第三章 鬼(ウラ)/6
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父の言葉は数日経った私の胸に今も尚、突き刺さったままだった。
螺旋は繰り返すから螺旋。規則性と普遍性と、永劫性の象徴であるそれは、高司家の血に他ならない。嘗て純性の鬼だった者から血を受けたこの身は、呪いにも似た必然性というものが宿っているらしい。
◇
――ある、夏の日の夜。月が出てから遅くまで時間が経っても寝付けなかったある日の夜、私は母の寝室へと独り向かっていた。特に何を考えていた訳ではない。ただ眠れなかったから、深い思考など無く、自然に母の元へと向かっていただけ。
あの日はよく月の光が出ていたことをよく覚えている。行燈の明かりを持ち歩かずに、支障なく廊下を歩けるほどに、月の光は屋敷を照らしていた。眠れなかったのはそれが原因なのかも知れない。
ぎしぎしと音を立てながら、心細い気持ちを抱えて、私は母の部屋に辿り着いた。
そこで見た光景は――父が母を切り裂く姿。
爪が伸び、牙が生え、眼が紅くなったその姿はまさに鬼だろう。血をぶちまけ、脳漿を撒き散らし、肉片を切り刻まれ、部屋は噎せ返るような鉄の匂いと、奇妙な生暖かさに包まれていた。
その赤と黒の薄暗い惨劇部屋の中で、父の眼は怪しく嗤っていた。口が曲がり、眼が歪んでいる。
その瞳に睨まれたその瞬間、私の中で何かかが崩壊した。
◇
父が、その手で母を殺したのは血が所以らしい。呪いに似通った効果に満たされた邪な液体。それが身体に流れている限り、予測されていたことだとか。
当然、幼い私には信じられなかった。訊けば、父は確かに母を愛していたらしい。それは私の目からも、確かなものだったと思う。
だから、殺してしまったと。
だから、私は母の死に納得できなかったというのに。
幼い私は自身の体というものを全く理解も、自覚もしていなかった。廻る血が何なのか、存在する意義は何なのか。そんなことは、頭の片隅にすら置かれてはいなかった。
故に私の心には、深い、深い父への憎しみで満たされた。
紅かった瞳は、今では酷く空虚なモノ。嘗て自らの手で殺した母の姿を見て嗤った瞳を、私に向けて来る。――それだけで、身の毛のよだつ思いを受けてしまうのだ。
私はそんな父など心の底から嫌悪していたし、あんな姿に成りたくないと思っているし。……成る訳がないと思っていた。
しかし時が身に刻まれる度に、自覚というものは募っていく。それは避けられない事実であった。
けれども。それに目を瞑って、私は再び一つの場所へと脚が向かっていた。
▽
「……羽羅」
安心したように笑みを零す少年が、やはり居た。
やはり、と言っても私自身は驚いている。まさか居ないだろう、と思いながら見た現実がこれだ。
どうして彼は私を待ち続けて居られるのだろう。どうして彼はあんなにも笑顔を浮かべていられるのだろう。――ただ私の顔を見ただけだというのに。
私に名前だけ呼び掛けた諾は、それ以上何も口にしない。何処か困ったように、私の顔を見ているだけだ。照れくさそうに、けれど何処か幸せそうに。
だからそんな諾のことを知りたいと思った。もっと。もっと。
今まで会って来たどんな人間よりも純粋な少年。諾が私を一途に待ち続けてくれていたという考えは、ただの自惚れだろうか。
違うと、思いたい。彼の笑顔は、とても明るくて眩しいものだ。その笑顔に対して、邪推をしてはいけない。
「おはよう、諾」
「……うん。おはよう、羽羅」
だから風が吹く中で、静かに言葉を交わす。
あの時のように雪は降っていないけれど、まるで初めて会った時のようだ。けれど今度は逆の立場。諾が佇んでいたのを、私が見つける。
数日合わなかっただけで、まるで幾年も会っていなかったような感覚にさえ陥っていた。彼と会ったのはいつだったか。一週間? 二週間?
