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Dear Lucifer  作者: 桃原カナイ
第二章.そして彼は堕ちて行った
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七.破戒

お越しいただきありがとうございます!



 人間の力では鏡を割ることはできない。そのはずだった。

 砕け散ったティアティラの鏡を、僕は呆然と眺めていた。僕だけじゃない。ブリジッタ様も、ミコ様も……その場にいた全員が、この信じ難い光景に目を見開いて見入っていた。



 なぜ、とある瞳が問う。こんなことは有り得ない、と。

 なぜ、と別の瞳が問う。訝しげな目で僕を見つめて。



 やめてくれ。どうかそんな目で僕を見ないで。一番驚いているのは僕なのだから。無数の赤い筋が走り、きらきら光る細かな破片が


 次の瞬間、恐ろしいほどの力で、封印から解き放たれた(わざわい)が襲い掛かった。ティアティラ家が封じていた〝御使いの罰〟が、無慈悲な神の鉄槌の如く振り下ろされる。


 初めに、地を踏みしめる足が易々と放り上げられた。立っていられないほどの衝撃。割れた理由を考える暇もなく、僕たちは冷たい床に投げ出された。

 大地が唸る。大地が揺れる。地上のあらゆるものを破壊せんと、天変地異が襲い来る。ドオン、ドオンと突き上げるように、大地がわななく。僕らは地に伏せ、ただただこの揺れが収まるのを待つことしかできなかった。頭を抱え、小さく小さく丸くなって。潜り込むような物陰はこの部屋にはない。埃で霞んだ視界の隅で、シユ様とシア様が身を寄せ合って震えているのが見えた。突然のことにわけもわからず、縮こまってむせび泣いて。心細げなふたりの姿に、いつかの僕と姉さんの姿が思い出された。思いがけず目頭が熱くなってくる。守らなければ。手を差し伸べて大丈夫ですと、声をかけて差し上げなければ。一番近くにいるのは僕だ。僕が、守らなければ。


 上下に大きく揺さぶられながら、僕は精一杯の力を振り絞ってシユ様とシア様に這い寄った。座り込んだまま動けないふたりを伏せさせて、その上から覆い被さった。よく頑張りましたね、大丈夫です。もう少しですから。そう声を掛けて、ぎゅっときつく抱き締めた。まるで、僕のしでかしたことへの罪滅ぼしのように。



 これは怒りだ。神の怒りが大地に現れたものなのだ。


 壁がぼろぼろと端から崩れてゆく。部屋中がまるで悲鳴を上げるかのように軋んでいた。揺れる、揺れる……いい加減眼が回りそうだ。早く収まってくれ。そう祈ることしかできなかった。否、ちょっと待ってくれ。祈る……僕は、一体誰に祈っている? 僕はどこまでも中途半端な自分自身に吐き気すら覚えていた。


 揺れは永遠に収まらないかのようにすら思えた。実際のところは数十秒程度だったのだが。激しい揺れは徐々に疲労を覚えていったようだった。そしてそのうちに、消え入るように静まったのだった。



「ゲホっ、ガハっ……みんな大丈夫かい?」



 舞い上がった砂埃に咳き込みながら、ブリジッタ様が皆の安否を確認する。幸い、この部屋には倒れてくるようなものはなかった。天井もなんとか崩れずに持ちこたえた。そこかしこにヒビが見受けられたが、僕らはみんな、傷ひとつなく無事だった。



「ああ、私は無事だよ」


「私も大丈夫です。何ともありません」



 ミコ様とオスカーさんがそう返事をした。シユ様とシア様も、すすり泣きを堪えながらも無事であることをしっかり伝えた。



「……とんでもないことになってしまったね」



 ブリジッタ様は努めて明るく振る舞おうと、軽口めいた口調でそう言った。皆の視線がこちらに向けられるのをひしひしと感じながら、僕は下を向いてやり過ごした。血の滲む右手を握ったり開いたりを何度も繰り返して。


