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第一章 永劫回帰(ウロボロス)/3

      ▼


「――と、いう訳よ。その後病院に連れて行って、今は検査入院しているわ」


 その言葉に俺は息を吐く。

 何とも恐ろしい話だ。

 夜道を襲うということ自体もそうだが、色々と身を強張らす要因がいくつかある。

 まずは男の走るスピード。羽羅が直ぐ声を掛けた時点で彼女――芹河さんと男の距離は少なくとも五十メートル以上あったのだろう。夜人気のない住宅街での自分を呼ぶ叫び声だ。よく聞こえなかったというのは有り得ない。人間、自分を呼ぶ声だけは雑踏の中でもよく聞き分けるものだ。だから芹河さんが振り返るのに数秒と掛からない筈。端的に言えば男が走り出してから芹河さんに襲い掛かるまで殆どタイムラグが無いと言う事だ。恐らく掛かっているのは三秒ほど。五十メートル以上を三秒だ。獣染みている。

 もう一つは男の腕力。男が飛びついて芹河さんが倒れ、その際に頭を打った。それなのに血を流す量が多すぎる。芹河さんは側頭部を何針も縫ったという。飛びつかれて倒れた際に負った傷にしては重度だ。故に男に飛びつかれたのではなく力を入れて押し倒されたのだろう。

 そしてもう一つ更に際立っているのがあった。

 ――未遂に終わったため分からないが、男が芹河さんを襲った暴行事件は江代連続殺人事件の四つ目の事件になるところだったのだろう。

 同級生を襲われたという夜から約半日が過ぎていた。

 羽羅は昨日の晩に芹河さんを病院に送り、男を警察に引き渡した。その後警察で事情聴取を受け、再度芹河さんの無事を確認し、あろうことか羽羅は家に帰らずそのまま探偵事務所に来ていた。警察の事情聴取や芹川さんの見舞い等で思った以上に時間がかかってしまったらしく、胸糞悪いので帰る気失せた、と。

 俺の部屋でなく事務所に来たのは参加する意思を伝える為に直接来たという。しかし久々に力を行使したのと、ストレスから疲れが溜まりそのまま話さず眠ってしまった。

 次の日の朝に起き、事情を俺達に説明をし終わった、というのが今の状況だ。

 話しているうちに記憶が鮮明に蘇り、怒りがぶり返してきたのだろう。羽羅は少し高揚している。


「もう私は傍観者じゃない。だからこの事件に関与する――私も捜査に協力するわ」


「それは有り難い。よろしく頼むよ、羽羅」


 千姫さんは二つ返事で頷いた。その言葉に異を唱えようと口を開きそうになるが、それを何とか堪える。


「けど、今はやることないな。とりあえず、学校へ元気に行ってらっしゃい」


「な、どうして! 昨日の男の身体能力はヒトにしては高かったわ。ならあの男のことについて調べる必要があるでしょう?」


「いいや、羽羅の本分は学生だ。それにその程度は私達でどうにでもなるよ」


「でも――」


 俺も羽羅にはこのまま学園へと行って欲しいが、羽羅は尚も食い下がる。出来れば羽羅には殺人こういうことには関わってい欲しくない。

 けれど千姫さんの同意を無言で流してしまったため、俺は羽羅の参加を必然的に認めたことになる。それでもなるべく羽羅に関わらせたくないのなら、千姫さんの流れに乗るしかない。