私と諾の二人の時間など関係なく、確かに少年の存在は私の中で大きくなっていた。
――
「……私、家に帰りたくない」
「どうして?」
「だって……つまらないもの」
「……それは俺だって同じだよ。今はぼろっちいアパートに一人暮らしでさ、虫も湧くし車の音どころか隣の音は響くしで落ち着かない。部屋に入らないって理由で本だって殆ど持って来てないし」
「……それでも、居場所はあるのでしょう? 例え一人暮らしでも、そこは貴方だけの空間だわ。貴方の為に用意された、貴方の存在を受け入れる為に用意された、貴方だけの場所でしょう? そうじゃないのよ。私は、家にいるだけで不快なの。騒音とか、そんな因子に関係なく、高司という屋敷自体が嫌なのよ」
「……」
……どう答えていいか迷う。正直なことを言えば、聞きたい。それは決して出歯亀のような、そう言った心境ではなく、ただ、羽羅が困っているのなら助けてあげたい。俺に出来ることは少ないかもしれないけれど、少しでも和らげることが出来るかも知れない。それが出来るのであれば、したいから。
でも、聞き出すことは難しい。羽羅には後ろめたいが、俺も彼女の事情というものを知ってしまったのだ。
こうして見ると本当に信じられない。確かに、一般的とは言えないけれど、それでも見た目は紛れもない人間だ。別に角が生えてるでもない、爪が鋭利な訳でもない、牙がぎらついている訳でもない。ただ在り方が少し珍しいだけ。
強く美しく儚い少女。千姫さんに言われても、やはりその印象は変わらない。
だけど何処か、その眼は何か作りだした虚影を睨んでいるようにも見えた。
「――じゃあさ、家に来る?」
「――――」
何故か、羽羅の目が見開かれた。とりあえず、気にせず続ける。
「狭いけど、まあ、二人ならなんとかなると思うし。布団は、俺が我慢すれば……ああでも服が――」
「ちょ、ちょっと、諾……自分が何言ってるか分かってるの?」
「何って、羽羅が家に帰りたくないって言うから。俺の部屋に泊め――よ……う、と……?」
自分で頬が紅潮していくのが分かった、とんでもない速度で。なんかもう恥ずかし過ぎて耳が痛い。
「……莫迦」
「ご、ごめん――でも、その! いやらしい意味とかじゃなくてさ! あ、でも羽羅となら嬉しいって言うか、そのえーと」
「良いわよ。そ、それ以上何か言うと余計恥ずかしくなるわ……」
「そ、そうだね……ごめん」
伊佐見諾は馬鹿なんだろう。いや、馬鹿だ。確信した。
何だというんだ、この戯けっぷりは。
「でも……そうね」
俺から目を逸らして、頬を少し紅くして、
「いつか――お言葉に甘えるのも、良いかも、知れない、わね」
そんな羽羅をすぐ横で見れただけで、逆に言って良かったんじゃないか、なんて思ったり思わなかったり。
しかしそんな、仄かに笑う表情も直ぐに失せ、途端に瞳は悲しみで細められる。頬の赤みも消え、むしろ血の気が失せてしまったのか、雪の様に美しい肌が蒼白して見えるほど。一度、言葉を紡がず、よじる様に唇が動くと。
「でも……貴方は私を受け入れられるのかしら」
「…………」
ぽつりと、漏らした。
恐らく聞かせるつもりはなかったのだろう。けれど“俺には分かってしまった”。唇の隙間から零れた吐息の様に、弱々しいその言葉は確かに俺の耳を貫いた。胸にも、強い棘が突き刺さった。
ここで俺は言うべきなのだろうか。君が鬼だということを、知っていると。それでも構わない、俺は君と一緒にいたい、と。
果たしてそれが有効な策なのだろうか、と疑問に感じてしまう。人に暴かれたくないことはある筈だ。それを知らずに付き合ってもらうのと、それを承知の上で付き合うのと、羽羅はどっちを望んでいるのだろう。
