三.記録
シシィ様が目を覚ました。これは非常に喜ばしいことだが、やはり頭を打ったダメージは大きかったらしい。あれだけ一生懸命取り組んでいたイカロスの製作を一時取りやめると言い出したのだ。
「シシィ様、今度は何を始めるつもりなんですか?」
「ちょっとした調べものよ」
やっぱり頭の打ちどころが悪かったらしい。勉強と名のつくものは大嫌いだったシシィ様が言ったとは思えない言葉だ。
「いやもう今日はお休みになった方が……」
「アラン。私のこと、頭がおかしくなったと思っているでしょう」
「あ、バレてました?」
バレバレですよ、とシシィ様は鼻を鳴らす。
「だってシシィ様、あなた歴史も文学も、椅子に座って勉強するものは大嫌いでしょう? それがどうして旦那様の書斎に」
旦那様は、シシィ様がいつ勉強する気になってもいいように書斎への出入りを自由にしている。長い長い時を経て、ようやく正しい使い方をされるとは。本たちも本冥利に尽きることだろう。
「……不思議な夢を見たんです。それが気になって……」
「はあ、夢ですか」
そんなことを心配されるなんて、なんだかシシィ様っぽくないですね。と軽口を叩くと、シシィ様は少し不満そうな声で返事した。
「私だって実は繊細なんですよ」
それは充分知っている。普段のシシィ様はまあ、言うならば〝ガサツ〟な方であることは間違いない。そしてガサツであるがゆえに感情面も鈍感だと思われがちだが、実は全くの逆なのだ。シシィ様の心は、とても繊細だ。それを隠してしまうものだから、気づいた時にはズタズタに傷ついてしまった後であることが多い。それを僕は、嫌というほど思い知っている。
どんな夢だったかを訊くのは野暮な気がするから、シシィ様から話してくれるまで待っておこう。強がりなシシィ様のことだ。様子がおかしいことを指摘すればもっと強硬に、内に籠ってしまうだろう。
「確かあの本だった気が……アラン、あの本を取ってください。深緑色の分厚いのです」
「はいはいわかりましたよーっと……えーっと、これですね。〝千年王国史〟」
ありがとうございます、と言ってシシィ様は僕から本を取り上げた。机まで少し離れていたし、重たい本だから僕が運ぶつもりでいたのに。でも、小柄なシシィ様が重い本を一生懸命運ぶ姿は微笑ましかった。
「何を調べるんです?」
「初めの方です。神様との契約のあたりを」
そう言ったきりシシィ様は黙り込んでしまった。よっぽど集中しているらしい……書物を読むシシィ様がこんなにも集中しているのを僕は初めて見たかもしれない。声をかけるのも何だか憚られるほどの集中力なので、僕はシシィ様が読んでいるページをぼんやりと眺めることにした。
――神様は完璧な世界を目指された。天変地異で全てを失った人類に、残されたのはひとつの陸地のみ。神様はこの地の上に理想郷を築くことを宣言された。そうして悔い改めた我々人類にもたらされたのが、この〝千年王国〟である――
神様という方は随分と気まぐれなものだと思う。人間の態度が気に入らないからといって全てを奪う必要はなかったのに。先史人類の歴史はほとんどが失われてしまったため、それまでの人類がどういうもので、なぜ神様を怒らせてしまったのかを詳しく知ることは叶わない。怠惰で、強欲で、傲慢。そんな言葉で片付けられるほど、薄っぺらな歴史しか持っていなかったのだろうか。どうせなら、知りたかった。知った上でなら、心にもやもやを抱えることなく、すんなりとこの世界を受け入れられたのに……
たまにこんなことを考えてしまう自分は、異端に片足を踏み入れているのかもしれない。
――王の供犠への見返りとして、王族へは天界への入り口である〝天の門〟の番人の役割を授けられた。寿命を迎えた者はここから天へ召され、次の巡りを待つこととなった。
七人の供犠への見返りとして、神様は〝叛逆〟〝死〟〝病〟〝戦争〟〝御使いの罰〟〝混沌〟〝神の罰〟の七つの禍を七つの鏡に封印された。以来七人の家の者は〝聖騎士家〟として、今日まで封印を守り続けている――
身分の上下といった過去の遺物は、神様が治めるこの千年王国の下には存在しない。ただ、神様の代理人として国王陛下が、禍の守人として七つの聖騎士家が置かれ、王都とそれぞれの領地を統治している。
そういえば、シシィ様ももうすぐ十六だ。成人として聖騎士家の公務に携わるまであと二年と少し。その間にもう少し、お嬢様らしく淑やかになってくださるだろうか。
――第一の禍〝叛逆〟は、フィラデルフィア家に。第二の禍〝死〟は、サルディス家に。第三の禍〝病〟は、ラオディキヤ家に。第四の禍〝戦争〟は――
「……やっぱりどこにもありませんね、ルシファーについての記述は」
シシィ様がぽつりと呟いたので、僕は読んでいた書物から目を離した。
