八.混沌
本日も起こしいただきありがとうございます
残すところあと少し……最後までどうかお付き合いください( ⁎ᵕᴗᵕ⁎ )
神様が人間に下した〝罰〟。それを神様の元に突き返したなら、僕らの勝利と言えるのだろうか。
『即刻改悛の言葉を述べられよ。非を認め、妙な気を改めるならば、此度の貴君らの異端行為には目を瞑ろう。これは最後通告だ。この通告を無視し、改悛の様子が欠片も認められない場合は容赦はしない。話し合いでわかり合えぬならば、覚悟しておくように』
あの後、何人もの人が必死に手を尽くしたらしいが、治療の甲斐も虚しく国王陛下は身罷られたらしい。胸に弾丸を受けたのだ。それは仕方のない話だと思う。訃報は直ちに王国中に届けられた。そして、その悲しい報せと共にティアティラ家に届いたのが、エフェソス家からのこの文書だった。陛下の遺志を継いで、徹底抗戦の構えを見せている。ならば、その姿勢に応えるまで。
なるべく血を流したくないだとか、誰かを傷つけたくないだとか、そんな綺麗事を夢見たままでいられるほど、僕に余裕はなかった。エフェソス家の遺物と鏡を奪取する。そのためならば手段すら選ばないと、腹は括っていた。僕の頭には〝破壊〟の文字しかなかった。
「大丈夫だよ。そろそろ向こうから連絡が来るはずだから。『うちの遺物を引き取りに来てください』ってね」
そんな僕の頭の中を読み取ったかのように、ブリジッタ様はこんなことをおっしゃった。あまりにも都合が良すぎやしないだろうか、と拍子抜けしてしまった僕はどこか間の抜けた声で質問した。
「どういうことなんです?」
「今のところエフェソス家で一番発言権を持っているのはルイ様だね。ご子息のユーゴ様は現当主であるにも関わらず、公の場で発言されることすら稀だ。だから、現状についてのエフェソス家現当主夫妻の意見を知る者はほとんどいない……スミルナの次期当主夫妻を除いてはね」
スミルナの名前を聞いて、僕はミコ様を振り返った。ミコ様は普段どおり、感情の読めない表情で僕をじっと見つめている。
「私の娘夫婦は、ユーゴ様とシャルロッテ様ご夫妻と仲が良いのですよ。同じ年頃の幼子を持つ親同士、気が合うのでしょう」
僕は……僕は何とも言えない心持ちになった。
「つまり、狙いはルイ様ではなくて、エフェソス現当主の方だと……?」
否、わかっている。おふたりが可能な限り平和的な解決策を探してこられたことも、その方が後の世界に余計な禍根を残さないことも、わかっている。
それなのに何故か……振り上げた拳の遣り場に困ってしまう、僕がいる。
「そういうことです。いくらルイ様といえど、当主が下した決定に逆らうことはできないでしょう」
僕の望み。それは、シシィ様を取り戻すこと。理不尽な仕打ちを強いてきた〝神様〟に一泡吹かせてやること。姉さんの汚名をそそぐこと。それから、それから。
「本当はね、武力をもって屈服させる手段を考えていたんだよ。でも、先日の天変地異の後でその考えを改めることにした……全てが上手くいった後のことを一番に考えることにしたんだ」
――ごめんなさい。そうやって謝罪の言葉を述べたのは、誰に対してであったのか。本当は、わかっていたくせに。
「守りたいものがあるって素敵なことだよね。最近特にそう思うよ」
ぽつりとそう呟いたブリジッタ様の言葉は、僕の真ん中に深く突き刺さるものだった。
僕の心にはおふたりのような余裕はなかった。小さな子供が駄々をこねるように、感情のままにまき散らすことしかできない。そして、僕自身がそうありたいと望んでいたのだ。
けれど。感情のままに壊して、壊して、壊し尽くしたとして、その後に、僕は一体どうしたかったのだろう。そんなことをぼんやりと考えた。破壊の限りを尽くした世界を、シシィ様は望まない。それなのに、僕は何がしたいのだろう。
本当はその答えだって、ちゃんとわかっているくせに。
***
「アランくん、これをご覧よ」