 俺は伝家宝刀を繰り出すことにした。


「――羽羅、俺の分までしっかりと仁稜じんりょう学園の生活を送って来てよ」


 満面の笑みを被って言った。

 ぐ、と羽羅は言葉を詰まらせる。笑顔のまま見つめ次の言葉を待っていたが、数秒経っても次の言葉は出てこなかった。

 羽羅はこれを言われると、何も反論出来なくなることを知っている。


「……諾、それは嫌味? 私にとっては最悪よ」


 不貞腐れるように捨て台詞を吐いて、事務所を去った。扉を乱暴に閉める辺り、羽羅の不機嫌さが覗える。

 爆撃のような音が収まった後、千姫さんはおずおずと切り出した。


「……嫌味?」


「いえ、本心ですよ」


 笑顔のまま答える。


「……たちが悪いな、君は」


 千姫は呆れを多く混ぜた深い息をした。


   ――


羽羅が退室した後、千姫さんは突然電話をした。しかしそれも数分で、受話器を置いた。


「さて。それじゃ、出かけるとしますか」


 受話器を置き、煙草の火を灰皿に押しつけると、千姫さんは不仕付け言い放つ。


「え、何処にですか?」


「伊佐見、抜けているね。警察だよ――いや、羽羅が言うには病院にいるんだったな。昨今、重要参考人が生け取りに成功した所だろう? 話を聞く

限り、羽羅の友人を襲った男は連続殺人の犯人に成り得た可能性は高い」


「まぁ、そうですが。……それじゃ、やることあるんじゃないですか」


「羽羅に任せるか?」


「とんでもありません。行きましょう」


 俺は意気揚々と立ち上がった。

 やる気十分、というアピールを演技臭く表現する。肘に腕を当て思い切り伸ばす柔軟体操を繰り返しする。


「なぁ、諾。何か不機嫌だな?」


「いえ、そんなことはありませんよ」


「もしかして……あの助けられた女生徒に嫉妬してるのか?」


 柔軟体操が一瞬止まってしまった。


「ははは、まさか」


 誤魔化すように笑い飛ばす、豪快に。しかし笑ってから普段の自分と懸け離れ過ぎていることに気づき、時間を戻したくなった。

 ……ほんの少しだけ、図星だったから。

 羽羅は他人に興味を持つことなんてしなかったんだ。ましてや他人を助けるなど。そして自己の存在以外のことで怒るなんて、そんなことは昔なら考えられない。

 羽羅自身では恐らく気づいていない。自分の感情を押し殺して生きてきた彼女には、自分の感情というものがはっきりとしない。

 彼女にわかるのは怒りと憎しみと妬みだけ。

 恐らく、今の羽羅は何で自分が怒っているのかあまり理解はしていない。

 たた自分が苛々しているという感情だけを認識している。

 羽羅は昨日“友達”を助けたのだ。その“友達”の為に身体に負担がかかる力を行使してまで。

 友達の危険に怒りを懐き、その危険を解決するために身を捧げている。

 それは彼女が羽羅にとって関心に値する数多い人間の中での僅かな存在という事だ。

 羽羅がそうなってくれたことは本当に嬉しく思う。ヒトに関心を持ち、ヒトらしくなっていくことを。

 けれど彼女に対し、少しでも嫉妬してしまっている自分がいる。それがとてもいやだった。


   ――


 バスを乗り継ぎ歩いて数分、江代央立病院に辿り着いた。

 江代央立病院はこの江代町の中で一番大きい国立の病院として建っている。外科全般から神経内科、精神科まである少し田舎のこの町にしては十分すぎるほどに大規模な病院だ。

 ついでに言えば俺もこの病院でお世話になった例に適う人間の一人だ。

 何せ施設が半端ない。夜間緊急の受付もかなりのスペースで受け入れているし、入院患者を受け持つ数も多い。実用許可が下りにくい新薬や日本ではあまり知られていない外国の薬も数多く扱えるようになっている。詳しくは知らないが、ここの務めている院長や教授が医学業界では有名な顔触れらしい。

