終幕.祝福の聖女は再生を祈る
最終話になります
彼らの行き着く先を、どうか見届けてやってください
一体ここはどこだろう。目を開けると、朝焼けと夕焼けが入り混じったようにとりどりの色の中にいた。まだ寝ぼけているのか、全ての輪郭が曖昧な世界。はっきり見えない分、余計に綺麗だった。まるで夢の中みたいに、仄かな光がふわふわと漂っている。温かくて、どこか懐かしい匂いがした。
まだ眠いやと、僕は再び目を閉じた。身体が重い。このままここで眠ってしまえたら、どんなにか。温もりに抱かれて、身体の先から溶けてゆくように。
「……」
声が、聞こえる。まどろむ僕を包みこむ、耳によく馴染んだ声が聞こえる。
「――ン、」
声の主を探して目を開けようとした。けれど、どうしてだろう。瞼が重くて開かない。
「アラン……」
ああ、やっぱり夢の中なんだ。
この声をもう一度聞きたくて、僕はすべてを投げ打った。たとえ夢の中でも、叶ってよかったな。
「大きくなったね、アラン」
そうだよ。あの日から、とんでもなく長い年月が過ぎたのだから。
「ありがとう。私を覚えていてくれて」
当たり前だよ。ちょっとだけ忘れてしまっていたけれどね。
「ありがとう。私を愛してくれて」
当たり前だよ。僕の、たったひとりの家族なんだから。
「私はもう行くね。アランの傍にはいられないけど、もう大丈夫でしょう?」
また会いましょうね。そう言って、声がだんだん遠ざかってゆく。
「ほら、起きて。あの子が待ってるよ――」
待って、待って、行かないで。まだ伝えていないことがたくさんあるのに。
目が開かない。身体が動かない。その姿を一目でいいからこの目で見たいのに。
世界が温度を失ってゆく。身体の先からゆっくりと、覚醒しようと冴えてゆく。
僕は名前を呼んだ。精一杯叫んだ。姉さん……姉さん……ルーシー姉さん――
***
伝えたいことがたくさんあった。伝えられなかったことが、たくさんあった。
冷たく固い床の感覚に、僕は目を覚ました。身体中が重くて、ずっしりとした痛みが襲ってきた。痛い――そう感じるということは、僕はまだ生きているのだ。
どうして生きているのだろう、と、回らない頭でぼんやりと考えた。霞んだままの視界を、記憶の中から探ろうとした。ここは、どこだろう。僕は、僕は……
うつ伏せの姿勢から起き上がろうと、手を前方に伸ばした。その時、指先に鋭い痛みが走った。痛い。その原因を見いだそうと、僕は前方に目を向けた。冷たく固い石の床に、散らばる細かなガラスの破片。きらきらと、光を反射して……
「っ――!!」
散らばる大小の破片に、うつ伏せに倒れ伏す華奢な身体。足元には粉々に砕けた鏡の額が立っていて、まるで鏡から飛び出してきたかのような。
僕は、知っている。取り戻したかった。何もかもを引き換えにしてでも、この手に取り戻したかった。何よりも大切な、僕の。
「シシィ様!!」
胸の音が酷くうるさかった。破裂するかとさえ思われた。確かめるように、何度も何度も口の中で呟く。
鋭い破片で傷つけないように、シシィ様の身体をすくい上げた。身体に掛けられた黒いマントは、記憶の遠くで見覚えがある気がした。
「アラン……?」
目を覚ましたシシィ様は、懐かしい声で僕の名前を呼ぶ。
ああ、温かい。何度も背負い、抱き上げてきたシシィ様の身体。そのぬくもりに、しっかりとした重みに、ようやくこの手に取り戻したのだと実感できた。
「会ったのよ。あなたのお姉さんに……ルシファー、いえ、ルーシーに」
シシィ様の目には涙が浮かんでいた。透きとおった雫は美しい玉となり、溢れてころころと頬を伝っていった。
「私を返してくれたの。あの子も、こちらに戻りたかったでしょうに……」
シシィ様が僕の方へと手を伸ばす。細く小さな指でいつの間にか流れていた僕の涙を拭い、シシィ様はふわりと笑った。
「ごめんなさい……ありがとうございます、アラン。ただいま……」