ある日、僕はブリジッタ様のご亭主、ジョバンニ様に連れられてティアティラの実験場を訪れていた。広大な土地の大部分を占める発射台。その上にそびえ立つのは、途方もなく大きな宇宙船。いかつい金属で覆われた無骨な表面は、朝の光を受けて鈍く輝いている。
「これがもうじき、空を飛ぶんだ。君が昔生きていた時代にも、同じようなものはあったのかな」
ジョバンニ様は、例えるならば何ものをも受け容れてしまう水のような、柔らかい雰囲気の方だった。燃える火のようなブリジッタ様とは正反対な印象すら覚える。きっと真逆の性格がうまく釣り合って、互いが互いを信頼されているのだろう。
「アランくんは、もどかしいのかい?」
突然そのようなことを言われて、僕は面食らってしまった。もどかしい。その言葉は実際のところ、僕の気持ちを的確に言い表していたからだ。
「……なぜですか?」
「いや、何となくそんな気がしただけだよ。大切な人のために早く行動したい気持ちはよくわかるからね。僕もそうだよ……今からの作戦は、非常に危険が伴う。ブリジッタはこれまで一番前に立って、全力で走り続けてきた。そんな彼女を、僕は誇りに思う。けれど、同時にもっと自分を大切にして欲しいとも思うんだ。余計なお世話かもしれないけれどね」
もどかしい、そうだ。僕は一刻も早くシシィ様を取り戻したい。あの憎い神に復讐を遂げたい。僕は僕自身の望みを叶えることしか考えていないのだ。それが示すものは、つまり。
「本当はね、彼女には休んでいて欲しい。今、彼女は身重の身体を押して活動している。それが彼女の望みなのだから、僕は僕ができる最大限の手助けに徹するべきなんだ。わかっているんだよ……でも、心配なんだ。これは僕のエゴで、彼女の望みには沿わない……僕自身が不安だからって、彼女の意志を無視してはいけないとは思う。それは承知しているんだがね」
愚痴を言ってしまってすまないね、とジョバンニ様は言った。けれど、その言葉が僕の耳に届くことはなかった。
ああ、そうだ。すとん、と隙間に嵌まりこむように、僕はようやく自分自身のことがわかった。
そうだ。僕は、僕が一番大切だった。僕の望みを叶えたい。僕の意志を貫きとおしたい。僕の、僕の、僕の、そればかり。
僕は僕ばかりだった。シシィ様のため、姉さんのため……そんな大義名分を掲げていれば許されると思っていたけれど、全ては僕の望みのためだった。
「……そのお気持ちを、素直にお伝えしたらいいと思います。ブリジッタ様を気遣われるジョバンニ様の思いを、ちゃんと言葉でお伝えするんです。ジョバンニ様のお心は、きっとブリジッタ様に届きますよ」
そして、何よりも受け容れたくはなかったものは、こんな僕自身だ。吐き気がするほどに幼稚な、この僕だ。
僕は僕が手に入れたいものを願う。そのためならば、何を犠牲にしたって構わない。
僕は僕が憎く思うものを拒絶する。理不尽な神様が憎い。こんな悲しい世界はいらない。そして……姉さんと引き換えに平和を手にした、そんな人々が憎い。だから、壊し尽くしてしまおうと。僕の望みのために、全てを犠牲にしてしまおうと。
ああ……っは、ははははははは。全く、僕が何よりも醜くかった。無関係な人々に八つ当たりをして。僕を優先させるあまり、シシィ様が望まない世界にしてしまったかもしれない。
そうはならなくて本当によかったと。ブリジッタ様とミコ様は、そんな僕をとっくに見透かしていたのかもしれない。
「……後悔しないためにも、ちゃんとお伝えしてください」
こんな醜い僕で、シシィ様を迎えにいくわけにはいかない。そのことに気づかせてくださって、ありがとうございます。そんな感謝を込めて、振り絞るようにようやくそれだけ伝えた。このままでは、一番大切なものを見失ってしまうところだった。このままでは、後悔してしまうところだったと。
ああ……けれどもまだ、心の中は混沌だ。
***
そしてついにその日はやって来た。エフェソス家の正式な使いがやって来て、こう告げたのだ。
