第一章 永劫回帰(ウロボロス)/1
§
それは、氷結した黒堂の世界だった。
振り切れた嗤いが部屋に響く。そこは沈んだ世界で、届かぬものしか存在しない異空の間。淀みは逃げずに溜まるだけ、何も感じぬのなら気付かぬだけ。ならば、そこには狂気しか生まれなかった。
声に風刺された駆動音がけたたましく響く。命殺める鋸は、男の腕を容赦なく切り刻んでいった。回転する隆起は肉を塵にし、血をそこから生まれさせる。
狂ったように笑いながら男は鋸を振り回した。その向く先は、自身の四肢である。
回転する刃が足に触れていく。回る牙は肉を喰っていく。それは躊躇いなく骨を折っていく。男は、最高の歓楽を得ていた。
痛みなど感じない。現実の様で非常だった。冷えた中に、温い血を浴びていた。それが何なのかは分からなかった。ただ、そのあかいものが出るたびに、男は絶頂を得ているという事だけだった。
男は狂乱するように、悦に浸っていた。
その暗い部屋は、赤く染め上がっていた。
§
夕焼けが開いた窓から差し込む中、高司羽羅はやって来た。
「今日は泊まらせて。帰りたくないから」
ぶっきらぼうにそう呟いて。羽羅は狭い玄関に靴を脱ぎ捨て、音を立てて部屋へと上がってくる。事前に連絡など受けていない俺は寝ていたところだった。
俺は男で羽羅は女性……なのに何故そんな羽羅が家に来るのか、理由はあまりにも単純なものだった。自分の家に居たくない。それだけだった。羽羅の家は檻の中らしい。無論例えだが、本人にとってはそうらしい。そんな家に居たくなくて、かなり頻繁に俺の部屋に上がり込んでいる。それに他意があるのかは、よく分からなかった。俺は男として見られていないのかも知れない。
寝返りをうち、眠い目を擦りながらその姿を見る。
寝てたのに、と羽羅に攻めるあまり義理はない。今日は鍵を閉めていない俺が悪かった。
黒くて長い綺麗な髪、それとブレザータイプの制服とを細身の体は纏っている。
羽羅の髪はとても素晴らしいものだった。陳腐な言い方をすれば烏の濡れ羽。適当な言い方をするとなると、思いつかない。要は俺のボキャブラリーを超えた美しさを持っているという事だ。――だけどその黒髪は紅い。
羽羅は、りん、と釣り上がった目尻を携えて口を開いた。
「何、寝てたの? 自堕落ね」
「……四時まで、徹夜で書類整理してたんだよ。あの人、そういうとこずぼらだから」
今は六時過ぎ。実質一時間も寝ていない。
活動時間が三十八時間に対して睡眠時間が一時間というのは、身体が怠いとかそういう次元ではない疲れを感じさせるのに十分だった。とにかく眠い。
「……確かにそうね」
羽羅は淡白に返答をしてくる。でも俺はそれを特に不快だとは感じない。いつものことであり、これが羽羅なのだ。
「寝てていいのよ? 私は勝手にしてるから」
この気遣いとも何とも取れない言動……そもそも、寝てていいも何も今居る場所は他ならぬ俺の部屋なのだ。狭いのはご愛敬。キッチンにトイレ付きのワンルームなら若者には十分だ。
でもまあ、今は何分眠い。お言葉に甘えさせてもらうとしよう。
「……ご飯、作ったら起こして」
もそもそと羽羅と逆側――窓の方を向いて目を瞑る。
分かったわ、と呟きながら羽羅はがたがたと音を出した。テレビのリモコンでも手に取ったのだろう。直ぐにアナウンサーの落ち着いた声が聞こえた。
今時珍しく、羽羅はニュースしか見ないひとだった。バラエティや歌などに興味はないらしい。若者らしくない。羽羅くらいの年ならば、ゴウだのゲンジだののアイドルにうつつを抜かす年頃だろうに。
「三人目……」
羽羅がそう呟いた。
何のことかは知らないが、ある程度予想はついた。あまり関わりたくない話題だ……無視しよう。
「ん」
……西日が少し眩しい。暗い視界の筈がその黒は橙色に変色していた。
けれど閉めるというのも面倒臭い。身体は物凄く重いのだ。加えて寝返りを二度うったせいで薄いタオルケットは身体に巻きついている。些細なことだが、それが何とも心地悪かった。だけどそれを直すのもやっぱり面倒臭い。
