第一章 永劫回帰(ウロボロス)/2
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「自殺……ですか?」
耳を疑うような言葉に、意識せず聞き直してしまった。俺の返答に孕んだ怪訝さを打ち消す様に千姫さんは神妙に頷いた。だが、自殺なんてのは到底考えられない。
「そう。三件目は自殺」
「だって、鋸で切断されてたんでしょう? 片腕と両足を」
自分で言ってて気分が悪くなる。三件目は鋸での三肢切断による失血死。明らかに、自分で行える行為ではない。それなのに千姫さんは自殺だと言う。
「気持ちは分かる。私だって信じられないよ。でも警察の現場検証では自殺以外考えられないそうだ。まあ……まだ、警察は公表していないようだけど。
それで何故、自殺かって言うとね、理由は単純。死亡者の手には切断に行われた鋸が握られていた。飛び散った血痕は、しっかりと握った指の形で途切れている、指紋も死亡者のものだけが付着している。さらに部屋に何者かが侵入した形跡も、何か奇術のような仕掛けがあったわけでもなかった。だから警察は自殺と検死するしかなかった。……医学的には有り得ないんだけどね。
――想像できる? 自分で自分の腕を鋸で落としたのよ? チオペンターやプロポフォールなんていう麻酔の類も一切打たずに。切断し、痛みが脳へ警告を出し続けているその間も指は決して緩まない。焼けるような痛みの中で、それも失血死になるまで。気はとうに吹き飛び、まともな精神でいられるはずはない。さらには切断した際の血液の急激な減少で、乏血性ショックさえも起こしていないんだ。明らかに、常識の沙汰ではない」
背筋も凍るようなその話に、背筋に冷や汗が垂れるのを感じた。それこそ理性がぶっ飛ぶような話だ。
黙っていると、その狂気劇を想像してしまいそうだ。
「……それじゃあ、やっぱり」
「ああ、魔術行使の可能性が高くなってきた」
そう、またも魔術師の声で言った。
そうして、調査を始めて二日目が経った。俺がやっとのことでファイルの全てに目を通しても、解決の糸口は判っていなかった。
欲しい情報は被害者と犯人に於ける共通点と異常な点。共通点が分かれば次に死亡する確率の高い者を絞れる。異常な点が分かればそこから魔術に足跡を辿れる――こちらは無知な俺には理解出来ない領分だけれど。
しかしろくな情報など出てこない。
細かく情報を上げるとしたら、共通点は全ての被害者が何かしら雇用された身で働いていること。江代町に住んでいること。殺害状況が猟奇的にであること。そんな情報はないに等しい。
「……なぁ伊佐見、事件の当事者全員、教会に足を運んでるよね?」
灰皿に堪った灰を捨てている千姫さんが背中越しに聞いてきた。
「確かにそうですが……そんなのはもう、共通点じゃないですよ」
江代市の住民の五割以上は何らかの機会――結婚式など様々な――で教会に足を運んでいる。何故かは知らないが、この町はキリスト教が広く浸透している。
五割、というとそれは大層な割合だ。教会に足を運んでいるという共通点など、性別が同じだというぐらいの微妙な共通点でしか成り得ない。その程度じゃ到底特定できないだろう。
「……だよねぇ」
煙草を咥えながら千姫さんは項垂れる。いつもならだらしないと思うところだが、今回は俺もその気持ちを理解出来るので何も言わない。
殺人事件――三件目は自殺と出ている為明確には殺人ではないが――について調査を始めたのはまだ二日目にも関わらず、全く見当もつかないというのは些か厳しいものがあった。一応この探偵事務所はそういう違和感に直ぐ気づくというのが売りの筈なのに……。
ただ、事件が二件目までなら関連性は見出せた。だが三件目が殺人ではなく自殺ということになり、余計に三つの事件の関連性が薄れてきたように感じる。
初めは魔術的な方面から辿って行けば早いのではと思っていたが、そうもいかないようだ。千姫さん曰く、魔術から推理するには候補が多すぎて不可能らしい。既に頭の中では三十数個候補は上がっているとか。世の中そんなに甘くない。