「ルシファー? どうしてまたそんな」
「彼女のことが気になったんです。何をしたから〝叛逆〟の罪で鏡に封印されたのか、どんな人柄だったのか、家族はいたのか、なんて」
何も書かれていませんでした、と言ったシシィ様は、残念さを隠しきれない様子だった。
「まあ、それなりのことをしたんでしょうよ。神様の目の前で、たとえば『やっぱり供犠になりたくない!』と駄々をこねたとか。ルシファーは幼かったらしいから、仕方のないことかもしれませんが……なんか、そう思うと可哀想ですよね」
咄嗟に自分の口をついて出た言葉に、僕は耳を疑った。幼かろうとなんだろうと、ルシファーは自ら進んでその身を神様に捧げると決めた。その上で叛逆の罪を犯した、大罪人。そんな彼女を庇うような言葉を、誰か――シシィ様を除いて――に聞かれていれば大問題になっていたかもしれない。
僕はシシィ様に、迷惑を掛けられないのに。
「ほ、ほら。この辺見てくださいよ。ルシファー以外の反逆者なら簡単な理由も書いてありますよ。神様の統治を是としなかった無名の者、空を飛んで自ら神様の御許へ赴き、拒まれ地に墜とされた……あ」
どうしたんだろう。今日の僕はどこかおかしい。何もこんな、〝空を飛ぶこと〟が異端となった所以の出来事をわざわざ言わなくてもよかったのに。
「すみません。失言でした」
「ふふふ。アラン、大丈夫ですよ。わかってますから。私のやっていることが異端であることも、それが聖騎士家の者、千年王国の者としての禁忌を破っていることも」
シシィ様は、微笑んでいた。パタンと本を閉じて、顔を上げる。真っ直ぐな目が、僕を捉える。
「でも私、神様を裏切ったわけじゃありません。だからたとえ人々から糾弾されることになろうとも、神様はわかってくださる気がするんです。神様はいつも、私たちを見守ってくださってますから。それでも神様に咎めらてしまうなら、神様のお言葉に従うまでです。それが、私なりの覚悟です」
嘘だ。シシィ様は、強がっている。言葉の端々が震えているし、微笑む表情もどこか固い。本当は納得していないのだろう。けれども自分の本音を押し殺して、シシィ様なりに聖騎士家としてのケジメをつけようとしているのだ。
「しばらくやめると言いましたが、やっぱり私、今後はイカロスからは手を引きますね。充分、いい夢を見られましたから。アラン。今まで付き合ってくださって、ありがとうございました」
シシィ様に伝えるべきだと思うことが僕の中にたくさんあった。けれども僕は、それを上手く言葉にすることができない。何と言えばシシィ様を傷つけないか、どう振る舞えばシシィ様を元気づけられるのか。それなりに生きてきたはずなのに、僕は未だに正しい答えがわからない。
僕は無力だ。僕よりずっと年下のシシィ様が大人に向かって少しずつ成長されているというのに。僕は、無力だ。シシィ様の歩みに、何の手助けもできないのか。
「シシィ様……」
この後何と続けるつもりだったのか、僕はすっかり忘れてしまった。背後の扉が開いた音がして、必要以上に驚いてしまったからだ。後ろめたい気持ちのせいで余計にビクついてしまったのだろう。
「こちらにいらっしゃったのですか、シシィ様」
扉から顔を覗かせていたのは、庭師のオスカーさんだった。こんな時間に館内で見かけるのは珍しい。広大なフィラデルフィアの庭をひとりで管理するオスカーさんは、趣味を仕事にした土いじりの虫だ。この時間は正門あたりの水やりをしているはずだが、一体どうしたのだろう。
「あら、オスカー。どうしたんです?」
「旦那様からの言伝です。夕方、旦那様はサルディス様を訪問される予定でしたが、急な用事で手が離せなくなってしまわれました。それ故シシィ様に、旦那様の代わりにサルディス家へ出向いて欲しいとのことです。私とアランがお供しますので、お支度をお願いします」
なるほど、そういうことか。サルディス家なら、シシィ様も何度か訪れたことがある。第二都市アルザの領主で、フィラデルフィアと同じく聖騎士家のひとつだ。そしてサルディス家にはオスカーさんの恋人、ディアナさんが勤めている。彼女に会うために、全速力で仕事を終わらせたのだろう。
「エーファとディートリヒにも久しぶりに会えますね。すぐに用意します」
実のところ、サルディス家に向かうのは少し気が重い。当主様はとてもいい方だけれど、次期当主様……エーファ様とディートリヒ様のお父様が、少し癖が強い方なのだ。
けれどもシシィ様があんなにも嬉しそうにしている。ならば僕にできることはひとつしかない。シシィ様について行こう。シシィ様の笑顔が見られるのなら、僕はもうこの上なく幸せなのだから。
僕の全ては、命の恩人にも等しいシシィ様に捧げよう。遠いあの日、そう誓ったのだから。