瞼を閉じたまま緩慢な動作で布団を引っ張り直していると、カーテンを閉める音が聞こえた。羽羅が閉めてくれたようだ。
俺が寝にくいことを分かってくれたに違いない。……テレビが見にくかった、ということはないと祈りたい。
▲
伊佐見諾は急な客人に嫌な顔一つしなかった。私が泊まるなんてことより、とにかく眠くて堪らないという感じだ。
諾は緩慢な動きで身体を動かすと、私に目を向けてきた。
一途にじっと見つめ続ける濃い黒目。それに私は吸い込まれそうな錯覚を感じる。何を見ているのか――いつも遠くを見ているようなその眼は、遠くを見ているようで内側を見ているような曖昧さがある。全てを見透かされているような、そんな。
私はこの眼が苦手だった。
「何、寝てたの? 自堕落ね」
「……四時まで、徹夜で書類整理してたんだよ。あの人、そういうとこずぼらだから」
欠伸交じりにもそもそと喋る。諾は、私の嫌味にも変わることなく答えてきた。
諾は人の言葉に対し、防衛という行動を取らない。そのまま受け入れてしまう。言い訳はしない。ただその事実を受け入れ、理由を話す。これらの行動は似ているようで大きく違う。強いというべきか、ある意味で愚かと言うべきか。せっかく回る舌を持っているのだから、もう少しこずるく使っても良いと思うのだが……。
とはいえ、諾がこんな姿になっていることなどかなり珍しい。本当に疲れているらしい。
「……確かにね。……寝てていいのよ? 私は勝手にするから」
「そうさせてもらう……ご飯、作ったら起こして」
意識が朦朧としている中、ちゃっかり夕飯のことを頼んでおく辺りしっかりしていると思った。ああ言われてしまったら自分一人の分だけ作って食べるというわけにはいかないだろう。
軽く溜息をつきながら、リモコンでテレビをつける。
ブラウン管の安いテレビだった。中古で買ったらしい。諾はあまり品質に拘らない、見れればいいというタイプだ。いや、だとしても画面と音の両方に少しノイズが入っているのはどうかと思うが。これで満足なのだから安上がりな奴だ。
テレビに目を向けると、何やら気になる事件を取り上げていた。
「三人目……」
誰ともなく、私は呟く。
アナウンサーは、連続殺人事件の三人目が現れたとニュースを読み上げていた。
今回で三件目。これからマスコミも本格的に連続“猟奇”殺人事件と銘打って報道することだろう。
内容はなかなかに酷いものだった。一件目、被害者の名前は白鳥信也。会社員。猿ぐつわをされた状態で巨大な杭のようなものに股から頭部に貫通し殺人。殺害方法は拷問に使われるもので、自重により杭が徐々に深く刺さっていくというものだった。犯人の名は被害者の同僚の飯川順次。被害者の死体の前で倒れていたらしい。警察の調査により飯川が容疑者として逮捕された。ただしその後の容疑者は昏睡状態に近く、意識はあるようだが外部からの刺激になんら無反応で、尋問は滞っている。
二件目は淫楽殺人。被害者の名は大谷弓子、OL。十代前半の女性が首を絞殺され、かつ全身を隈なく刺され死亡していたという事件。どちらが先かは分からない。そして何故か、加害者の男性は女性の目の前で呆然と立ち尽くしていたらしい。名前は遠藤竜也。加害者と被害者の明確な接点は見つけられず、通り魔殺人となった。現場の証拠から後に分かった事だが、遠藤はネクロフィリアだという。呆然としていたのではなく、悦に浸っていたのかもしれない。
今報道されている三件目も、また他に負けず劣らず奇妙な事件だった。食事前にはあまり聞きたくない内容だ。
そして何を意味しているのか。これらの事件全ては、私達のいる町で起きていることなのだ。
――髪が焼ける錯覚。
私はテレビを消し、狭いキッチンへ向かった。泊まらせてもらうのだから料理をするくらいならお安い御用だ。幸い諾は味に煩い奴でも無い。