 患者や見舞いの人が入れ替わり立ち替わりで入る玄関口の上には、町の住人へ存在を強く知らしめる為、文字入りの大きな看板が掲げられていた。

 行こう、と千姫さんは自動ドアで隔たれたその玄関口へ闊歩していく。

 その後ろを慌ててついて行きながら、俺は疑問を口にした。


「でも、千姫さん。そんな簡単に、容疑者に会えるものなんですか」


「まあ普通は無理だな。――だから伊佐見、これ付けてくれ」


 突然、扉の前で立ち止まると何か小さな物を投げてきた。

 投げられたものを両手で受け取り、まじまじと見る。


「……ミサンガ?」


 手の上にあるのはミサンガだった。

 微妙に色の明るさが違う三種類の黄色の紐で結われている可愛いらしいもの。


「正確にはプロミスリングと言うけどね。……入る前にそれをつけて、中では絶対手放すなよ」


 睨むように念を押された。

 その迫力に慌てて手首に巻きつける。

 今ミサンガをつける必要性が全く分からないがそこはこの際考えないことにする。

 千姫さんがミサンガを作るなんて可愛い事をするとは正直思えない。だからきっと、これは魔術に関係しているのだろう。


「付けた? 伊佐見」


「はい、付けました」


 振り返る千姫さんの右手にも同じ物が巻かれていた。どうやらお揃いらしい。


「それじゃあもう一つ守って。建物内では絶対に声を上げるな、何があっても」


 静かに言い切ると、千姫さんは院内へと入っていく。

 直後、受付も済ませず通っていく千姫さんに声を掛けそうになったが、病院に入る前千姫さんが言っていた言葉を思い出し慌てて口を閉めた。

 歩き顔を交わす人々を見て、違和感を感じ取る。

 院内に入って一分弱。自分を取り巻くその違和感を異常と確信する。


 ――誰も俺達に気づいていなかった。


 建物内には民間人から寝間着姿の患者まで合わせて大勢の人間が歩いていた。玄関口を入って直ぐの真正面にだって受付を担当していたナースがいた。

 傍から見れば、いつも通り。けれど違和感は確かなもの。始めは気のせいかと思った。

 しかし向こうは歩いていても俺達を避けてはくれない。真正面からぶつかりそうになっても、目も合わせず、表情を何も変えずに。それこそ俺達がこの建物に存在していないかのように歩いていく。

 院内の中の人込みはそれほどごった返してはいないものの、自分たちを全く避けてくれない人に何度かぶつかりそうになった。

 もし人とぶつかってしまったらどうなるんだろう、という悪寒を伴う不安を感じつつ千姫さんの背中を追い掛けていく。その千姫さんはこの現状に全く驚きもせず、さも当たり前のように俺の前を歩いていた。

 そして歩くこと数分、何度か階段を昇り、長い廊下を歩いていく。

 恐らく最上階。

 この階に上がると、階段の両側を挟むように青い制服に身を包んだ警官が立番していた。それだけでここの病院におけるこの階の異質さを理解する。

 この階にあの昨夜の男が入院しているのは明瞭だ。


 昨日、警察は早速暴行犯に尋問を掛けたようだった。この一ヶ月で三件という異常な早さで事件が発生している、加えて常軌を逸脱した狂気的な殺人事件の為、警官も早急に手がかりが欲しかったのだろう。

