第三章 鬼(ウラ)/5
「鬼、ですか……?」
普通の人間ならそんなことを言われた時点で、発言者の人格を疑うところであるが俺に限ってそんなことはなかった。
要因として様々なものはあるものの、最大のそれはきっと心当たりがある点だろう。
幻想世界で見つけた、儚い少女。墨色の瞳と髪を持って、猩々緋の着物に身を包んで彼女はいた。その深い黒に混じって、俺は確かに紅の色を感じていた。
そう、あれは何だったのか。あの暗みを帯びた赤は。あの圧倒的な存在感は――まさに“血”ではないのか。ならば、彼女が鬼という理由も――。
と、何となく目に疲れを感じた。だから目頭を親指と人差し指で撫でる。
「……そういやお前、これ、視えるんだよな?」
その俺の姿を見てか、ふと気付いたかのように千姫さんは切り出してきた。
普通の人にはこのような話を出来るだけしたくないものだったが、正直に話すことにする。流れに乗れば、機嫌を損ねなければ、羽羅のことについて知れるかもしれない。
「……そうですね。多分、視えていると思います」
「何色に視える?」
「金色です」
「柄は?」
「無地、ですね」
質問の意図が全く理解出来ない。
目の前にある物体に対してこんな質問を投げかける意味があるというのか。これではまるで、目の前にある林檎を何色に見えると聞いているようなものだろう。
「――――驚いたな」
しかし俺の気に反し、戸惑いながら返答した言葉に目を見開いた。直ぐに、視線を逸らしながら煙草を持った手で口を覆う。
その様子を見れば、目の前の女性が少なからず狼狽しているという雰囲気が見て取れた。俺が抱いたこの人の女性像では、こんな仕草を早々する人には見えない。
「……これはな、普通の人間には視えない」
「え?」
「これは魔力で編まれてるからな」
「は?」
「ああ、すまない。……私はな、魔術師なんだよ」
なんて煙草の燃え滓を灰皿に落としながら、何でもない事のように言い放つ。
行ってることはまるで小説や映画よく耳にするような妄想話なのだが……やはり、俺の目に映る千姫さんの横顔は冗談を言っているようには感じない。だから驚きと関心、それに僅か億劫そうにしているその表情は、ふざけてなどいない。
ならばそれは、紛れも無い真実だということ。
「まあ、お前達が抱く一般的な魔法使い像そのものだと思ってくれていい。何でも出来る訳じゃないがね。……この腕輪は私の魔力で編まれたものだ。基本骨子となる輪の概念を与えられてな、魔力を籠めることで腕輪としての形を成す。お前が視えているものはその魔力を編まれた段階での、最も素の状態だ。色や柄は本来は視えるんだが……お前は何故か本質である根の部分を視ているらしいな」
一度煙を吸い、吐きだす。口から立ち上る煙が、天井へとゆらゆら突き刺さった。その煙を、千姫さんは何ともなしに見つめている。
だが不意に、目を細め、端正な顔立ちは刃のような鋭利さを付加して――
「お前――何を持っている?」
「――ッ」
俺に言霊を投げ掛けてきた。
心を、突き刺されたかと思った。矢のように鋭い眼光は間違いなく俺の胸を穿っていた。最早殺気と見まがうそれを纏っているのは、魔術師故か。
「あ、――その」
「お前っ――まさかとは思うが……」
そう漏らすと、千姫さんの手から煙草が落ちた。落ちた衝撃で、先に溜まっていた灰が散らばる。
テーブルに落ちたそれを拾う事も無く、千姫さんは慌てて右目を手で隠した。
「……魔殺まで視抜くのか」
そして一度、忌々しげに舌打ちする。
「お前、その眼は何だ。隠し事はするな、全て私に話せ」
「全てって、言われても……昔から、幽霊とか視えてただけで……」
「それはいつからだ? いつ、何処で。誰に術を施された?」
「いつも何も……多分、生まれた時からですけど」
