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Dear Lucifer  作者: 桃原カナイ
第一章.少女は踊る、掌の上で
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五.綻び

《注意》

やや残酷な描写があります。お気をつけください。


 きっかけは、小さなものだったという。

 その日はどんよりとした肌寒い日だった。千年王国第二都市、アルザ。その地を治める領主のヨルン=サルディスは、真っ白な髪と見事な口ひげをたくわえた老人で、厳格だが良識ある人格者だと領民の間で評判が高い。自らの〝寿命〟を目前に控え、息子と代替わりする日を定めた後も、これまで通り粛々と務めをこなしてきた。そんな、ある日の出来事だった。


 アルザのメイン通りは、左右に長閑な公園が広がる風光明媚な道だ。天気が良ければ昼下がりの散歩を楽しむ人が多く見受けられるが、その日はあいにくの天気のため、散歩する人通りはまばらだった。

 そんな日は、荷運びが多く行き来する。重い荷を運ぶ時は〝転送台〟を用いるが、近くの店から店へと荷を移す際は人力、または馬車が活躍するのだ。その日も、メイン通りには数台の荷馬車が行き来していた。


 そこにやって来た、子連れの母親。片手に抱っこ紐に収まった赤ん坊を抱き、もう片方の手で幼い少年の手を引いている。赤ん坊がぐずっているのか、母親は赤ん坊をあやすのに忙しいらしい。少年と繋いだ手の方が、少しおろそかになっていた。


 親子の対向から、一台の荷馬車が迫っていた。歩道を歩いていた母親は、特に気に留めることもなく歩き続けていた。



 ふわり。親子の前を、どこからか風に乗ってやって来た鳥の羽根が通り過ぎた。母親と手を繋ぐ少年の目が、その羽根を追いかける。


 羽根が、馬車道の方へと流れてゆく。

 少年は母親の手を振りほどいた。


 

 その後の出来事は、あまりにも悲惨すぎて筆舌に尽くし難い。血溜まりに沈む小さな身体。母親の悲鳴。ぐったりとした我が子を抱え上げ、大丈夫、大丈夫と抱き締める。


 ――私たちには神様がいらっしゃるからね。今は痛いけど、ちょっとの我慢だからね。


 母親の悲鳴を聞きつけて、疎らだった道にも人が集まり始める。

 医者を呼べ、と誰かが叫ぶ。しばらくすると近くの医者が薬と包帯を持って駆けつけた。止血剤と、自然治癒を促進する薬剤を少年に注射する。これらは神より与えられた〝天界の技術〟だ。後天的な病は怪我は〝神のご加護〟が癒してくれる。医者が行う処置は、治癒の速度を早めて少しでも苦痛を取り除くこと。少年の出血箇所に包帯を巻く。後は、怪我が治るのを待つだけ……



 しかし。

 血は一向に止まらない。少年は痛い、痛いと呻き続ける。



 ――痛い……痛いよぉ、ママ……



 少年の声がか細くなる。呼吸が浅く、短く、そして徐々に遅く。



 ――マ、マ……



 冷たい風が吹き過ぎた。氷の欠片を散りばめたようで、人々の肌に微かな痛みが走る。

 そして。凍えそうに冷たい風は、少年の呼吸と熱、そして鼓動すらもさらってしまった。



「……――――っっ!!」



 母親が泣き崩れる。どうして、どうしてと、もう動かない少年の身体を揺さぶった。


 誰かが医者を糾弾する。けれども医者にはどうすることもできない。この場にいる誰も、目の前の状況を呑み込めないでいた。


 何故だ。今、何が起きている?

 どうしてこの少年には、〝神のご加護〟がはたらかない?



 ――千年王国は至高の世界。 人は誰もが幸福で、あらゆる禍から解放された。

 誰もが知っている聖書の一節。あまりにも当たり前になりすぎて、人々は気にも留めていなかった。しかし、禍は消滅したのではない。聖騎士家の鏡に封印されててはいるものの、確かに存在し続けているのだ。


 第一の禍〝叛逆〟はフィラデルフィア家に。

 第二の禍〝死〟はサルディス家に。

 第三の禍〝病〟はラオディキヤ家に。

 第四の禍〝戦争〟はペルガモン家に。

 第五の禍〝御使いの罰〟はティアティラ家に。

 第六の禍〝混沌〟はスミルナ家に。

 第七の禍〝神の罰〟はエフェソス家に。


 禍は封印された。そのはずなのに。

 第二の禍〝死〟が、千年王国に解き放たれてしまったのだ。




***




「シシィ」



 フィラデルフィアの領主ギルバートは、緊迫した声で娘を呼んだ。つい先刻、王都からの伝令がフィラデルフィアを訪れ、第二の封印が解かれたらしいとの旨を伝えた。これが事実ならば、王国の人間から〝神のご加護〟の効力が失われたことになる。つまり、今後は全ての人間に理不尽な死が訪れうるのだ。