私は今の学校を卒業したら一人暮らしをするつもりだから、料理は覚えておかなくてはいけなかった。丁度良い機会だ。
食材を見ようと、冷蔵庫を開けて――思わず絶句してしまった。何も無かった。あるのは醤油とケチャップと天ぷらの衣のカスだ。これを見て諾の財布の温かさが分かった。軽く嘆息する。
仕方ない。買い出しに行って来よう。特別に奢るとする。後で礼を言わせよう。
諾を見ると、不機嫌そうに身動ぎしていた。
しかし私は諾より後ろで光る橙の光に意識がいった。意図せず目が窄まる。諾の部屋全体は鮮やかに橙色で照らされていた。とても眩しい。……諾も、眩しそうだ。
カーテンを閉めることした。
「……それじゃ、買いに行ってこようか」
足元で寝息を立てる部屋主を見ながら呟く。返事するように、諾が少し身じろいだ。
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羽羅と知り合って一応、約三年。
数多くいる人混みの中、彼女が一際目立っていたことをよく覚えている。皆がすれ違い様に振り返っていた。俺もその中の一人だ。憂いな表情を浮かべ、淑やかに歩く羽羅の姿は大和撫子という言葉がとても似合う。
だが、容姿のイメージと性格が一致するとは限らない。外見とは裏腹に性格はお淑やかなものではなかったのだ。お世辞にも大和撫子なんて言えない。家で作法の習い事はしていたのだろうけれど、それはあくまで家の中だけ、そして仕方なくということなのだろう。今思えばあの時見せていた憂いの表情はただ面倒臭く気落ちしていただけに違いない。
だけど俺には、そのアンバランスさが“らしい”と感じてしまっていた。
無口で無愛想。それが周囲の持つ印象だ。誰かと雑談する訳でもない。授業中などの必要最低限しか喋らない。そのあまり聴くことのない稀有な羽羅の声は、鈴のように澄んだ声で耳に響いた。
羽羅は孤高の存在だった。誰も必要とせず、強く在り続けた羽羅はきっと誰よりも孤高だった。
だからこそ、羽羅は誰よりも孤独だった。俺には、彼女が酷く脆く可憐に視えていた。そして、遠く視えた。
人を拒絶し、自らを檻に閉じ込め、人から遠ざかる。とても悲しい生き方。
……今日閉め忘れたのは運が良かった。あの煩いインターフォンで起こされるより、羽羅の足音で起こされた方が何倍も良いに決まってる。
――
目が覚めると、味噌汁の良い匂いが鼻孔を刺激した。思わず鼻をすんすんと鳴らしてしまう。
「……ご飯、作ってるのか?」
定期的にまな板を叩く音がする。とてもリズムカルでこなれている事が良く分かる。
「ええ、そうよ」
「……あれ? 材料あったっけ?」
「無かったわ。だから買ってあげた。冷蔵庫に沢山入ってる」
「本当? 恩に着る。給料入ったらちゃんと返すよ」
羽羅の家は大金持ちだ。並大抵ではない。よく分からないが何とか時代に頂点に立った五本指に入る程の凄い家だったらしい。
だからと言ってお金のことに関してはおざなりにしてはいけない。百円二百円の細かいものならまだしも、冷蔵庫一杯の食材なんて大金――俺は安月給だから紛れもない大金だ――を有耶無耶にする訳にはいかないだろう。金銭的なものはきちんと始末をしておかなければならない。良くない縁が出来てしまうから。そして大抵その縁は良い“色”をしていない。
「……別に、着なくていいわよ、宿泊料だと思ってくれれば。礼は言わせたかったけど」
「どっちさ。まあどちらにせよ、そう言う訳にはいかない。でも助かったよ。実は千姫さん、給料くれなくってさ、先月分の。もうこれからどうしようかと。しょうがないから向かいのパン屋さんにパンの耳貰って食いつないでいこうかと思ってた」
体を起こし、胡坐をかく。
六月に入って既に五日、金が本格的に尽きてきたのだ。五月分の給料は貰っていない。財布には千円しか入っていない。貯金はないことはないが、それに手をつけるのは本当に最終手段だろう。
