第三章 鬼(ウラ)/7
▽
肺が焼き切れそうだった。レギナさんと別れたコンビニから、羽羅との丘まで、近いとは言え全力で走る距離などでは決してない。優に三キロ以上はあるのだろう。当然そんな距離は走れるわけがない。――そう思っていたが、実際違うらしい。人間、火事場の糞力とやらはあるようだ。
荒い息も気にせず、棒の様になっていく脚にも気を配らず、とにかく前へ前へと駆けていく。
気づけばコンビニの袋などなくなっていた。けれどそんな些細な事は気にならない。とにかく俺は、彼女に会わなくてはいけない。
数分走って漸く雑木林に到着。あとはここを回って、桜を抜けて丘へと行くだけだ――。
▽
――三月三十日。それはつまるところ、残す六日で俺の入学式が始まるという事だった。
既に制服は新調済み。筆記用具やルーズリーフなどのノート類、加えて書店での高校で使用する教科書を揃える等、準備は抜かりなかった。
後六日で入学式、とは言ったものの、実際に学校へと足を運ぶのは四月三日になる。それは何故かというと、オリエンテーションなるものが開かれるからである。何ともまあ、睡眠を誘いそうな素晴らしい行事ではあるが、参加しないわけにはいかない。中学でもそうだったように、恐らくその日に軽い課題を出されるに違いない。いやはや、何と面倒なことか。
先立つものは不安と憂鬱さだけ。期待なんて微塵もない。今の俺の心は、新しい生活に心躍る心境とはほど遠い、むしろ受験を失敗したあとのような何も力が入らない感覚の方が近かった。
そんな心で見ているからだろうか、この六畳ボロアパートがより一層ぼろく見える。
水が跳ねて染みになっているような、台所の壁も汚く見え、天井に染みつく一見怪談の類と疑いたくなるような染みにも、まるで腐ったようなものを見ている気分になる。強いては――鏡が一番、その感情を抱くのだが。
鏡に映る自分の姿。髪は寝癖でぼさぼさで、目は鏡を見ている筈なのに呆けていて、その下にはうっすらと隈が出来ている。より一層、溜息が出てしまう。
何だろうか、この惨めな姿は。たった数日で、こんな有様か。
――羽羅はいなかった。神父と別れ、あの丘へと走ったが、いなかった。いや、彼女がいない事など別に不自然でも何でもない。昼間に分かれて既に数時間が経過していた。それならば、特に彼女があそこに戻る必要はないだろうし、屋敷に戻っていったのかも知れない。正直、羽羅が一人で街を歩き回っているとは考えにくい。彼女はあまりに無知過ぎた。外の世界に対し、極端なまでに関心がないのだ。それを一緒に歩いていて強く痛感した。
そう、羽羅はいなかったんだ。
△
「あの、すいません。ここで羽羅――着物を着た女の子、見ませんでしたか?」
羽羅は見当たらなかった。周りに目を配らせてもここに在るのは、無数の、雄々しい樹と、鮮やかな花と、静かな風と――。
一人の男だけだった。群青の着物に身を包んだ、白髪混じりの初老の男。袖に両手を納めるその佇まいはとても優雅で、羽羅に対して儚く合っていたこの場所は、今に限っては清閑とした凪の様な空間になっていた。
「君が、伊佐見諾――くんだね?」
「……え? 何で」
知っているのか。
「失敬。知人から聞いていたもので。こちらから名乗るべきだったね。私の名は、高司季童という」
「羽羅、の……お父さん、ですか?」
戸惑いながらの俺の問いかけに、ゆっくりと男――高司季堂は頷いた。
顔に張り付くのは穏やかな笑み。この空間に相応しく、上品で静かな笑みだ。けれど何故だろう。確かに口も、顔の皺も笑っているのに、目は――心は笑っていないと、俺の目が色を認識しているのは。
どろどろ濁った、闇の様な瞳が細められている。
「あ……えっと――羽羅さんには、お世話になっています。それで、何ですが、羽羅は今何処にいるか分かりますか? 出来れば、会わせて頂き――」
ここまで言葉を紡いで、季童――さんの気配にぞっとする。