『エフェソス家現当主、ユーゴ様からの言伝です。エフェソスの鏡と遺物をお引き取りください、と』
聞けば、ルイ様は現在サルディス家を訪問中とのことで、家を留守にしている今が絶好の機会と早馬で使者を遣わしたのだそうだ。結局は説得することができなかったのかと複雑な感情が胸の内を一杯に覆ったが、僕は首を振ってその考えを追いやった。
これでいい。これが最善なのだ。最後にしっかりと結果を出すことで、ルイ様を納得させればよい。そのために僕は、僕がやれることをやるだけ。
エフェソス家へと向かうのは、ミコ様とジョバンニ様、そして僕。ジョバンニ様はどうやらブリジッタ様を説き伏せることに成功したようだ。よかった。心なしか、見送るブリジッタ様の表情も晴れやかだった。
格納庫に並んだ飛行機に、あの日のシシィ様を思い出す。空の中で、嬉しそうだったシシィ様。幸せそうだったシシィ様を。ああ、もうすぐです。必ず、取り戻してみせますから。
そうして再び空へと舞い上がった時だった。一瞬、格納庫の隅に、懐かしいものを見た気がした。そして飛行機はより高く昇ってゆき、それは見えなくなってしまった。
エフェソス家に着いた僕たちは、ユーゴ様とシャルロッテ様ご夫妻直々に迎え入れられた。そのことに一安心したけれど、心の底から僕らを歓迎するような雰囲気ではなかった。ご夫妻の表情は、どこか硬く強ばっていたのだ。
「最後にひとつ、お聞かせください」
ユーゴ様は僕の方を見てそう言った。ミコ様でもジョバンニ様でもなく、僕に向けて……この中で一番信用のならない、醜い心の僕に向けて。
「あなた方の進む先では、私たちの息子は……ニコラは、笑顔で過ごせますか」
それは厳しい目だった。一直線に僕を射貫き、僕の内側までも見極めんとするような……守るべき者がいる、そういう人の目だ。
「ええ。きっと、そうしてみせます」
その先のことは、きっと大丈夫。だって、ブリジッタ様が、ミコ様が、あんなにも真摯に考えていらっしゃるのだから。間近で見てきた僕は、そう断言できる。
僕にはできないけれど、大丈夫だ。全てが終わった先の未来は、きっと望んだとおりになる。
「わかりました。では、こちらに来てください」
そして遂に、目的とするエフェソスの鏡と遺物を得た。
遺物〝核〟……人間を容易く滅ぼす力をもつもの。そして、それを解き放つ鏡。
世界を滅ぼす〝神の罰〟。そんな脅威から無事に解放されたなら、僕らは望む世界を手にできるのか。
お願いだ、成功してくれ。そうでないと、シシィ様が帰ってくる世界を失ってしまう。
僕はぎゅっと目を閉じて、祈った。シシィ様の面影を瞼に浮かべて、シシィ様に祈った。
僕の祈りが通じたのかはわからない。〝罰〟を載せた宇宙船は、爆音と共に空へと昇り、弧を描いて消えてゆく。長く尾を引く流れ星みたいで、綺麗だった。
「……行ったか?」
「もう、見えませんね」
雲ひとつない青空の中に、針の先で突いたような小さな白い光。その眩しい光が消えてしまってから、僕は恐る恐る立ち上がった。
皆が息を呑んで待っている。守りたい人、大切な人を抱き締めて、それぞれに祈りを捧げている。
わかり合えないこともある。そして人は争い、傷つけ、新たな悲しみの連鎖を生む。
でも、人は学ぶ。何度も失敗を繰り返しながらも、意志を強く持って変わることができる。
――愛することを知った人は、何度だって変わることができるのだ。
「アランくん……頼んだよ」
皆が見ている。固唾を呑んで僕を見守っている。どうか、どうか。一縷の希望と、潰されそうな恐怖心と。それら全てが、僕の上に落ちてくる。
僕は変われただろうか。僕の深いところでは、まだ醜い僕がくすぶっているかもしれない。それでも、変わりたいと。変わろうと尽力できただろうか。
僕はゆっくりと息を吐いて、吐ききってしまってから深呼吸した。固く握り締めた拳を振り上げる。真っ直ぐに鏡を見据えたまま、僕は拳を振り下ろした。
そして――何も起こらなかった。