ああ、僕はこんなにも、シシィ様が愛おしい。
許しも得ずにシシィ様を抱き締めた。もう二度、この人を離したくない。離しはしないと、強く,強く。
シシィ様は黙ったまま、僕の背中に手を回した――
***
凍えそうな空気をわけて、一陣の暖かな風が吹いた。気づけば湿った土のそこかしこから小さな草の芽が顔を覗かせている。もうすぐ冬が終わるのだろう。春の気配に満ち溢れた眩しい世界の中に、シシィ様と僕は手を繋いで立っていた。さんさんと降り注ぐ陽の光の中、
人々が興奮した様子で語り合っている。何でも、神の御業をこの目で見たのだと言う。世界は金に銀に光り輝き、人もものも輪郭を失ってしまうほどだったという。空は真珠のように艶を帯びた白。強烈な光は影すらも消してしまったらしい。あまりの眩い光に、人々は目をかばった。目を閉じたその瞼の裏でさえ、虹の彩りがきらめいていた。そんな中で、深く響きわたる、管弦の楽器のような心地の良い声が降ってきたのだと……〝光あれ〟と。
行きずりの人に声を掛けられた。興奮冷めやらぬ彼らは、自分たちが見た光景を事細かに教えてくれた。
「君たち、あれを見なかったのかね。ああ、それは残念だったな。この先一生……いや、今後誰も目にすることがないかもしれない光景だったのに」
「ああ、未だに自分の信じられないよ。ほら、ご覧よ。あれほど破壊された街が、見事に元通りさ」
神様は我々を見捨てはしなかったのだと、彼らは熱弁を交わしている。そんな彼らから、僕は目を逸らした。直視することができなかったのだ。
これは、僕が犠牲にしてしまうところだったもの。ささやかな暮らし、誰かの明日……かけがえのないこの世界。よかったよかった、世界は救われたのだと、手放しで喜ぶことはできない。ここに至るまでに失われた、取り返しのつかないものを僕は知っている。流されたたくさんの涙を僕は知っている。
僕は……この場にいてもよいのだろうか。僕はこの先も、この世界に――
「アラン」
繋いだ手に、小さな手が重ねられた。シシィ様の手が、震える僕の手を両の手で包み込んでいる。
「立ち止まっていては始まりません。私たちにできることは、精一杯、よりよい未来に向けて今できることをするだけ……」
歌うように、あやすように、シシィ様が僕を諭す。真っ直ぐに、目を逸らすことを許さないとように。
「だって、『憎まれっ子は世に憚る』のですものね、アラン?」
長く憚って、私たちにできることをやっていきましょう。少しずつ、少しずつね。そう言ってシシィ様は軽やかに笑った。
空を見上げた。あの青い青い空は、相変わらず優しく僕の上にある。僕は、僕は……生きていたいと思う。そう呟いた。この先も、ここで。叶うのならば、彼女の隣で。
遠くの方に、懐かしい人の姿を見つけた。ブリジッタ様、ミコ様、ジョバンニ様……僕たちの姿を見つけて、目を見開いたまま固まってしまった。シシィ様は大きく手を振った。そうしてようやく、手を振って応えてくれた。
「ほら、行きましょうアラン」
僕は歩いて行く。迷いながらも、転びながらも、歩みを止めることはないだろう。
微笑む彼女に導かれて、僕は歩く。歩き続ける。迷ったならば、休めばいい。転んだなら、起き上がればいい。
あの空の上から、あの人は僕を見ていてくれるだろうか。僕が善くあるように、見守ってくれたら嬉しいな。
傍らにはこの上なく大切な方。もう二度と失うことがないように、僕はひとつ心に誓った。
そして僕は歩いて行った。この遠い道を、どこまでも。彼女と共に、歩き続けてゆく。
最後までお読みいただきましてありがとうございました!
長い物語をこうして完結までもっていくことができて本当によかったです……感激です
投稿頻度も遅く、更新しない期間もあったにもかかわらず、ここまで読み進めていただいたことを改めて感謝いたします
本当に、ありがとうございました( ⁎ᵕᴗᵕ⁎ )
また、別の作品で、必ずや