やはり他に確実性のあるバイトを入れるべきか真剣に考えてみた方が良いかもしれない。一ヶ月分の給料で二ヶ月過ごすなんてのは先が見えないにも程がある。
「何で千姫は給料渡さなかったの? あんた、何かやらかしたの?」
「いや、俺は至って優良な助手を務めてた。ただ、入った金で一気に道具を揃えたって言ってたかな」
「ああ……成程。大事な商売道具ね」
羽羅は皮肉気に笑った。何とも羽羅らしい笑いだった。妖しげで美しい。
こうして話している間も羽羅の手は止まることなくテキパキと動いていた。料理は勉強中という割には、様になっていた。まぁ、あたふた慌てふためく羽羅なんて想像つかないんだけど。
――
羽羅の料理は美味しかった。
炊き込みご飯に豚の角煮、冷奴に味噌汁。和風に中華が一品。きっと家柄そうなったのだろう。空いた腹に入ったから旨かったのか、羽羅の料理の腕が良いから旨かったのか。多分、どちらもだろう。
何にせよ、羽羅の料理は上達していた。
食事も終わり、茶を啜りながらテレビに目を向けていると、
「三人目、出たわよ、猟奇殺人事件」
髪を耳に掛けながら、何でもないように呟いた。
あまり羽羅はそういうのに堪えない。俺は答える。普通の感性は持ち合わせているつもりだ。例え身近な人間がどうであれ。
「そうか」
だから、それ以上何も言えなかった。
暫く二人でテレビを眺める。
「でも……やっぱり酷いな。一ヶ月の間に三件は」
自然と漏れた言葉だった。
頻度もそうだが、加えて手口も酷い。羽羅の口からはまだ出てはいないが、三件目も残酷なものなのだろう。
「そうね。調べてみる必要、あるんじゃない? ……何か町で視たりはしなかったの?」
「眼鏡、掛けてたから」
「……そうね、視ないに越したことはないわ。度を過ぎると、諾は廃人になる」
羽羅は諭すようにそう言った。
▽
羽羅が学校へ行くのを見送ってからの昼過ぎ、俺は裏通りにある煙草臭い、その割には小奇麗な事務所を訪れていた。
【九十九探偵事務所】――なんてテナントビルの壁に看板を掲げている。その探偵事務所こそ、俺が務めている仕事場だった。
「やあ、おはよう。伊佐見」
扉を開けて出迎えたのは年齢不詳な見た目二十代前半の女性。どうしても教えてくれないのだ。女性はデスクに肘掛け、微笑むように言った。
挨拶が時間に相応しくないのは多分ついさっきまで寝てたからだろう。
「こんにちは、所長」
一本に束ねられた長い髪が、後ろから首元で前に来ていた。その髪型は一見してお淑やかな女性を想像させる。
「体は大丈夫かい? 疲れはとれた?」
「いえ、生憎取れてません。くれる物をくれれば元気にもなると思うんですが」
「今日はまた別件で忙しくなるよ。ほらほら、そんな寝ぼけた顔しないで、顔洗ってきなさい」
背中を押して洗面所へ押しこまれていく。事実は隠蔽したいようだ。……辞めようか、この仕事。
――
「伊佐見にはこの資料に目を通してもらう」
ドスンとデスクに置かれた山を凝視する。積まれた物の本当の姿があるならそっちを見たいからだ。
「これを全部、ですか」
「そう、これを全部。警察から借りてきた」
山の構成内容は二穴式の大きなファイル。表紙に貼り付けられた白いラベルに『江代猟奇事件・一』という文字が書かれている。他でもない、この町で起きた連続殺人事件の事だった。というか何でそんなものを借りれるんだ。
「知ってる? 三件目」
千姫さんの声調が変化した。低く、畏怖を与える要素を孕んだ声。この手の話になると千姫さんはいつも堅くなる。
「……内容自体は知りません」
「そう。三件目はね、バラバラ殺人事件。鋸で片手両足の三肢切断による失血死。ただし奇妙なことに死亡者の残った片手には凶器で使われたと思われる鋸が握られていた。まだ調査は終わってないから何とも言えないけど……他殺として調査していくだろうね。まぁ、自殺なんてのは有り得ないんだけど」
そう淡白に千姫さんは締めくくると、煙草を取り出した。
「…………」
思わず歯噛みしてしまう。