魔術から寄るのがが無理なら、地道に探偵として謎を解明していくしかなかった。
俺もたまに眼鏡を外して町をうろつくが、禍々しい、殺意独特な感じのものは見受けられない。
本当は何も関連性などないのではないか、と頭を過る。三件目は自殺なのだ。殺人と自殺じゃ、違いが大きすぎる。
「伊佐見、ちょっと空ける。時間になったら帰っていいよ」
千姫さんは薄く黒いシャツを羽織って颯爽と出て行ってしまった。
調査を始めたその日から千姫さんは被害者周辺の知人を徹底的に洗っていた。両親から同じ会社の職員は当然、よく行く飲食店や衣料店の店員にまで足を運んでいる。警察にもあたっているようだ。
何故、千姫さんが警察内部と繋がり持っているのか、千姫さんは俺にそれを話してもくれないから理由は知らない。けれど兎にも角にも、その繋がりというのは物事を調べる上で心強いことには変わりない。
千姫さんは昨日から、寝る間も惜しみ調査に励んでいた。探偵業の時のだらけた千姫さんが想像出来ないほどに。スイッチを切り替えて別人になってしまったのかと思うほどだ。
それが本業だということもあるが、恐らく、解決させたいという心が彼女にはあるのだろう。
どうして彼女が裕福である家を飛び出してまで、魔術師の警察モドキな仕事をしているのかは分からない。損得で見るならば、千姫さんは魔術を行使するにも極めるにも、財力があり尚且つ研究する施設が整った水準の高い環境である実家を飛び出す必要はないのだ。
千姫さんの過去に何があったかは俺の知る所ではない。訊く気もないし、恐らく訊いても教えてはくれない。
だけどこの事件を終わらせたいという想いは俺と同じだ。
両頬を平手で叩く。気合いを入れ直した。助手として恥じない働きをしなくては。
さぁ、もう一度資料の“視”直しだ。
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世界が空虚だった。まるで全てが掴めない雲の様で、届かない空にある様なだった。いる実感がないというべきか、歪んだ虚無感が常に心の中にあった
何をしていても満たされない。空腹とも、脱力感ともまた違う奇怪な孔。胸には、どうにもならない手ひどいと孔が空いてしまった。修復は恐らく難しい。だが、その孔が埋まることを期待してもいた。
虚ろながらんどう。過る底無しの沼。足のつかない、存在を感じることが出来ない闇の中、四肢の在り処すらも確信できず死んでいる様に生きていた。ある日から、そんな自分になってしまった。
気付けば瞳から色は喪われていた。不可思議な黒だ。光を受けず、反射もせず出しもしない。まるで生き方そのものの瞳だった。気味の悪い、性質の悪いホラーの様な瞳だった。しかしそれは今の瞳だというだけで、元の瞳は知らなかった。元々、自分というものにあまり興味はなかった。
しかしある日ふと、気付いた。自分は世界から孤立した。それが一番の形容に感じた。
或いは、自分は世界に置いていかれた。足を止めて、振りかえってしまったから。
手を伸ばしても、声を叫んでも、決して振り返ってはくれない。こちらが振り返ってはいけないように。流れに逆らうようなものなのだろう。時間が過去から未来へと止め処なく流れる様に、逆流など決して叶わない。
だが、それしか生きる意味を見いだせなかった。いやむしろ、元々生きている意味は何なのか。喪ってから、いつも見失うのだ。
目的など一つしか見いだせない。まるで盲目だ。何も見えない、それしか見えない。ただひたすらにそれを追う。暗闇の中の一筋の光。そんな粗末なものを追い掛け続けるしかない。
あれはどのくらい強い光なのか。ここからどのくらい距離があるのか。果たして辿りつけるのか。だけどそれを追いかけるしかない。それにすがるしかない。その光に逢いたい。包まれたい。また語りかけて欲しい。また言葉を伝えたい。また笑いかけて欲しい。また同じ時間を過ごしたい。
出来る事ならこの空虚な世界で、確かな存在であって欲しかった。