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枕に顔を押し付け、思考に停止を呼びかけて凍結させる。
何も考えたくなかった。頭を空っぽにして、あの言葉を追いやりたかった。忘却したかった。――あの父の言葉を。
“螺旋は繰り返す”。その意味を十分に理解してしまったからこそ、私は心に鬱を落としている。
在り方の否定、存在の肯定。その二つは何処までも矛盾していて、決して一つの糸として成り立つことが無い。それが私の精神というものを追い詰める要素となっていた。
生き方なんて変えられると思っていた。在り方を変えるなんていうのは、自分の性格を変えるぐらいの難度だと思っていたのに、こんなにも根本に根付いているのか――変えようと思っている自分が抗えないほどに。
私の頭の中の関心という項目を占めていく少年。何故彼がここまで私の意識を埋めていくのか。あの眼で見つめられたからか……いや、そんな理由は分からない。けれど私の思考を埋め尽くしていくことは事実だ。
私が他人に関心を示すということ。それがどれだけ危険なのか、執拗に言われてきたというのに。
しかし、それは言われただけで私は経験していない。経験していない事実など、ただ画面越しに見ている映画のような薄っぺらさだ。一時は衝撃を受けるものの、それは直ぐに薄れていく。
だけど、月日を重ねる毎に自覚が強くなる。だけど、私はまだ経験していない。
そんな私がいつも行きつく答えは――自分は大丈夫、という愚かな結論。
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「ほぉ……興味深いな。先天性の幻視の眼か」
「ちょ、近くありません? 千姫さん」
鼻と鼻がくっつきそうなほど、俺と千姫さんの距離は近かった。煙草を咥えていない事が、幸いと言える。というか、加えてたら絶対に火傷しているのだが。
「あ、あぁ……すまない。いや、しかし実に興味深い。……解体して良いか?」
「駄目ですよ……」
「ぬ……そうか」
千姫さんは浮いていた腰を沈める。それに伴って顔の距離が広がり、普通の感覚になった。
「……お前の眼はきっと、何もかもを見透かせる。開閉の斑はあるが……きっと、限度は知らないだろうな。もし、お前がその領域を極端に越えて、受感する事が出来るのならば……」
「……出来るの、なら?」
「――お前は死ぬ。……過度に流れる情報には目を瞑る。門の違う情報は認知出来ない。受けつけない情報は、受けつけない。けれどそれらに全て逆らった場合は、器であるお前は耐えられない」
正直、思考が追い付かない。
生まれた時から付き合ってきた眼だ。異質だということは分かっている。それでも、俺には――俺にとっては、当り前の世界だった。きっと皆が普通に目で見て、耳で聞いて、肌で触感を味わう様に、当り前の事だと。
だから身体へ掛かる負担など、殆どと言って良いほど心配はしていなかった。精々、余計なモノを視ているのだから眼が疲れやすい、程度だ。
でも言われた事実は“死”だ。
既に十五年付き合って来た目玉だ。それが急に自分を死に至らしめるものだと言われて、誰が実感できるものか。
ましてや、その作用が“死”というのが幻想物語に聞こえてならない。
「結局、ヒトはヒトの器を超える事が出来ない。…………器を超えた者は皆、それなりの報いを受けるのさ。偉人は大抵が皆、短命だ。故に、お前が受ける報いも、死だという事さ」
煙草に火を付けながら語る千姫さんの言葉には、何とも言えない重みが付帯されていた。心で小馬鹿にしていた“死”という言葉も、俺の心に現実味を浸透してくる。
「……俺、死ぬんですか?」