色々な感情が鬩ぎ合っているのが自分でも分かった。被害者に対する同情。加害者に対する怒り忌む感情。何も出来ない自分の不甲斐無さ。口を開けば千姫さんに怒鳴ってしまいそうで、それを堪えるしかなかった。
深呼吸する。それによりどうにか落ち着き、喉をまともに動かすことが叶った。
「それで、何故俺達がこのことを調べるんですか? 誰かからの依頼ですか?」
「いいや、違うよ」
煙草を口に加え、煙を吐きだした。ゆらゆらと、煙は上がっていく。手の届かぬ場所まで。
「――魔術師としての勘」
魔術師は嗤った。
――
ファイルの中身は警察の検死結果の資料や二件目までの被害者と犯人の周辺情報の詳細だった。まだ三件目は資料がまとまっていないらしい。何故、千姫さんがこんな部外秘な物を持っているのか。それは彼女の魔術師としての特権か。単にコネがあるだけなのか。ただどちらにしても、あの人なら、といった感じで納得がいく。
一件目の資料を見る限り、特に皆怪しいところはないように見えた。猟奇的な殺人を行ったこと以外。知人の証言や本人の財政や家庭環境。様々な要素で見ても、目立ったところはない。一般的な普通の住民だ。順風満帆で、これから出世の道を歩んでいくだろう者もいた。
「はい、そうです、当日――はい。……ええ、はい。そうですか、ありがとうございます。いえ、助かりました――はい、失礼します」
千姫さんは先程からひっきりなしに電話を掛けている。恐らく死亡者の知人に宛たっているのだろう。
警察が尋問すると、あまり細かな情報は出にくいという。緊張し、構えてしまい、余計な事を言ってはいけないのではないかという心理状態にも駆られるかららしい。だから民間で聞き出せば、うざったがられる可能性はあるものの警察とは違った観点の証言が浮かび上がる事もある。これは調査に於いて探偵が警察に勝っている点の一つであった。
普段とはワントーン上がった声で尚も別の所に電話を掛けていた。虱潰しに訊くつもりらしい。気合いは十分に入っていた。探偵より魔術師の方が本業なのだから、当然と言えば当然だった。
千姫さんは自称魔術師。所謂――魔法使いだ。
自称とは言ってもこちらは魔法のような行いを目の前で見せられたので全面的に信じている。それに俺自身もまともではないので魔術師の存在など容易に認められた。
普段探偵を構えているのは偽装も兼ねた擬態性を追求した結果らしい。
千姫さん曰く
「昔と違い、現在の魔術は科学と科学の間に潜むようにして存在している。例えば、魔術を行使して殺人を犯したら科学的に殺人を犯したように見せかけたりといったように。それに魔術に関する法令によって、社会に大きく影響を及ぼす行為をすると犯罪とみなされ、魔術の団体から処分が下るからだ。言わば自治団体。それは死という報いを平然と運んでくるほどに厳律なものだ。
だから派手に行動は出来ない。従って一般に紛れて調査するには探偵という職業が一番自然だ。ある程度の事なら、行動に起こしていても違和感が無い。逆に警察に身を置くと、行動に及ぶ範囲は広くなれても縛られることが多くなるから不適当。だから探偵を選んだ」とのこと。
彼女は表と裏の顔を使い分けている。表向きは頼れる女系探偵。裏では団体に所属し魔術師を罰する報復者。とりわけ、俺なんかを相手にする時はそれらの中間だろうか。
そんな彼女と俺は二年半関わってきたのだ。
▲
授業が終わると直ぐに教師から声をかけられた。
「高司、今からついて来てくれ」
堅い無機質な声が私の耳に届いてくる。
「あ、はい」
気乗りはしないが仕方ない。鞄に教科書を仕舞う作業を辞め、教師の背中を追うことにした。
――
歩くこと数十秒。三階から五階に教師は上がっていき、一つの教室に入っていった。そこは社会科準備室。よく分からない資料が大量に保管されている物置のような場所だ。
カビ臭いに嫌気が募る。
「これを運んでくれ」
「これ、を運ぶんですか」
「そうだ、頼む」