南から吹く穏やかな空気の流れが、いきなり極寒の暴風雪に変わってしまった。そんな状況に取り残されたようだ。酷く居心地が悪い。傍目には何も無いというのに、未だ濁った瞳は淡く細められているのに、酷く居心地が悪い。蛇の舌で舐められている。氷結を背骨に植えられた。そんな有りもしない感覚が瞳を通して後頭部に、脊髄に、全身へと這いまわっていく。
「――お引き取り願いたい。不躾で申し訳ないが、もう家の羽羅には関わって欲しくない」
彼の言葉から吐かれる言葉は、まるで血の冷えた水蒸気。耳から侵入して、骨の髄に恐怖を植え付けてくる獄の囁き。
自然、握った拳が震えていた。もしかしたら、今ここで逃げ出していないのは奇跡なのかも知れない。
「それは何故、ですか?」
凍った喉でも言葉は紡げた。ここで引き下がる訳にはいかない。恐怖で竦んでいるのは体だけだ。無様に震えて、脚は動かないけれど、思考は微塵にも鈍っちゃいない。
「簡単だよ。伊佐見君、君が羽羅の昇華を早めてしまうからだ」
「昇華?」
「そうだ。九十九さんから聞き及んでいるのだろう? 羽羅の――私達の本性を、血を、家系を」
「……」
「だから君は立ち去れ。もう羽羅とは会うな。基より、君と私達は住むべき場所が違うのだよ。――そう、間違っていたんだ。関わるべきではなかったんだ」
「――そんなこと言われて、引き下がれるわけがないでしょう」
意図せず、俺の舌は動いていた。
苛立ちで、声色は震えていた。拳も震えていた。きっとそれは恐怖ではない。
まるで不意に、飼い犬に逆らわれたような男の目を睨み返す。
「――何故君はそこまで羽羅にこだわる? たかが一ヶ月に満たない期間、相見えただけだろう?」
「簡単ですよ。俺が、彼女の事を好きになってしまったからです」
「……君は随分と、気の多い男の様だな」
「いいえ、これは――俺の初恋ですよ。それに、時間の長短は関係ありません」
男の目が窄められた。それは訝しんでいるのか、遺恨を抱いているのか。
「羽羅は君の事を、毛ほどにも感じていないとは思わないのか?」
「それは――。……でも、関係ありません。俺はきっと、彼女を傷つけてしまっている。それを一言でも謝りたい」
「それは余計なお世話かもしれない」
「それでも、何も言わないよりましだ」
「――――君は知っているのだろう?」
「知っていますよ。視てもいます。それでも――ですよ、俺は」
殺気すら感じる瞳を正面から見据える。ここで押し切られてはいけない。そんなことをただ思う。
俺の気持ちは偽りではない。ならばそれは言葉だけではなく、態度でも証明しなければならない。ここで目を背けてしまったら――羽羅に会わせる顔がない。
「……羽羅を過分に家から出すことは禁じた。もう、君と会う事もないだろう」
「な――」
それだけ言って、男は背中を見せる。
「待って下さい!」
しかしまるで、俺の言葉が聞こえていないのではと錯覚するほどに、その背中が動じることはなく、不乱に丘を下る道へと足を進めていった。
止めるすべなく、やがて群青の着物は小さくなる。
「……畜生、なんだっていうんだ」
緊張も相まってか、途端に俺の体から力が抜けた。背中の巨木に寄り掛かり、ずるずると草の上に腰を降ろす。
髪を掻き上げ、この状況に毒づく。
立ち上がる気が起きるまで数十分。それまで何も思考が働く事はなかった。
外気を寒いと自覚して、始めて俺は立ち上がり、丘を下る道を降りて、自室への帰路に着いた。
道中に、頭から羽羅の顔が離れることはなかった。
▽
だから縋るように、俺はまた丘に来ていた。当然のように羽羅はいない。ただ嘲笑う様に木の葉が擦れ合い、風が俺の肌を撫でるだけである。
羽羅がここに来なくなってから既に三日。後三日で入学式が始まるというのに、俺は何をやっているんだろうと思うが、生憎と何もやる気は起きない。きっと、羽羅の顔を一目でも見なければ俺の気分は解消されない。