と顔を向けて聞けば、煙草を口から落としそうになっている千姫さんがこちらを向いている。何の事はない。煙草を口から落としそうになっているのは、驚きによるものから。
数秒、瞬きを忘れていた千姫さんは、腹を折って豪快に笑い始めた。
「――――あっはっはっは! お前、何ていう顔しているんだ!」
と言われて顔に手を這わせる。何も異常はない。というか、自分では分からない。
「分かった。何とかしよう。良いぞ、お前には神異に匹敵する魔殺の水晶を造り上げてやる。感謝しろ」
「は、はぁ……」
魔殺の水晶、と心で首を傾げながらその申し出を受けた。
聞こうか聞くまいか迷っていると、だがなという千姫さんの声が耳に届く。
「――お前が死に至るのならば、間違いなくあの羽羅による死が先だがね」
「お、に――? それは、羽羅……ですか?」
「ああ、そうだ。高司家長女、次期当主“高司羽羅”。お前と一緒にいたあの年端も行かない少女のことだ」
「羽羅が鬼だなんて……それに、どうして俺が死ななければならないんです?」
「…………良いだろう。この際だ。きっちり説明してやる」
と、煙草を一息吐きだすと、瞬間に眼が切り替わった。先程の、心を射抜く眼差し。
「良いか、高司家の祖先はな、紛れも無い鬼だ。混血でもない。本当の純血。ヒトに擬態することを覚えた生粋の鬼なんだよ。鬼とは人が昇華する存在だ。……ヒトが何故、鬼なんてモノに昇華するか、分かるか?」
「……怒り、とか?」
「そうだ。怒り、憎しみ、悪意、妬み。ありとあらゆる負の感情が満ちた瞬間に、奴らは成るんだ。鬼になる事で、人間とは比べ物にならないほどの身体能力を手に入れ、尚且つ奇怪な能力をその身に付帯させる。そしてその力の向かう先は……分かるよな?」
鬼が向かう先は死だ。鬼が人に至らしめる死。或いは人が鬼を懼れて、人が鬼に至らしめる死。ベクトルは違うものの、どちらも死である事は変わらない。
……羽羅が鬼だという話を信じられない訳じゃない。樹の下で視た彼女は、意味はともあれ人間離れしていたことは確かだ。風貌も、心の在り方も、人間とは確かに懸け離れていた。
だけど、確かに赤黒く、禍々しかったかもしれないが、純粋であることも確かだろう。
「――こちらから聞こう。何故お前が死ぬか、分かるか?」
「……」
予想はついている。けれど、それを口にはしたくない。怖いからじゃない。悲しいからだ。
「お前は、間違いなく羽羅に殺される」
「――どうしてっ!」
と、机を叩き立ち上がったせいで清閑とした雰囲気にいた、店内の客の眼が一斉にこちらへと向く。
「……すみません」
「……いや、いいさ。私も順序を弁えなかった。初めから順に話すべきだったな」
煙草の火を灰皿に押し付け、そのまま手を放した。
せめてもの礼儀、なのだろうか。ここからは喫煙を交えることなく話すらしい。その証拠に、次の煙草へと手を伸ばすことなく、射抜くような眼差しはこちらの瞳人をしっかりと見据えている。
「鬼は、憎悪や嫉妬を元に生まれると言ったな。それは言葉の通りだ。敬愛する者、尊敬する者。主に、人間へ向けられた感情としてそれらは生まれる。その殆どを占めるものが、寵愛を捧げた者への場合だ。愛する者に裏切られた。愛する者が奪われた。……そんなものが殆どだ。なら、何故私がお前がアイツに殺されると言ったのか。……もちろん、愛する者がしっかりと振り向いて、その想いに応えてやれば何ら問題はない。――人間ならば、な」
「人間、なら?」
「そうだ。良いか、羽羅は鬼だ。人間じゃなく、鬼だ。……その意味が分かるか?」
思考を巡らす。
人間が負の感情を募らせることで、鬼へと成る。想いに相応の想いを以って応えれば問題はない。
けれど、羽羅は鬼。つまり、羽羅の場合は想いに応えても意味は、ない。
それが示す意味は――