 警察も昨日の男が事件に何らかの関係がある可能性を持ち得ると踏んでいた。

 警察はかなり手荒な取り調べを行ったらしい。しかし容疑者の男は今までの犯人と同じく、その尋問に全く反応を見せなかった。

 一件目も二件目も、同じ状況。

 “こと”を起こす前だから他の犯人とは違う反応が得られると期待したが、それも外れた。

 そして魂が抜けたように呆けている容疑者に為す術もなく、精神科で治療を行ってもらおうと病院に搬送したところでその男の異常が発覚する。

 ほぼ全身の筋肉が千切れていたのだ。それは芹河さんに飛びかかった時が原因だと見て間違いない。

 精密検査を行い初めて明かされた事実。容疑者の男はその全身を駆ける痛みに全く反応を示さなかった為、警察は気付けなかった。

 それが今朝の電話で千姫さんが得た情報だった。

 問題は何故、全身の筋肉が破綻するほど力を入れる事が出来るのか、尚且つ脳が耐えられるのかという事だ。

 痛みは脳に訴えかける警報だ。脳がその警報を感知できなくなっているのか。それとも警報が鳴らなかったのか。男にとって痛みは警報ではなかったのか。

 真偽のほどは分からない。


 千姫さんが立ち止まった。

 その先には二枚の横開き式である大きな扉の両脇に警官が立っている。この扉の中から外を守護する為の護衛。この病室に昨夜の男がいることは明白だった。

 思わず息を呑む。

 何せ目の前では警官が警戒態勢で警護しているのだ。その目の前で不法侵入モドキな行為を行っていては誰でも緊張する。

 そんな俺を知ってか知らずか千姫さんは俺を手で制すと、左側に立っている警官の目の前まで歩いていく。

 背中に隠れよく見えないが、胸ポケットから何かを取り出し、警官の首に添えた。一秒も経たない内に、何事もなかったようにまたもう一人の警官へと近寄る。同じ事をすると、俺へと向き直り手で招かれた。何をしているのか全く理解できず、疑問に思ったが喋ってはいけないと千姫さんに念を押されている為、その疑問を解消することは叶わなかった。

 扉をスムーズに動かす為のローラーの回転音が静かな廊下に響く。

 近くに居れば必ず気づくはずだというのに、両脇の警官は異常はないと主張するように毅然と立番し続けていた。世界が止まってしまったような奇妙な光景。

 驚く間もなく、扉は閉まる。

 ゆっくりと奥へと視線を通わすと、そこには二十代後半と見られる男がベッドに横たわっていた。

 体格が良いわけでもなく、小柄でもない中背の一般的な男性。死んだように目を閉じ、静かに一定のリズムで微かに胸が上下していた。

 千姫さんが自分の眉間辺りを指で叩く。

 ――眼鏡を外せ、と言う事らしい。

 俺をここに連れてきた意味を理解すると共に、腹を据える。どんなものが視界に飛び込んで来てもいいよう、覚悟を決めた。

 眼鏡を外し、寝ている男に“眼”をやる。


 ――裏返っている


「――ッ、ぁ――」


 男の顔は左右にぶれ、肌色の霧がかかったようにぼやけている。わずかにずれた左右反転している顔が重なるように点滅し、色彩が反転しそれがまた反転する。赤、青、白と様々な原色が顔を塗りたくってはまた塗られていく。

 脳に負担を掛ける刺激の強さと表現しがたい悪寒に身を震わせながら、声を出さないよう口を押さえる。悪寒は吐き気へ昇華し、胃を押しだす。唾を飲み込み、戻しそうになる中身を必死に送り返えした。