三日前はここに五時間居た。一昨日はここに七時間居た。昨日はここに九時間居た。日に日に長くなる自分のしつこさに苦笑する。きっと世間一般から見たら、俺はストーカーなのだろう。しかも今日は弁当持参で来る始末。反省の色などこれっぽっちも見えない。昼の分と夜の分。朝飯を七時に済まし、ここへ来たから、これで今日一日だって居てやる。あんなんで納得行く筈がない。俺は羽羅を待ち続けるんだ。こんな気持ちで、収まりがつくか。
最悪、学校に行けば会えるのだろう。ただ、無駄だと分かっても、何か行動を起こしていたいのだ。それに、あの父親が羽羅の入学手続きをキャンセルして、他の学校にでも通わせたら元も子もない。
俺は少しでも羽羅に会う為、ここで待ち続ける。
▲
「――高司の、根絶を頼まれて欲しい?」
唐突な知人の死を目の当たりにした様な、それほどの驚愕に駆られた瞳を千姫は見開く。
繰り返された言葉に、季童は深く頷く。
「お前は、何を言っているのか分かっているのか?」
「無論です。……辟易としたんですよ。この――自身の中の血流に、厭戦にも似た想いを抱くんですよ。毎夜、悪夢を見る。いや、きっとそれは私にとっては、夢魔に見せられるそれに等しい程の、快夢なのでしょう。血は昇り、血液は循環し、欲情し、興奮しているのです。妻の、苦痛に脅え、苦しみ、阿鼻叫喚の声を上げる様を見て。……私は自らが愛した妻の、痛みにのたうつ姿に堪らない欲情を覚えるのですよ。とんだ異常者です。自己嫌悪――なんて生易しいものではありませんが、その感情を私は抱いています。私達は、“越えてしまって”いるでしょう?」
「……そうだな。それは間違いない」
「ですから、神意会に所属している貴方を見込んで、頼んでいるのです。私達は神の意思に背く存在だ。故に、貴方達の縛する――いや、滅する存在である筈です」
高司の血は、瞳は紅色に侵すと聞いた。鬼としての衝動が前面に出た場合の、覚醒眼。
普段は深い闇の色――黒い瞳だという。色鮮やかな紅とは対照的に、人間としての理性で自信を律する場合の、鎮静眼。
だが目の前の男の、瞳の黒さはどうだろう。深い闇だろうか。光が届かないほどの濁った黒だろうか。千姫には、それらが違って感じた。
ただ光がないだけ。そうとしか感じ取れない。
「……想像はついているとは思うが、私がここにいる目的はこの町に巣食う鬼の忌縛だ。その対象は次期高司家の当主、高司羽羅。それだけを終えれば私は晴れて任務終了となる訳だが……それでも?」
はい、と季童は固く頷く。
「……自らの手で、羽羅を手に掛けるということは、しないのか? まだ年端もいかない。負けるという事はない筈だ。仮にも、鬼を体現した家系の正当後継ぎだろう?」
「それは……どうでしょうね。確かにあの娘は幼く、力も上手く制御出来ないでしょう。何より、彼女はまだ一度も鬼を体現したことがない」
「……だというのに、あれだけの瘴気を滲みだしているのか。……いや、それ故に、か」
「……どちらもだと思いますよ。――あの娘は間違いなく歴代高司の中で最も降り易い体質をしている。本来喜ぶべきなのでしょう。異能を伝える家の主としては。しかしもう、私にはこの力は後世に伝える意味を見いだせない。こんな力は悲しいだけだ」
「その異能のお陰で、現在の富を築けているとしてもか?」
「確かに、それは否定出来ません。ですが、たかがそれだけでしょう。金など在り過ぎても困るのです。所詮使い道に窮するだけ。無意味に誇示する為に使用するか、無駄にばら撒く程度の使用に成り下がるのが落ちです。……それに、幾ら金があったとしても一度失った人間は決して取り戻せない。例え蘇ったとしても、それは似ているだけで――彼女では決してない」
語尾が強くなるのを感じた。季童の前に置かれた茶の水面が、僅かに小波立つ。
「――で、貴方が直接手を下さない理由は?」
「ああ……脱線しました。それはですね、あの娘は私の事を憎んでいるからですよ」
「憎んでいる?」