自分独り暮らしの家に帰り、玄関を通る。玄関には、自分以外の靴がまだ置いてあった。
中は暗かった。手探りで電源を探し、押す。数回点滅した後、白熱電球は奥へ続く廊下を照らし出した。それは無機質な光だった。靴を揃え、上がっていく。廊下を歩く自分の足音だけがひたひたと響く。
廊下の奥にある扉を開けると、またも暗闇の部屋。暗い部屋に入ると疲れが増すようだった。それはきっと、肉体的ななものではなく精神的なものからだろう。
食事をする気も起きず、夕方の一食を取らずに広いベッドへと身を寝かせてしまった。
神父の聖書を読む声が聖堂に響き渡っていた。
その言葉に耳を傾け、目を閉じ、祈りを捧げる。神父は神の使いとして信徒に説教する。信徒は神に身を捧げる者として祈る。
信者である志藤は、元来、キリスト教信徒ではなかった。しかし彼は二年前洗礼を受けこの身を捧げる者とした。洗礼は潅水礼というものを行った。頭部に水をかけるという洗礼だ。これは少し簡略化したもので、正式なものでは浸礼だという。こちらは全身を水に浸すものらしい。
神父の説教が終わった。それと同時に志藤は組んだ手を離し、顔を上げた。いつも通り、何も感じなかった。
「やあ、志藤さん」
「……おはようございます、レギナ神父」
本を片手に神父は椅子に座る志藤へ話しかけた。志藤は立ち上がり、挨拶を返す。神父は柔らかな人の良さそうな笑みを浮かべていた。それはさながら、患者を相手にする医者のようだった。
志藤より頭一つ分大きいレギナは覗き込むように志藤の顔を見た。
「顔色、良くないですよ。また昨日も、食事を取らなかったんじゃないですか?」
「……はい、申し訳ありません」
「私に謝っても仕様がありません。貴方のお身体の問題です。主も、貴方のお身体が壊れることなど、望んではいませんよ」
その言葉にやはりレギナは神父だ、と志藤は再認識する。例え医者の様な笑顔だろうと、本質は変わらない。とはいえ、いつも顔色を窺い志藤の体調を案ずる彼は医者のようではあった。ろくな対応をしてくれないような医者よりかは、彼の方がよほど医者だろう。
志藤は食事を食べられない訳ではなかった。単に、食べる意味を見出せないだけだった。食べても何も満たされない。満腹感など得られない。元々空腹など感じないのだから。何も得られない、何も感じない食事はただの苦痛であり不快でしかなく、過去に何度戻したかは分からない。まるで味のない食事だった。
そして食事の度に思い出し、心で泪するのだった。ここ二年、志藤は笑った記憶などない。笑えない。笑う要素などないのだ。志藤は太陽を失った。月である志藤は太陽が無ければ輝けない。とても空しい。とても虚ろだ。光がなければ輝けない、月にように陰っている。
だがそれももうじき終わる。
「……怪我にも気をつけて下さいね」
と、志藤の指に貼られた絆創膏を見て神父は言った。志藤は神父に礼を言い、聖堂を去った。
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私の目には亡者としか映らない。あの笑わない、表情のない志藤はおよそ人間らしからぬ人間は亡者だ。ただ目的を持たず在り続けるだけの死人。或いは盲目的にその目的に歩み寄るだけの死人。どちらにせよ、反吐が出る。
まるで昔の高司羽羅だ。だからといって同情はしない。そんな優しい心は持ってはいなかった。
あいつは教科書に目を落とし、重い声で朗読する。その目は教科書に書かれている物を見ているものの、感情など籠もっていない。ただ必要である事象を見ては認識するだけのただの道具。目は最も感情を伝える事の出来る器官の一つだが、志藤の場合は感情すらも宿らない。
人間は必ず欲を持ってその命を燃やす。欲に従い、欲を糧に、欲を解消する為に生きる。そして欲は感情を生み、人間らしさを表現する。人間がこれほどまで複雑に生きているのは本能以外の欲求が明確に生まれる故。
だが志藤からは見れない。欲がある人間には到底見えない。虚ろな瞳を私に向けるな。その双眸の黒はまるで虚無を連想させる。生気など漂わず死の匂いしか撒き散らさない。
