を伸ばし、虚しくぶら下がっていた。
――
「Cette nuit, je viens avant les elements demandant les gardiens pour surgir《この夜、私は起臥する事象をこの目で捉える》」
男は静かに詠唱する。
「Ouvrez le chemin, ouvrez les portes, ouvrez la voie, je suis ici《道を明け、扉を空け、我が身を受け入れよ。この身はそれに沿う者なり》」
男の前には大きな棺桶と火が出ている小さなライターが床にあった。
棺桶に手の平を向け、音を刻む。
――魔を籠め、“世界”に語りかける呪われた紋。
式を構成し、“世界”に刻み、“世界”に語りかけ、現象を起こす魔の学問。
「Mere de terre je vous appelle《大地の母よ、我が願いを聞き容れよ》」
その言葉を紡ぐと同時に男の動きは止まった。
僅かに揺れる空気に反応し、ライターの火だけが瞬く。
――魔術師が語るその問いかけに、“世界”は応える。
魔術はその工程により効力を違える。
ただ言霊を紡ぐだけに留まらず、ただ印を刻むだけに留まらず。火、鳥、星――ありとあらゆるものを使用し“世界”に強く訴えかける。
儀式めいたモノはより強力に、簡素なその場での行いはより脆弱に。相応の応えを世界は返す。
「Benissez-moi mere de terre, avec cette charge d'eau vos energies a l'interieur《私を包み、願いの水を充満させよ。貴の力、我は賛美する》」
ライターを左手で持ち上げ、右手で火を包むように押さえていく。
手を焼かれる痛みに、男は表情を全く崩さない。
その様を、男の頭上から聖母マリア像は見守っていた。
――魔術は“世界”に祈る学問だ。“世界”との道を開き、“世界”の恩恵を受け、“世界”の力を行使する。
魔術師にとっての“世界”とは万象の力を有す絶対的な不可視の存在。“世界”――或いは“創造主”と呼ばれるその力。この世の在りとあらゆる現象を引き起こすことが可能とされる未知の力。その力はヒトでは手にすることは出来ないが、肖ることは叶う。
「Quant a la terre, quant a moi, peut ce feu m'epurer《地に、我に、清めの火を》」
暗い堂の中、響く呪文。
――言うなれば魔術師は“世界”に傅く存在だ。
魔の強い――存在の強いモノは世界に強く影響する。
しかし男には魔力など微々たるものしか存在しない。
――血で自らの手の平と棺桶の蓋部分の裏側に円を刻む。中にある媒介にも無数の血文字を刻む。日の境界である深夜零時に御主の前――二年間祈りを続け開いた道の地点にて。
だからこのような大がかりな仕掛けになってしまう。
「Ouvrez le chemin, ouvrez les portes, ouvrez la voie, je suis ici《道を明け、扉を空け、我が身を受け入れよ。この身はそれに沿う者なり》」
男の右手が火を押しつぶした。
既に火傷を負い、爛れているが火口を塞ぐまで手の平を押しつける。
皮膚の焼けた匂いを漂わせながら、火は消えた。
「Grande mere de terre Be." beni ;《秀麗な母は“ ”を賛美した》」
男は焼けた右手を開いて棺桶に押しつける。
「Je suis charge, ainsi grain qu'il soit――!《我は己が願いに満たされた》」
最期の呪文を終えたその瞬間、
「――ッ」
男は背後に気配を感じ、肘を後ろに力任せに振りながら立ち上がった。
舌打ちと共に気配が離れる。
夕方に見たスーツ姿の女性――千姫は右手に持った針を仕舞いながら、
「羽羅、済まない。前線を頼む」
溜息と共に二人の女の立ち位置が入れ替わる。
男の前に立ちはだかるのはブレザーに身を包んだ長い黒髪の少女。
「――――志藤」
ぼそり、と羽羅は漏らした。月明かりに照らされた無骨な顔は羽羅の良く知る志藤のそれだった。
▼
私が漏らした声には憐みのような、蔑みのような色が混ざっていた。
志藤は一歩後ずさると、呻くように声を上げる。
「お前まで、私達の邪魔をするのか?」
感情的な声。
「別に邪魔するつもりはないわ。貴方の願いなんか、私の知ったことじゃないもの」
興味などないと、切り捨てる。