俺自身の気持ちはない。そんなのは、どちらでも構わない。俺のことはどうでも良い。肝心なのは、羽羅はどちらを望んでいるのか、ということだ。
しかしそれは儚げな横顔からは読み取る事なんか出来なかった。彼女の心に壁はある。施錠された、鋼鉄の壁。鍵は何だろう。どうすれば招き入れてくれるのだろう。羽羅はそれを俺に少しでも開く気になってくれているのだろうか。
「――御免なさい。今日は、帰るわ」
「え?」
唐突にそう言った。
言うも早く、羽羅は立ち上がってしまう。呼び止める間もなく、下駄を履いた足は丘を降りる為に歩き出してしまった。
「また! ――明日」
小さくなっていく背中に、慌ててそれだけ伝える。
けれど羽羅がその言葉に振り返ることはなかった。
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重圧感のある扉の前、煙草を吹かしながら千姫は立っていた。腕を組み、門を鋭い眼光で見つめるだけで、何もしない。門に刻まれた角を模した家紋が、それに負けないような威圧感を返している。
千姫は、まさにこの空間は異界だと思った。日の光すらまともに差し込まない、世界から閉鎖された異空間。魔の住む空間。それが周りを囲む檻のような木々が、それを強く連想させる。その目的は外界から自身の身を離す為なのか、それとも身から外界を離す為か。その二つの意味は結果は同じだが、意義が全く異なる。――無論。千姫は後者を強く感じているのだが。
煙草を地面に落とし、意を決したように踏みつける。共に、橙色の炎はブーツの底によって消滅する。
瞬間。
重厚な、木の軋む音が視界を落とした千姫の耳に届いた。即座に千姫はコートの内ポケットへと手を伸ばしつつ、一歩後退する。そう、軋む音は紛れもなく、家紋が刻まれた門から発声されている。
ゆっくりと、威圧感を与えるように開かれた扉の隙間から、覗くのは群青の着物の袖。開いた扉に立っていたのは、一人の男だった。
千姫は確信する。その男が誰であるかを。
「高司――季童か」
強張った笑みを浮かべながら、千姫は言った。それもその筈。高司季童は紛れもなく、現高司家の当主なのだから――。
千姫は無断で敷地に足を踏み入れた身だ。その時点でもはや死を覚悟していたと言っても過言ではない。奴らは鬼だ。存在理由が人を喰う事。この目の前の男も紛れもない“鬼”の血を流しており、人とは存在を大きく乖離する莫迦げた存在。死を以って生を為す異端物。言えば、千姫はいつ捕って喰われるか分からない状況にある。そのプレッシャーが、千姫の心に重く圧し掛かる。
「……お待ちしておりました」
「――何を言っている?」
しかし季童の口から出た言葉は予想だにしない言葉。これが、血を絶やそうとしている者へ向ける言葉だろうか。この手の家系は部外者の出現というものを酷く嫌う。加えて千姫は常人ではない。未だ何もしているつもりはないが、僅かな殺気は漏れているだろうし、自然と漏れ出た魔力などは、隠しようがない。ただでさえヒトより敏感な異常。千姫がどう言った“筋”の者であるか、分かり切っている筈だ。
だが、季童の取る態度は、それを相手にするものではない。何処までも恭しく。そのまま季童は千姫の手首に視線を持って行き、
「言葉の通りでございます。魔術沿慨神意会の方とお見受けします。どうぞ、中へ。お話したいことがありますので」
そう言って開けた門の奥へとゆっくり歩いて行く。見せる背中が、千姫について来いと促していた。しかし、その背中について行くと言う事は鬼の“巣”へ飛び込む事と文字通り同義なのだ。僅か、千姫は思考を巡らせ悩むが、この状況であっては何をしても変わらないと腹を括る。