顔に表情は浮かばない。ただ堅く、厳しく。それは教師という立場からなる表情か、彼の今いる状況心境からなるものか。
あれで生きているなど笑わせる。死んでるように生きている人間など価値が無い。感情を殺し生き続けるなど、あれはただの亡者以外の何でもないだろう。
頬杖をつき、盛大に溜息を吐く。
腹の底からストレスを全て漏出させる気で吐いた。冗談ではなく、本当にそうなれば良いと思う。
――そんなこと出来るのなら、私の悩みは無くなるのに。
不意に、全面に机が映っている視界の色合いが黒くなった。人が近づいたとそれで知り、顔を上げる。
「凄い表情してたね、ウラちゃん。何かあった?」
腰に手を当て、下から見上げるように首を傾げていた。この仕草はまるでリスやハムスターの愛玩動物の類を連想させる。こんな愛らしい仕草が似合う人間はなかなかいないだろう。
そのぴょこぴょこ動く頭に合わせて横で一本に結われた髪が上下に揺れていた。その幼い髪型は、彼女の幼い顔立ちに良く合っていた。幼いとは言っても顔立ちはとても綺麗だ。将来有望という奴なのかも知れない。
猫のような丸く大きな瞳が私の顔を覗きこんで来る。
「別に、何もないわ」
会話終了、という拒絶の意を含めた無愛想な返答。普通の人間ならこれで居心地が悪くなり去っていく。だが目の前の人間はその普通ではなかった。
「そっか。……私、さっきの授業嫌だったなぁ。志藤先生苦手だよぉ、何か怖いし」
嫌いではなく苦手と表現する。
「……そうね。それに彼の授業、覇気がないわ」
「あぁ、分かるなぁ。何か、淡々とし過ぎてるっていうか、教科書通りっていうか。そんな感じだよね」
何が楽しいのか分からないが、彼女は笑っている。彼女は先程の教師と比べれば、同じ人間かというほどよく笑う。
ころころと表情が変わる彼女はクラスのマスコット的な存在として愛されているようだ。そして彼女は私の拒絶に難なくすり抜け、話し掛けてくる存在。
「ごめんなさい、芹河さん。私お手洗いに行きたいから……」
「あ、うん。次の授業、移動教室だから遅れないでね」
その言葉に返事をせず、私は教室を後にした。
拒絶しても無愛想に扱っても、何度も私に話しかけてくる。こういう人種の人間は必ず存在する。ある意味、空気を読めないという奴なのだろうか。それとも我を貫き通す性格なのか。
何にしても、彼女はまるで諾だ。
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長い日の時間が終わり、外は星が瞬いていた。時刻も十二時を回っている。
「ええ、はい、三件目……はい、そうです」
それでも、千姫は諾が帰った後からずっと、受話器を手放さないでいた。
「また同じ質問で申し訳ないのですが、何か不自然な点はありませんでしたか? 些細なことでも」
受話器越しに自殺という点が既に不自然なんだがな、という声が溜息混じりに聞こえてくる。
「それを言ったら元も子もありませんよ」
千姫も合わせるように同じ調子で返した。
しかし唐突に、向こうは切り出した。
「――血、ですか? ええ、そうですね。血は渇くのに時間は多少かかります。少なくとも腕を根元から切り落としたら、普通なら渇く前に死ぬでしょう。血も溢れ出てる事ですし。
……そんなことが。確かに、些細な事と言えば、些細なことですね。でもとても奇妙…………いえ、とんでもないです、助かります。遅くに申し訳ありません。……はい、はい、それでは失礼します」
受話器を置き、口に手を当て千姫は思案する。
「手の平に渇いた血、ね」
呟きは誰も受け取られることもなく雲散する。
千姫は思案顔のまま煙草を咥え、火をつけた。思考のスイッチが切り替わる。
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志藤にとって日常は希薄だった。
日常とは“志藤”として過ごす時間なのだとしたら、それは一日の一割にも満たないだろう。いやそもそも、ないのかも知れない。あの日から。