 一瞬、直視しただけで強烈な映像イメージを叩きこまれ、頭痛も起こる。それだけあの男の存在は強烈だということ。異質であると物語っている。

 歯は震え、痙攣する身体を自分で抱きしめた。思わず膝を折る。見下ろす床には、唾液か胃液かよく分からない液体が滴っていた。

 突然、自分の首に痛みが走る。その痛みに顔を上げた。

 すると、千姫さんが手を添えている。申し訳なさそうに千姫さんは眉を潜めていた。

 暗転する視界の中、千姫さんの顔を見ながら俺の意識は途絶えていった。


      ▼


「失礼します」


 鈴のような声がドアの音と共に聞こえる。

 しかし自分には関係のないと、志藤は見向きもせず無視をする。今日は職員室に生徒を呼び出すということはしていないから、自分への要件は来ない筈だ。

 こっちだ、という声は隣の教師から聞こえた。入室してきた生徒は声を上げた若い男の教師の元へ凛とした姿勢で歩いていく。


「何ですか? 武井先生」


「この前はごめんな、わざわざ呼びつけたのに。会議が長引いてな」


「いえ、大丈夫です」


「ああ、申し訳ない。……それで、話って言うのは噂の遊びの件のことなんだよ」


 少し声を潜めて武井は続けた。


「実はな、学園ウチの生徒内で変な遊びが流行っていて困るって教会の方から苦情が来てな」


 教会、という単語に志藤は内心反応を示す。

 あそこに居る時の時間が志藤としての唯一の時間だ。初めて、“日常”以外で何らかの事柄に興味を示す。


「変な遊び、ですか?」


「ああ。高司は知らないのか? それはだな、こういう絵をだな――って、あ、俺が言ったからって高司が遊ばないでくれよ? それじゃ元も子もな

い」


「分かっています。下らない事を、するつもりはありませんから」


 女生徒は少し苛立っているようで棘のある口調になっていた。

 武井は頭をバツが悪そうにかく。


「あ、ああ。高司はそういう感じじゃないもんな。……じゃ、話を戻そう。ここ、手の平にだなこんな……ゲームの魔法みたいな陣を描いて」


 近くにあった印刷用紙を見せながら言った。

 志藤は横目にそれを見る。


 ――瞬間、志藤は息を呑んだ。


「こんなだな。これを自分の血で描く。それで教会に行って手の平合わせて聖母像にお願いをするんだ」


 それは紛れもなく、志藤が毎日行っている行為だ。


「それは……何とも禍々(まがまが)しい遊びですね。この文字が気になりますが」


 その生徒は用紙に書かれた“先生へ”というハート付きの部分を指で置く。


「ああ、これはだな、三島達に聞いたらあいつらふざけて――ってそんなことはどうでもいいんだ。それで、効力ありそうってんで結構マジに実践してる連中も居てさ。助祭の方が見かねて注意したんだって。自分の体を傷つけるような真似は止めさせて下さいって怒られちまったよ」