「ええ。あの娘は妻を――母親を愛していました。私はあの娘に愛情を向けることは出来ませんでしたからね。深く愛せば、憎悪という刃はあの娘に向いてしまうのですから。それは妻との会話で、自分なりに察したつもりでした。――私は妻を殺してしまった。それを偶然にも、見られたしまった。隠したかったわけではなかったけれど、それで完全にあの娘とは溝が出来てしまいました。恐らく大海よりも巨大な。……それで何ですよ、羽羅が今、家にいる時間を極端に無くしているのは。丁度進学までの休みになっているので、無理もないと思います。――そんな彼女に、私の、鬼としての、あの時に姿など見せたら破裂してしまう。きっと感情やら、何やらが。そうなると鬼の力が間違った方向で覚醒してしまうのですよ。そうなると羽羅は力を制御出来ない。あれは元より愛した人間を殺したことという道を通って手に入る力なのです。それを別の目的で使用してしまえば、誤った形として身に宿り、それは完全に意識の手綱を振り切ってしまいます。……そうなると、正直私に抑えられるか分からない。もしそうなってしまったら、貴女方としても困るでしょう?」
千姫は頷かざるを得なかった。
「ですから、貴女方に頼みたい。私では、禁忌の箱を率先して開けるようなものなのですよ。ですから、九十九千姫さん。どうか――羽羅を殺してはくれないでしょうか?」
「――考えておく。少し、気に掛かることがあるんでな」
千姫の脳裏に浮かぶのはあの少年の事。少女を好いて、泪すらした少年。彼を取り囲む、あの眼と付き合ってきた環境がそうさせたのかは分からないが、今時珍しい素直な少年だ。彼はあの瞳で人の感情を見続けた。
明るい色も、暗い色も分け隔てなく。所謂“心の声”のようにはっきり分からないのが、彼の瞳に映る人間というものを醜くさせる。仲が良いと思っていた友人同士を見やれば、彼らは黒い感情を抱いていたり。自らに言葉を掛ける人間の言葉の裏を、理解してしまったり。
あの眼を通して見る世界は、まるで何重ものフィルターを掛けたモノ。真実という核に、嘘というベールを何重にも、何重にも包んで放り出す虚言世界。
そんな中で見た少女の姿は少年にはどのように見えたのか。それは千姫には分かることではなかったが、それを自らの手で壊すとなると、心の中の良心が胸を痛める。
「それは、羽羅が外で合っている人間のことでしょうか?」
「知って、いるのか……?」
頷く季童を見て、千姫は心をまるで取りこぼしたような感覚に陥る。その事を知ってもなお、この男はあんな言葉を口にしたのか。――いや、むしろだからこそ、なのだろうか。
「お前は自分の娘をどう思っているんだ? ……お前の、彼女と接する心には愛はあるのか?」
千姫の言葉に季童は目を逸らし苦笑すると、
「そんなの決まってますよ」
一言呟くように言った。
「――愛などありません」
▼
目を開けて、視界に指す光の色から自分が寝ていたことに気付いた。袖を捲り、時計を見れば大体五時半。日頃の疲れが一気に来たのか、三時間以上は寝ていたようだ。
「……起きたか、伊佐見」
「うぉ! ……なんだ、九十九さんですか」
声のした方に振り向くと、片膝を立てて離れた木の根元に九十九さんが座っていた。口元では、煙草の火が瞬いていた。
「何だとは何だ……うむ、この会話は一体どれだけ使い古されているんだろうな」
「え?」
「いや何でもない。気にしないでくれ」
「まあ良いですけど……ところで、ここで何をしているんです?」
「いや、お前を探してたんだがな、見つけたら当の本人は寝ているじゃないか。蹴り起こしてやろうとも思ったんだが、まあそこは私の優しさで勘弁してやった。ありがたく思え」
そして、今やっと自分の体に黒いコートが掛けられていることに気がつく。これは、いつだったか、街で見かけたときに九十九さんが羽織っていたものだった。
「実は話したいことがあってな。まあ、時間も時間だ。何処か食事でも取りながら話をしよう。そうだな、前の喫茶店で良いか。奢ってやるから、行くぞ」