だが、たった数分、神に祈る時――その時だけ、志藤は“志藤”として生きている。仕事での時間など心を切っている。光のない日々を過ごすのは耐えられない。それでも時間は止まることなどなく、太陽は沈み、月が沈み、また太陽が昇る。
そんなのは苦痛でしかなかった。吐き気がする。おぞましい、妬ましい。志藤としての意識を失くし、日々を過ごし防衛するしかない。
こんな生活は長く続けたくはない。だから早く、もっと、神に祈りを捧げなければならない。既に年月は重ねた筈だ。まだか、まだか……。
妻の料理をまた食べさせて下さい。
妻の迎えで家に帰らせて下さい。
妻の声を聞かせて下さい。
妻の顔を見させて下さい。
妻の手をまた握らせて下さい。
妻の暖かさを。
妻の香りを。
妻の存在を。
妻の傍で私は、もう一度。
私の傍に妻を、もう一度。
もう一度。
またあの幸せな日々に。
あの幸せだった日々に。
これから二人でと約束したあの日に、もう一度。
お願いです。
お願いです、神様。
お願いですから、
妻を――――生き還らせて下さい。
職員会議なるものが今日もあった。
職員だけで生徒と学校の規律を保つために話し合われるそれは毎日行われる。長さは日によって違うものの、最近は連日長い。理由は明白だ。近頃はこの江代市で猟奇的な殺人が起きている。
基本的にそれらの犯人同士、または被害者同士に繋がりはなかった。だから次には誰が狙われるか分からない。今のところ、成年を超えていない少年が被害に遭ったということはないが安心は当然出来ない。これから学園の方でも対策を取るのだろう。部活動辺りは制限されるかもしれない。
志藤は堅い表情のまま理事長の話を聞く。その話、殺人という話に、強い不快感を禁じえない。
死を与えるなど最もしてはならない愚行だ。死は人が与えるものではなく、自然と起こるものでなければならない。
殺人も自殺も、ヒトは死を運命づけられているからこそ、全うに生きていけるのだ。不死の命など、恐らく気が狂う。有限だからこそ無限を夢想出来る。現実だからこそ、夢を見れる。死があるからこそ、生に感謝する。犯罪があるから法律があるように、その“黒い方”が無ければそもそもの実感と、ありがたみなど感じないのだから。
夢の中で見る夢は、夢では決してない。だからヒトは死がやってくる前に、少しでも悔いが残らぬように生きていく。足掻いて、最期まで足掻き続ける。
だが予期せぬ死がやってきた場合は、納得がいくわけが無い。未練は残り、自分の死を呪う。だが、呪う間すら無かったら……。
寿命を切らし全うする――それが尊い在り方の筈だ。
「志藤先生、何かご存知は在りませんか?」
内心、心臓が跳ねた。思考に耽っていたせいで構えていなかった。
「いえ、私は何も」
冷静に繕う。その言葉により、職員会議は特に議題がなくなったようで解散となった。
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志藤は倫理を担当していた。
教職に就く前は民俗学全般を習っていた様で、その方面にはかなり詳しいと聞く。どの程度かは知らないが、少なからず他人に教えられる程に知識はあるのだろう。
倫理は善悪や規範と規律――死や意識について学ぶ学問だろう。なら志藤は自分自身をどう思っているんだ。自分の知識では、自分自身をどう捉えるんだ。生きているのか、死んでいるのか。滑稽でしかない。
志藤の目を見ても私は何も感じない。視線が交差しても“視線が合った”という認識に至らない。
声も低くて渋いくせに、重圧感が無い。とても軽く、まるで幻聴のようだ。
顔も表情を宿さない。
志藤は虚い。そも、志藤が何故生きているのか理解出来ない。恐らく志藤は死にたくないとも思っていないだろう。死ぬ意味が無いから死なないのだ。
もし志藤が虚無主義だとしたら、それは究極に体現したものと言えるのかもしれないが。
実に滑稽なものだ。
授業の終わり、チャイムが鳴っている中、またも彼女は私のところへちょこちょことやってきた。本当にもう、面倒なことこの上ない。