口に嗤いを浮かべながら、千姫は季童の背中へと歩いて行く。
床が石で出来た玄関に靴を脱ぎ、日本特有の木彫りの廊下へ足を踏み入れる。歩く度にぎしぎしと鳴る――そう思って脚を踏んだが、それは鳴らなかった。まるで、存在が気薄であるかのように。
左右の壁には障子張りの扉がいくつもあった。それを幾つか通過し、不意にある扉の前で、季童は立ち止まり、千姫へと向き直った。
「こちらへ」
静かに季童は障子を引く。
奥に広がるのはごく普通の茶室。茶を行う上での道具、刷毛やお椀が置かれている。
「……まさか、お茶をしに招き入れた訳じゃないだろう?」
「出来れば、それを交えながら穏やかに行けたら……そう思っております。では、どうぞ、お入りください」
季童は背中を見せ、入っていく。千姫も一瞬躊躇するが、軽く拳を握り、後を追った。
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「――へぇ、そんな女の子が」
「うん。そうなんだ。凄く綺麗なんだよ」
「へぇー……良いですねぇ、大和撫子さん」
そう言ってコンビニの袋を両手に下げながら、レギナさんは言う。
レギナさんとまたコンビニで会ったのだ。
羽羅としばらく、あの丘で話した後、コンビニへ来たら何やら籠一杯に買い込んでる神父の姿。やっぱりとても目立った。どうもまたお婆さんに頼まれたらしい。人柄、レギナさんには頼みやすいから仕方がなくも感じる。
「うちのアパートの近くのお屋敷なんだけど、知らなかった?」
「……いえ、知りませんでしたねぇ」
「ふぅん……」
そこで会話が途切れた。
「好きなのかい?」
「――は!?」
「いや、その彼女の事、好きなのかい?」
「え、いや、その――」
好きかどうか。そんなものははっきりと決まっている――――好きだ。俺はもう彼女のことを好きになってしまっている。千姫さんにあんなことを言われても、だ。
いや、違う。“たかが”あんなことを言われたぐらいじゃ、俺の気持ちは変わらないんだ。
一目惚れ、だとは思う。けれど更に惹かれていったのは彼女と話してからだ。強くも儚い。そんな矛盾が合っている彼女を、俺は放っておけない。
彼女にとっては俺の事など、眼中にないかも知れない。それでも構わない、と思う。俺は彼女を――そうだ、羽羅を護りたい。何から何て分からない。でも、彼女は今も悲しんでいるんだ。何かを嘆いているんだ。それはきっと――自身の境遇。
……自身の境遇? ちょっと待て……二度目、彼女と会った時に言っていなかったか? ――鬼について。
俺は何て答えた? ――怖い存在だと思うよ。
「……くそ、最悪だ」
何をやってるんだ、俺は失念していた。失言だった。畜生。それで、そうか、それで羽羅の声色は淡い悲しみの色を含んでいたんだ。
くそ――自分の首絞めたくなってきた。最低だろ、こんなの。好きな相手に向かって怖いなど、有り得ない。男として――そんなの人間として下衆だ。
俺は彼女を好きなんだろう? 初めて心を動かされたんだろう? 人の心にうんざりしていた、俺が、初めて関わりたいと思った人なんだろう? 彼女の在り方を、美しいと思ったんだろう?
なら、やることなんて決まってる――!
「――すいません、レギナさん。俺、行きます」
「え? 何処へだい?」
「謝りに行くんです。俺の――俺の、好きな人に」
宇宙人でも見た様な、呆気に取られた顔をレギナさんはしたが、その後の反応なんて待っていられなかった。恥ずかしいとも思わない。俺の心はもう、羽羅のことしか頭にないのだから。
それじゃ、と軽く頭を下げて駆けていく。背後でレギナさんの溜息が聞こえた気がした。
俺の脚は前へ前へと、運ばれていく。