しばらくの間、誰もその場を動かなかった。微動だにせず、呼吸すら忘れてしまったかのように、ただただ割れた鏡を見つめていた。
そのうちに、どこからか幼い子の泣き声が聞こえてきた。か弱く、頼りなく、いじらしい泣き声……その声に人々は弾かれたように、呼吸を始めた。声を上げた。陽の下で立ち上がり、空を見上げた。荒れ果てた世界に歓声が充ちたのは、それから間もなくのことだった。
僕はその様子を、黙ったまま見つめていた。僕が壊してしまうところだったものを、じっと見つめていた。何だか力が抜けてしまって、何も考えられなかった。
僕は、未だ止まったままの僕の世界と、動き始めた世界の対比にめまいがしそうだった。そしてふと横を見た時、僕の意識は覚醒する。
それは既に確固たる現実として、僕の隣に立っていた。僕を横から覗きこんで、ぞっとするような声で耳に囁きかける。
――覚悟はできたか。
それはそう囁いて掻き消えた。僕が返事を伝える前に。
それは、僕の復讐。僕の願望。そして僕の懺悔。僕の役目はまだ終わらない。僕の隣には、大切な人が欠けたまま。
人々が作戦の成功に安堵する中、僕はひっそりと姿を消した。歓喜に沸いた世界を背に、ひとり静かに立ち去った。
***
〝行け、行け、心安らかに行きなさい。
力強くありなさい。見えざる御手の導きを〟
いつか本で読んだ言葉。誰の言葉だっただろうか。ふと、僕の脳裏に浮かんだ。僕に寄り添い、背中を押して、どこまでも導いてくれるように。
僕は今、空の中にいる。ティアティラの格納庫の隅で見つけた気球に乗って、誰にも言わずに空を目指した。
「……さようなら」
どんどん遠ざかってゆく地上を見下ろし、僕はひとり別れを告げる。さようなら、僕の幼く醜い心よ。さようなら、優しい人々にはあらん限りの幸福を。
決別。僕は、憎しみを置いてゆく。そんなことができるものかと、笑われたって構わない。大切なものだけを胸に、綺麗な僕だけで、シシィ様の元へ。
それは綺麗事かもしれない。それでも、僕は綺麗でありたかった。綺麗であろうとした。
――だって、昼の方が景色が鮮やかで綺麗なんですもの。
いつかのシシィ様の言葉が思い起こされる。そうですね、シシィ様。世界はこんなにも美しい。この世界をもう一度、あなた様に見せて差し上げたい。陽の光を受けてきらめく海を、見惚れるほどに素晴らしい青空を。そして、春になれば、萌える緑ととりどりの色に染まる山を。あなたが愛した世界の中に、もう一度、あなたを。
「シシィ様、必ず……」
空の彼方に、輝く太陽。僕は手を伸ばして、誓った。今度こそは、届きますように。
僕を綺麗でいさせてくれた、僕の大切なあの人に。
その時だった。眩い光と轟音が、遥か天から響き渡った。雷が落ちてくる。僕目がけて、一直線に。あの時のように、雷が僕を貫く。
空が鳴る、神鳴……神の怒りに、僕の身体は射抜かれる。
壊れる。僕を運ぶ気球が、バラバラになって燃えてゆく。
何もない空へと投げ出され、僕の身体が落ちてゆく。落ちる、堕ちる……果てしなく、どこまでも。
ああ、まただと、絶望感が僕を呑みこんだ。ああ。また、届かないのか。耐え難い現実に、僕は精一杯抗う。
何度も何度も、虚空を掴む。無駄だと知っていても、声の限りに叫んでみる。
届かないのか、僕は、またしても……
届いてくれ。この言葉だけでも、この心だけでも。
届け、届け、届いてくれ。風に乗せて、僕の言葉を。空の果てまで飛ばしてくれ。
せめて魂だけでもいい。僕のありのままの声を、最期に、どうか、あの人に――
その時だった。ものすごい勢いで落下を続ける僕の身体が、ふわり。柔らかな何かに受け止められた。
叩きつけられることも、焼け焦げることもなく。優しい手の中に包まれるように。
「その願い、聞き届けた」
どこからともなく響いた声の裏側で、何かが壊れる音がした。
そして――僕の意識はそこで途絶えた。
本文中に新島襄の言葉を引用しました
お読みいただきましてありがとうございます
楽しんでいただけましたら幸いです