「ウラちゃん……また凄い顔してたね」
苦笑いを浮かべながら、芹河瀬織は言う。
私なんかと関わるメリットに皆目見当がつかないのだが、何故か瀬織は積極的に話しかけてくる。瀬織は休み時間にもよく談笑をしているので友達が少ないということはないだろう。何より、彼女のような屈託のない笑顔を見せられるのはとても稀だ。あの笑顔に惹かれない者などそうそういないだろう。私も、瀬織の笑顔は素敵だと思う。そして、自分もあんな風に笑えたらと、少しは思う。
「そんなに志藤先生が嫌い?」
急にその笑顔を近づけられて少し肩を震わせてしまった。一度咳払いし、自分の思案を悟られないように言葉を返す。
「……そうね、得意ではないと思うわ、私も。あの人は何も虚い――いえ、何処か暗いんですもの」
土壇場で言い直した。何も虚いというのは私個人が感じた事だ。一般的には暗いと表現した方が伝わるだろう。
「そうだね……でも、それも仕方ないんじゃないかなぁ。志藤先生の奥さん、二年前に交通事故で亡くなったらしいし」
「……」
かわいそうだよね、と目を伏せる瀬織をよそに私は何か胸を打つモノがあった。
妻の死。人の死。……彼は体験したのか、他人の死というものを。
「そうか、志藤は、独りなのか」
私は知れず、呟いていた。
彼はまだ若い。二十歳を過ぎたぐらいの筈だ。なら、恐らくまだ子供はいないだろう。いや、もしかしたら、事故で亡くなったのは妻だけではなかったのかもしれない。その身に宿す……。
家に帰ると中は暗く、誰からも迎えられない。食事も一人で、寝る時も一人で。朝起きても誰もいない。それは一時の孤独ではなく永遠の孤独。幸せの絶頂、という時に突然やって来た死。身構える事も出来ず、ただ横暴に命を奪っていくだけの。
それは何と悲しく、何と虚しいものなのだろう。それこそ、妻と共に心が同時に亡くなったも同然なのだろう。何故私が志藤に引っかかりを覚え、苛立ち、自分と被せていた理由を確信出来た。
彼は三年前の私と同じ、孤独だった。他人を拒絶し、自分の世界に浸る。それはとても安全で、安心でき、心休まるが、とても虚しいものだ。
私はもうあの時のように独りには絶対になりたくない。だから、絶対に失くしたくはない。そんなものが出来てしまった。出来て、良かった。
しかし一度失くせば、私は三年前の――いや、今の志藤と同じになるのだろう。それは末恐ろしい事だった。
「……それにしても志藤先生、指に怪我してるなんて、まるであの遊びをやってたみたいだね」
「あの遊び?」
「知らない? ウラちゃん。今学園で噂持ち切りなんだよ」
全く見当がつかない。しかも学園では噂持ち切りだという。そんな話題を知らない私は、やはり社交性としては壊滅的なんだなと改めて認識する。何せ学園で何度も話しかけてくる人間など殆どいなく、瀬織ぐらいだ。
思案顔を見かねたのか、瀬織は声を掛けてきた。
「ほら」
瀬織は指を伸ばし、教室の片隅で談笑している女生徒を指した。
「あっちと……そこと……あっ、今廊下歩いてる人もそうだ」
瀬織が指さした人物は皆、片手の人差し指に絆創膏を付けていた。
「ね、皆やってるでしょ」
「そういう、遊びなの?」
指に絆創膏を貼る、という何とも奇妙な遊び。実際、そんなものが在っても意味が分からないものだが、有り得ないとは言い切れない。世の中はどんなものが流行るか分からない。
しかしそんな予想と瀬織の言葉は違った。
「私も、よくは知らないんだ。でも、なんかおまじないだって。自分の血を使って何かするみたい」
ちょっと怖いよね、と瀬織は苦笑する。
「……ふぅん」
何故か、興味が湧かなかった。
魔的な観点で物を言えば、血とは魔術的な、霊的なモノの影響を受けやすいと聞く。それは生命の源だとか、魔除けの意味があるだとか理由ははっきりと解らない。例えば、防衛用の結界を張れば強く魔術に対し反発するようになり、逆に魔術の触媒として使用すれば効率は何倍も上がることもあるのだという。まあ、あの喫煙魔の様に専門家ではないので詳しくは分からないが。