「ここの生徒が多いんですか?」


「ああ、何でかね。……何でかな?」


 再びぼりぼりと頭をかきながら教師は頭を捻った。


 ――ドクン

   心臓が高鳴るのを感じる。


   ――


 受話器を置き肩の力を抜いた教師に、隣に座っている堅い表情の教師が話しかけた。


「武井先生、今のお話は何ですか?」


 重い声を掛けた。まるで感情が無いかのように冷えている。

 武井は一瞬戸惑った。彼が誰かに話し掛けるなど、珍しい事だから。

 そして迷う。どちらの話なのか。生徒との話か、電話での話か。しかしどちらも同じである事に武井は気づいた。


「――ああ、志藤しどう先生。いや、あの教会の方からの苦情でしてね」


「苦情? 何故、教会から?」


「いや、生徒の間でたちの悪い遊びが流行っていまして。それの注意を受けたんですよ」


 志藤は堅く口を閉じている。

 岩のように堅固な顔立ち。体格も良い。威圧感のある人間に黙られ、堪らず武井は口を開いた。


「ど、どうしたんですか? 志藤先生」


「――いえ、何でもありません」


 中身のない声で志藤は答える。自分の人差し指を握りながら。


      ▼


 薄汚れた鉄造りの階段を上っていく。

 剥き出しの金属は歩く度に甲高い音を人気のない辺りに虚しく木霊させていた。

 三度ほど階段を上がると、見なれた苗字を添えたプレートが目に入る。

 私は諾の部屋へと訪れていた。

 家賃三万円。それがこのアパートのひと月の家賃だ。

 鉄筋で建てられた風呂トイレ台所付きワンルームのアパートとしては上々な物らしい。私にはよく分からないが。

 ノブを捻ってみるが、明かない。鍵が掛かっているらしい。

 ここで初めてチャイムを鳴らした。

 他人行儀な音が部屋から廊下へ漏れてくる。


「……」


 出ない。

 軽くノックをしてみる。

 反応がない。

 強くノックをしてみる。

 反応がない。

 どこぞ極道のように荒々しく叩いてみようかとも思ったが、止めた。そんなことをして隣の住人が出てきたら厄介だ。

 仕方なく諾の部屋を去ることにする。

 腕時計を見てバスがあるのか確認し、千姫の事務所に行こう、と私は顔を上げた。


   ――


「諾が何処にいるのか知らない? 部屋にいなかったんだけど」


 出されたコーヒーに礼も言わず、ソファーに腰掛けている羽羅は投げかけた。


「そこにいるわよ」


 千姫は奥の部屋を指さす。そこは千姫の寝室も兼ねた私室だった。

 そうなの、と語尾を上げて羽羅は言うとコーヒーを置いて歩き出そうとする。


「待て待て、言っても話は出来ない。ウチの“眼”はやられてしまったよ」


 ずず、と羽羅に出したものと同種類の飲料と同じ絵柄のグラスを千姫は啜りながら、さも当たり前のことのように言う。


「やられた――ですって?」


 ぎり、と羽羅の眼に殺気が籠る。向けた先は千姫。

 その殺気を受けた千姫は観念するように応える。


「やられたと言っても、てられただけよ。じき目を覚ます」


 その言葉を聞いて羽羅は殺気をなくした。

 けれどまだ胸の内に怒りはふつふつと宿っている。

 それを反映するかのような乱暴な調子で、千姫に質問を投げかけた。


「“眼”を使わせたの?」


「ええ、どうしても確かめたかったのよ。昨晩の男が魔術の影響下にあったのか。――お陰で、確信を得られたわ」


 その言葉に羽羅は息を呑み、直後に声を荒げた。


「――ッ、あれは」


「そう、突っ掛かるな。解ってるよ。あれは“幻視の眼”。魔的な干渉を摩耗、歪曲の類を一切なしに正確無比に視覚化し捉え視る眼。直接、魔力の塊を映像イメージ化して脳で理解する呪われた瞳。……ああ、羨ましい。私も片眼だけで良いから欲しいよ。あれは今まで見た術の中でも、今まで読んだ文献の中のどんなものよりも強力なものだ。委員会の諜報部だってあれ程の眼を使える奴はいないだろう。しかも術を施した訳でもなく天然物、まさしく天賦の才だ、堪らないよな。どうしてあれが魔術師に宿らなかったんだか――きっと、世界が変わるぞ」


 千姫は嗜虐的にわらう。

 目の前に喉から手が出るほど欲しい愛玩物が転がっているというのにどれほど手を伸ばしても自分のものにはならないという圧倒的な羨望感。


「魔術師はことわりを終点とする存物いきものだから多分、“神様”が許してくれなかったんだろうな」


 居もしない“神”に侮辱のわらいを送る。


「別に千姫でもわかったんでしょう? 別に諾が視る必要はなかった筈よ」


「まあ、そうなんだが諾の眼には誤魔化しが効かないだろう? 確証が欲しかったんだ」


「あの眼は諾の脳に負担が掛かるのよ? そんなものをおいそれと使って良い筈はないわ」


「安心しろ、あの眼の器として諾は十分な素質がある。何せ、二年前、お前を視ても無事だったんだぞ?」


「――――」


 その言葉に羽羅は口を閉ざす。

 怒りが失せてしまった。それは羽羅が唯一、後悔の念を抱く事柄だから。


「まあ、お陰で、羽羅も自由に動けるんだ。諾が寝てる今なら羽羅は私に協力し放題だ」


 それは確かに好都合だけど、と羽羅は心の中で同意する。しかし納得がいかないのも事実だった。

 どう切り返そうかと言葉を選んでいると、千姫が先に口を開いた。


「しかし羽羅、お前まだ諾の部屋に入り浸っているのか?」


 予想外の質問に羽羅は弱々しく、そうだけど、と呟く。


「お前もはっきりしないな……忘れてるのを良い事に」


「煩いな。今はそんなことどうでもいいでしょう。――ここに来た理由は、これよ」


 反論は無理、と悟った羽羅は若干急ぐように鞄から一枚の紙を取り出す。それは乱暴に鞄へ仕舞われていた為、幾つもの折り目を帯びていた。

 紙の惨状に眉と目を顰め見つめると、千姫は不意に煙草を口から溢しそうになる。

 慌てて歯で噛み、落ちかけた煙草の態勢を整えるとぼそりと呟いた。


「――召喚の魔法円か」


   ――――――

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