「緊急事態だ。一緒においで」


「お父様、何があったのですか?」



 シシィは不穏な空気を察したのか、不安そうな様子だった。ギルバートは務めて冷静に答えた。自身の動揺を押し隠して、シシィに余計な不安を与えないように。



「……サルディス家の鏡が割れたらしい。聖騎士家は各自の鏡を確認しろと国王陛下からの命令が下った。お前も次期当主として、一緒に鏡を見に行こう」



 まだ成人を迎えていないシシィは、本来〝鏡の間〟に入ることができない。しかし今回は緊急事態だ。この機会に経験として〝鏡の間〟に入っておくべきだとギルバートは判断した。



「服を着替えておいで。〝鏡の間〟に入る時は正装をする決まりなんだ」



 聖騎士家の〝鏡の間〟は厳重に管理されている。当主は常に鍵を身につけ、当主以外の何人たりとも中へ出入りできないようにしているのだ。


 鍵を開けると、夜の森のような重苦しい闇が広がっていた。手にしたランプに明かりを灯し、ギルバートとシシィは奥へと進んでゆく。長い廊下だった。足音が篭った音を立てる。ランプの明かりの外側に得体の知れない何かが潜んでいそうな恐怖を覚えたのか、シシィはギルバートの腕にしがみついた。


 そのうちに廊下は終わり、少し開けた部屋に出た。相変わらず辺りは真っ暗だったが、その部屋にはわずかな光源があった。部屋の中央に置かれた鏡。成人の頭からつま先までを映し出す大きな姿見が、自ら鈍い光を放っているのだ。



「シシィ。あれがフィラデルフィアの鏡だ。第一の禍〝叛逆〟を封印している。お前には、何が見える?」



 ギルバートが傍らのシシィを見遣ると、シシィは食い入るように鏡を見つめていた。光を放つ鏡に驚いたのだろうか。それにしては、どこか様子がおかしい気がする。



「シシィ?」



 声をかけると、シシィははっとしたようにギルバートの方を見た。慌てたように父の腕から手を離し、謝罪の言葉を口にする。



「ごめんなさいお父様。鏡が光っているとは思わなくて、びっくりしてしまいました」


「まあ、最初は驚くものだよ。私もパトリシアに初めて見せられた時には驚いた覚えがある。そしてフィラデルフィアの血族は、この鏡に何かを見ることができるらしい。お前にも見えるかい?」



 婿入りしてきたギルバートには、至って普通の鏡にしか見えない。しかし彼の亡き妻パトリシアは、そのようなことを語っていた。これは、フィラデルフィア家の戒めなのだと。



「……ええ」



 頷くシシィの声は、今にも消え入りそうだった。



「女の子が、見えます……あの子は〝ルシファー〟ですか?」


「そのようだね。〝叛逆〟の象徴である彼女の姿がそこにある限り、フィラデルフィアの封印は守られている。では、取り急ぎ国王陛下に鏡の無事をご報告しなければ。戻るよ、シシィ」



 ギルバートが踵を返すも、シシィはその場に呆然と立ち尽くしたままだった。まるで、父の声が聞こえていないかのように。

 鏡を凝視し続ける娘が、そのまま鏡の中に取り込まれてしまいそうで。そんな嫌な予感がふと、ギルバートの脳裏を過ぎった。娘が見ているものが見えないことを、恐ろしいと感じた。



「……シシィ?」



 再度呼びかけると、シシィはびくんと身体を震わせた。そして飛びつくような勢いでギルバートの腕にしがみつき、ようやく帰路についたのだった。

 娘の様子をどこかおかしいと思いながらも、ギルバートは歩みを早めた。シシィは何度か後ろを振り返っていたようだが、ギルバートの頭はこれからやらねばならない対応でいっぱいになっていた。




***




 こうして、長きにわたる絶対の楽園に、一穴が穿たれたのだった。

 人々は思い知った。この世は所詮、神に与えられた箱庭であったのだと。人間は決して、神に許されたわけではなかったのだと……

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