けれど確かに、血液には惹かれるものがある。――冷めた血には何の感情も抱かないが。
「何かね、勇気無くて告白できなかった娘がそのおまじないやったら、その好きな人とうまくいったんだって!」
瀬織は目を光らせている。なんて素直な娘なのだろう。純粋に喜び、その効果を素敵だと思っているのだ。まるで無邪気な子供そのもの。
「……そうね、素敵ね」
「あ、笑った!」
「――え?」
突然、瀬織は声を上げた。顔は先ほどよりさらに笑顔になっている。
「ウラちゃんが初めて笑ってくれた。……ウラちゃん、やっぱり笑うと可愛いね!」
その眩しい笑顔に、私の胸は恥ずかしさと、それと同時に喜びを感じた。素敵ね、と言ったのはあなたのことなんだけれど、と心の中で苦笑する。
公舎に備わった時計を見上げる。長針、短針共に六の数字を既に回っている。何故私がこんな時間まで学校なんかに残っているのかといえば、とても不愉快な理由があった。
掃除の時間の最中に担任の武井から職員室に来て欲しいと言われ、断る事も出来ず頷いた。そして面倒臭い掃除を終え、早く帰ろうと思い直ぐに職員室に向かったところ、専ら職員達は会議を行っていた。武井の姿が見えないことから武井も会議に参加しているのだろうと判断した。
そのまま待つこと一時間。会議が終わる気配は一向にない。そのまま更に苛々しながら数十分待つ。
今思えば、近くを人が通らず避けるように歩いていたほどだから、傍から見て私はよほどだったのかもしれない。
……確かにその時の心情を察するに、武井の姿を見た瞬間に殴りつけていたかもしれない。しかしその一方で、仕方ないというのも理解はしていた。あの連続猟奇事件が起きている為、学校でも何らかの対策を練らなくてはいけないのだろう。恐らく、今も会議が続いている筈だ。
軽く嘆息し、暗い校庭を歩いて帰宅することにする。
誰もいない、校舎と住宅の細い道を歩いていく。
電灯は所々点滅している物もあり、管理が行き届いていない寂れた道だという事をひしひしと感じる。ひたひたと、自分の足音だけが夜に闊歩していた。
数分もすると大通りへと出た。まだこの道は車も多少通っていて、普段通りの煩さを保っていた。それでも、やはり歩行者の姿は減っていた。
スクランブル交差点の赤を示している信号を見上げる。数分、待たなければならない。スクランブル交差点の場合、歩行者と自動車の信号切り替えの割合が二対一になってしまうため、待つ時間は通常よりも長い。多分。
車の風で靡く髪を抑えながら、対面にいる少しの人だかりに目を向けると、
「――瀬織?」
人を縫って、向こうの歩道を歩く瀬織の姿が見えた。そうか、瀬織の家も同じ方面なのかなどと思いながらその姿を見送る。
だが、不意に嫌な予感に晒された。夏なのに身体が冷えるような錯覚を覚える。虫の知らせ。それは私に流れる“血”が齎すものなのか。とにかく今、羽羅はそんなものを感じていた。
思わず、唾を飲み込む。
瀬織が向かう先は、恐らく公園に行きつく。公園自体を横切るかは分からないが、あそこの周辺は住宅しかなく、人が歩く姿は滅多に見ない。加えて今は八時はとうに過ぎている。辺りはもう暗くなっていた。
「……」
信号が変わった。ひとまず、渡り切ることにする。人を避けつつも、頭では考えを巡らせていた。
単純な二択の選択肢。瀬織の後を追いかけるか、追いかけないか。
渡り切り、一瞬悩んだ後、後を追いかけることにした。止めて、後悔するのはご免だ。
五十メートル以上離れ、瀬織の背中を追う。見つからないよう、気配を殺して、近づきすぎないよう後を歩く。
歩くこと数分、問題の公園へと差し掛かった。なかなか敷地の広い公園で、遊具の施設はないものの、噴水や至る所にベンチが設置されていたりと休む場所としては最適だ。恋仲同士で来る人達も多いと見受けられる。しかしそんな華々しい公園も、今じゃ心霊スポットのように寂れている。
原因は他でもない連続で起きている事件に他ならない。江代市の住民は皆恐れ、夜に出歩くことを避けている。あれだけ変異的な死に様を見せつけられてはそうするのが自然だろう。