目の前にあるのは段ボール四つ分の教材。倫理学の問題集と追加の教科書。うんざりすることこの上ない。
「行くぞ」
表情を変えずに教師は足下の段ボールを一つ持った。二人でこれらを運ぼうという意味らしい。とても面倒臭い。
これも全部、諾のせいだ。
何が「羽羅は人と話す機会を増やした方が良いよ。話す相手が家の人と俺と千姫さんだけじゃ幾らなんでも人との関わり合いが少なすぎる。もっと人を好きになろう。だからまずはクラスの理事長になってみるんだ、羽羅」だ。
こんなの、ただの雑用係じゃないか。素直に言うこと聞いた私も私だけど。
確かにヒトと話す機会は増えたが、別に良いと思えるもんじゃない。どうでもいい学校の事を考える不毛な生徒会会議なるものに参加しなくてはいけないし、今みたいに何かあれば直ぐに私を使う。
でも、あの時みたいにヒトを拒絶していると諾に怒られる。
何処から聞いているのか知らないが、私が粗暴な態度を取ると直ぐに諾に伝わってしまうのだ。そうすると諾は怒って部屋に泊めてくれない。それは非常に困る。またあの家に帰り続けなくてはいけないと思うだけで憂鬱だ。そんなことにはなっては欲しくない。
だから仕方ないので使われてやる。
だが、少し柔らかい態度をすると男が寄ってくる。これだけはどうにかならないものか。
――
「御苦労。もう戻っていいぞ」
教師はあっさりと去って行ってしまった。後には何も残らない。
ああ、そうだ、志藤。これが彼の名だ。
志藤の声は、重く渋いが威圧感のない声。何とも奇妙な響きだった。
それにしても――まぁ他人のことを言えた義理じゃないんだが、あの教師は本当に笑わない。決して表情が崩れない。いつも堅い表情をしている。彼は何が楽しくて生きているんだろう。
……他人のことを考えるなんて、柄じゃないな。思わず苦笑してしまう。
ごまかす様に、志藤の背中から目を離す。移した先に映るのは、何とも嫌気の指す代物。
「まだ、仕事は終わってないのよね……」
次はこれらを配らなくてはならないのか。
私が問題集に手を伸ばすと、数人の女子が駆け寄ってくるのが見えた。手伝ってあげるとのことだ。
丁度良い、有り難くお前らを使わせて貰おう。
「はい、お願いします」
私は笑みの仮面を被った。
▽
今日も私は諾の部屋に来ていた。
諾の部屋があるアパートは丁度学園と私の家を結んでその中間にある位置だ。だからバスでも使わない限りアパートの近くを通ることになる。
そうなると私の気持ちは傾いていく。
わざわざ堅苦しい遠くにある家に帰るのと、何も気にすることのない通り掛かりの位置にあるアパートじゃ後者に揺らぐに決まっている。
「おお、可愛いな」
動物園でコアラの赤ちゃんが生まれました。そんな声がテレビのキャスターから聞こえる。
諾は笑顔で見ているが、私はコアラの赤ん坊などに興味はなかった。
……笑顔、か。
浮かんで来たのはあの堅い教師だった。誰と交流を図るでもなく、何を楽しむでもなく、何を考えているのかすらも分からない。ただ学園という機能を果たす為に働き続ける無骨な歯車。その顔に笑みが浮かんだところなど本当に見た事が無い。
何故私はあいつのことを考えているのか。――そんなにまで昔の自分と重ねているのか。
「……笑わない人間っていると思う?」
気づけばそんなことを口から漏らしていた。
テレビから目を離し、諾は考え始めた。
「別に……笑わない人ってのは、いないんじゃないかな。そういう人達っていうのは、笑わないんじゃなくて笑えない。楽しい事がなかったり、面白い事がなかったりしてただ辛かったから……俺はそう思うよ」
だけどいるのではないのか。感情が欠落した人間というのは――いや、そうか。欠落したのならそれも元は感情と呼べるものがあったということか。
「……俺は、今の生活が楽しいよ」
そう言う諾は子供のように無邪気な笑顔を浮かべていた。虚を突かれた。諾は唐突に何かを口走る男だという事を、私は再認識した。