だって、想像がつく。彼が何を求めているのかなど。
「――私の望みは、妻を蘇らせることだ」
志藤は堅く断言する。
この身全てを捧げ願う大願。誰に邪魔立てされる謂われがあるのか。
幸福を望んで――何が悪い。
「何故私と妻の間を引き裂こうとする? 妻が死ななくてはいけない理由など在るのか? ――突然。――不意に。――前兆など塵芥も虚く。何を起因にし彼女の命を奪っていかなくてはならない!」
「――それが彼女の寿命だからだろう。」
千姫もただ断言する。そんな願いなど独り善がりでしかない、と。
「違う! 寿命などではない! 寿命とは衰退して、摩耗して死に逝く事だ! ――人はそう、死に逝くべきなんだ」
「――なら運命だ」
「……認めん、そんな運命など。私は元に戻そうとしただけだ。――そうだ、元にだ。本来在るべき姿というものに戻すだけだ!」
きっとこんな声、私は初めて聴く。普段の冷めた鉄のような声ではなく、波打つヒトの声。それだけ彼にとって大きな事柄であり、彼の大部分を占めるコト。
志藤は腕を振り、感情的に怒鳴る。
初めて見せた感情的な志藤の姿を前にしても、何も思う事が無かった。ただ、ああこいつも人間だったんだなと冷めた思いを抱くだけだ。
「だから私は妻を蘇らせる! またもう一度、共に生きる!」
「彼女は決して生き還らない」
千姫の言葉が志藤の胸を射抜いた直後、棺桶が大きく揺れ、音を立てた。
「……何を言う、彼女は」
また棺桶から音がした。
それは中から強い力で叩かれている。
ガタガタと。
「こうやって蘇ってではないか!」
次第にドンドンという強い音がする。
志藤の声を聞き取る事も困難なほど音は大きくなっていく。
それは本当に人が叩いているのか。――ヒトと呼べるモノがあの中にいるのか。
音は極限まで大きくなっていく。叩くような音から殴る音へ。殴る音から鈍器で打ちつけるような醜い音へ。
「楓!」
志藤が問いかけた瞬間、棺桶の蓋が突き破られる。
その大きな音に志藤は一歩、後退してしまう。愛する妻の前から。
空いた穴から腕が伸び、その穴を広げ強引に押し破ってくる。
その暗闇に照らされたモノは、
「――楓」
それはおよそヒトと呼べるモノではなかった。
肉は爛れ、所々では骨が突き抜け、歯を剥き覚束ない足取りで立ち上がる。
だが志藤はソレを前にして破顔する。
「楓、会えて……良かった」
志藤は目の前の“怪物”へと必死に声を掛ける。ただの化け物にしか見えないアレに。
志藤の目には、既にあれは彼の妻としか視えていない。
「、、、、、、、、、、」
呻き声とも叫び声とも取れない奇妙な啼き声で“楓”は歩み寄る。
「そうだな、寂しかったな。楓」
涙を溜めながら志藤は問いかける。
二年間思い続けた彼女だ。例えどんな姿であろうと志藤には関係が無かった。肉が剥がれていようと、爛れていようと、腐っていようと。
「また半端に顕現したな。――あれはお前の妻などでは決して無いぞ」
「違う、彼女は楓だ!」
苦悩の叫びが反響する。
「自己陶酔に浸るな。お前がこの二年間で何をして来たかは知らない。だがあれはお前の妻などではない。認めろ」
「私の、妻の、楓だ――」
嗚咽を交えながら絶え絶えに言い切る。
根拠もなく、ただ深く。
「そうだろ? 楓」
目の前まで迫った“楓”を見下ろしながら言う。
「ねえ、どうするの?」
僅か髪が紅くなっている羽羅は苛立たしげに千姫に問いかけた。
目の前の“楓”は壊していいのかと。
「まぁ、少し様子を見よう」
そう言いながら千姫は胸ポケットから針を出す。先程とは違う、針とは到底呼べない、まるでチョークのように大きいもの。
動く“楓”は志藤より頭一つ小さい高さだった。背丈から判断すれば確かに、女のそれのようだ。
抱きしめようと志藤は腕を伸ばす。涙を浮かべ、ゆっくりと。
目の前にいる“楓”に対し、志藤は恐れも、おぞましさも、畏怖も、感じない。背筋を這うような悪寒も、頭を冷やすような嫌な予感も、何も感じない。
「そうか、お前は――既に裏返っていたんだな」
ぽつり、と私の口から洩れていた。
志藤を埋めるのはただただ満たされた、幸福な感情。――自己陶酔という名の幸福。
志藤は二年振りの笑顔を現す。
「――楓」
「、、、、、、、、、、」
しかし彼の笑顔に応えたのは圧倒的な暴力だった。
鞭のように振るわれた腕に腹を打たれる。
胃液を吐き出しながら、志藤の体は球のように吹き飛んでいった。
――――――