「――――過程を飛ばしてる?」
その言葉に、千姫さんは口元だけで嗤った。
「そうだ。アイツらに“そんな段階は既に無い”。想いが報われる、占有したい。そんなプロセスはとうに超えた次元の存在としているんだ。ならば、鬼と成ったアイツらに残った状況というのは、“愛する人間を殺す”という状況しか残っていない」
つまりは、鬼である羽羅にとっては愛するだの想いだのというものはもはや関係ないということ。既にその身が悪意と憎悪で満たされているのなら、残ったピースはそれを向ける対象だけ。それに相当する者が現れれば、羽羅の想いが即座に牙を向いて襲ってくる。だから、俺が羽羅に振り返ろうと、幾らこの口で叫んでも、その狂気に焼かれるということは避けられないという事か。
「そんなもの、納得できませんよ」
「だが事実だ」
「それに、俺なんかが、その想いに値するとは思えません」
そうだ。まだ会って数日じゃないか。ひと月も経っていない。別に何も取り柄のない俺に、彼女が入れ込む筈などないだろう。そんなことは有り得ない。あの幻想世界に佇む彼女はとても美しかった。そんな彼女の前では俺なんてものは直ぐに霞んでしまう。
だから、彼女は俺のことを殆ど考えてなどいないはずだろう。そう、だから、俺が殺される謂われなんて――。
「――泣くなよ、自分で言って」
「――え?」
呟いて、塩の味がした。涙だ。俺の瞳から溢れた涙が、頬を伝い、口にまでやって来ている。
「す、すみません」
服の袖で目を擦る俺を見て、千姫さんは溜息を吐いた。椅子が下がる音共に、コートから出る衣の擦れる音が聞こえる。
目を開いてみれば、そこには伝票を持ち、立ち上がった千姫さんがいた。コートとバッグを持った姿を見れば、もう帰るということが明瞭だった。
「悪かった。急にこんなこと言って。ここは私が奢っておく。だから、落ち着くまでここにいろ」
「い、いえ、そういうわけには――」
「良いんだよ、餓鬼は大人しく年上の言う事を聞いてろ。――――ああ、そうだ。お前の連絡先教えてくれ。お前の眼、何とかしてやるから」
▼
夜の街を歩く千姫の気分は、少なくとも上々に浮いたものではなかった。
瞳を閉じれば思い出される、涙を流した少年の顔。静かに、自然に流した涙には、純粋なまでの悲しみが籠められていた。
少年と少女の関係なんて分からない。友達と言っていたが、ただの友達などではないことは明白だ。少なくとも、少年は少女を好いている。
だがそれは、少女に対しても言える事だった。少年の前では言わなかったが、恐らく少女も少年を好いている。きっと、今まで出会った者の誰よりも、異性としての愛を向け始めている。少女が、自身の事実を知らない筈はない。ああいう、危険な血筋を継ぐ者には正確にその者の状況というものを説明していない筈がないからだ。だから、少女は“それ”を承知で少年と関わろうとしている。これはつまり、単純な一つの答えしか浮かびあがらないだろう。
これをあの泪した少年に告げ掛けたが、それは止めた。口が動いた途端に、自分がここにいる意味というものを自覚し直したから。何の為に自分がいるのか。これから何をするのか。あの少年にとって、その結末は何なのか。
だから、そんな自分が少女の憶測でもない想いをわざわざ伝えるなんてことは、赦されない事だ。
それに、あの少年が泣いていた理由は自分が殺されるという事に対してではないだろう。単に、自分は少女にとって殺すほどの相手ではないと勝手に思い込んだ故に流れた涙なのだ。だから、少女の想いを告げて、光を差し込む意味はない。
「…………はぁ」
面倒なことになった、と心で呟きながら雨上がりの街を歩く。
渇いた心で歩く千姫にとっては、濡れたその道はまるで誰かの心の未来を暗示しているかのように思えた。