やがて瀬織は何事もなく公園を通り過ぎた。
杞憂に終わったか、胸を撫で下ろすのも束の間――公園から一人の男が出てきた。階段をゆっくりと降りて、道路へと出てくる。
暗い中でも、私にははっきりとその男が見えていた。一見、スーツを着た普通の会社員に見える。しかしその両目は痙攣したようにビクビクと絶え間なく動いていた。
明らかに普通ではない。
警戒心を強くし、再び様子を見る。このままなら、瀬織が家に帰るまでついていくことも有り得ると覚悟を決める。
だが、異変は直ぐに起きた。
男は階段を降りると同時に、駆け出した。瀬織に向かって一直線に。男の速さは人間の其れではなかった。獰猛に暗闇の中、獲物へと向かっていく。
「瀬織!」
力の限り叫ぶ。
彼女の耳に届いたようで瀬織はゆっくりと振り返った。しかしその動作には危機感が全くない。自分が今どういう状況に晒されているのか理解していないようだ。
「ウラ、ちゃん? ――きゃあ!」
瀬織が振り返ったと同時に男は瀬織に飛びついた。体全体を両腕で抱きしめ、倒れこむ。倒れこんだ拍子に、瀬織は地面に頭をぶつけたようで苦しそうに呻いた。
「痛い、痛いよぉ……」
訳が分からないまま、体は地面に倒され、頭部には激痛が走っている。瀬織はそんな突然の出来事に対応出来ていなかった。
頭からは血を流し、瞳は涙を滲ませていた。恐怖と痛みで身を竦み、抵抗出来ていない。男は貪るように瀬織の体を蝕んでいく。
「お前――!」
ふっと、何かが切り替わるように私の前進は熱に魘された。悲鳴を上げている。皮膚が、骨が、髄が。負の感情、心の醜さ。そんなもの心を満たし、身をも満たしていく奇妙な実感。実態を持った感情が、全身を駆け廻る。快感にも似たその感覚。実に不愉快だった。
髪が焼ける錯覚。瞬間に、私の視界に入る黒かった長髪は、燃えるような紅い髪へと変色していた。
地面を蹴る。獣のような強い踏み込み。男まで一息に、さながら弾丸のように駆ける。視界は後方へと高速道路の様に流れていく。
自分でも気持ち悪いほどの俊敏な動き、ヒトとしての姿形をしていることを否定したくなる人外的な疾さ。
五十メートル。刹那の間にその距離を詰め、男の頭を片手で豪快に掴んでいた。駆けた軌跡を髪は流れ、紅の線が宙へと残す。そのまま頭を引き寄せ、瀬織から強引に手を放させた。
「下衆が!」
持っている頭を振り被り、離れた地面へと投げる。ボールのように男は跳び、苦しげな声を上げ地面を転がっていった。羽羅は転がる男の背中を踏みつけ、髪を掴み顔をこちらに向けさせた。
「お前は何をしていた!」
男を睨む私の眼は髪のように紅い双眸へと成り変わっていた。見る相手を射る眼、それが男の瞳に反射している。血が具現したような紅い禍々しい眼。眼という器官を利用し、怒りと憎しみを叩きつける。
「答えろ!」
再び強く睨む。
しかし男は白目を向き、口から泡を吹くだけで何も反応を示さなかった。無意識に舌打ちしてしまう。男の頭を乱暴に放す。鈍い音を立てて男は冷たい地面に横たわった。
「瀬織、大丈夫?」
倒れている少女へと駆け寄り、抱き抱えた。何が目的だったのか、その制服は少し乱れている。もしかしたら何処か破けていたり、ボタンが外れているかもしれない。
頭からは血を流している。まずは意識を確かなものにしないと、後が怖い。
「ウラ、ちゃん……?」
呆――と舌足らずに瀬織は喋る。意識が混濁してきているようだ。
「ええ、そうよ。大丈夫?」
「ありがとう、ウラちゃん。……えへへ、名前で、呼んでくれたね」
弱々しく呟くと、瀬織は目を閉じてしまう。
「瀬織……?」
最悪の事態が頭を過る。死という生命の終止符が。
そんなことは厭だ。あんな思いは、したくない。
「……瀬織?」
しかしそれも余計な心配だったようだ。定期的な寝息が聞こえる。ただ気絶しているだけ。あまり豊満とは言えない胸が上下している。
知らず安堵の息を吐いた。
幸い、そんなに人間というものは脆くないらしい。