 人間の力では鏡を割ることはできない。当たり前だと思っていたその言葉が、頭の中で何度も反響する。人間の力では鏡を割ることはできない。それなのに、なぜ。


 ぐるぐると回る思考の底に、かすかな心当たりを見つけた。光の中に呑みこまれていったシシィ様に手を伸ばし、少しのところで届かなかった光景が蘇る。苦々しい思いで、僕は自分の行動を反芻する。ずきずきと痛む心はまるで血を流しているようで、下の奥にかすかな血の味すら感じた。シシィ様に届かなかった僕の手は、光の中で空を掴んだ。虚しく、何もない空を掴んだはずだった。その中に感じた、かすかな感覚。


 あの時、僕は何を掴んだ? 気持ちの悪い感覚。何もないのに、ドクドクと脈打つ感覚。力いっぱい握り締めすぎたのかもしれない。けれど、違う。そんな気がする。悔しい、憎い。そんな感情の奥で、ひっそりと息づいていたものが確かにあった。


 許さない……僕は、許さない……

 やってやる……僕は、やり遂げてみせる……必ず、やり遂げるんだ。


 大切な人ばかり奪い去ってゆく、〝神様〟を許さない。僕は、そう誓った。誓ったのだ。

 同時に僕の手に降りてきた、あの感覚。



 もしもあの時、僕の心が〝彼女〟に届いていたのなら。



 ――人間の力では鏡を割ることはできない。



 シシィ様が予想していたとおり、〝彼女〟だけが、鏡を割ることが可能だったのなら。



 ――僕は、やってもいいの? 姉さん……

 


 人間には到達できない力を得てしまったのなら。僕は、さしずめ化け物か。化け物……それでも構わない。

 神に復讐を誓う以上、僕はもう人間ではいられないのだから。




***




 僕はふらふらと地上に這い出ていた。自身のしでかしたことの重大さを、この目に焼きつけておくために。

 人間としての心に、しっかりと刻みつけるために。



 もうもうと立ちこめる土埃の中、浮かび上がった影は廃墟のようにおぼろげだった。ティアティラが治める第五都市アイルは、無残にも破壊し尽くされていた。僕は亡霊のようにゆらゆらと、道なき道を当てもなく歩いて行った。倒壊した建物も、ところどころで立ち上る火の手も、すれ違いざまに聞こえる泣き声も、僕の足を止めることはない。この地で起きたことの全てを目にするまでは、僕の足は止まらない。僕の中で何かが引き裂かれようとも、何かが息絶えることになろうとも。



「そんな……千年王国は〝至高の世界〟ではなかったのか?」



 誰かが漏らした絶望の声。そう、彼らは何も知らないのだ。国王陛下のことも、今何が起こったのかも、これから僕らが何をしようとしているのかも。

 荒廃した街に、疲弊しきった人々の姿。どこからか領主のブリジッタ様を恨む声が聞こえてきた。



「あの方は無鉄砲過ぎる。神の怒りを買ったのかもしれない」



 僕はかける言葉が見つからなかった。下を向いて、唇を噛む。足早に、その場から離れてゆく。

 ごめんなさい。ごめんなさい。心の中で、数え切れないほど繰り返した。

 僕がやったことの重さを、罪の重さを噛み締める。刻みつける。今この地に渦巻く人々の怒りが、悲しみが、憎しみが、僕の中から一生消えることのないように。


 ごめんなさい。苦しい思いをさせてしまってごめんなさい。理不尽を押しつけて、ごめんなさい。

 僕は願いを叶えるために、何もかもを犠牲にする心づもりだった。その犠牲が、これなのだ。



 僕も同じ。同じなのだ。身を焦がすほどに憎い存在と、同じことをしているのだと。



 それでも、僕はやらなくちゃ。もう足を止めることは許されない。中途半端は許されない。今度こそ、今度こそは……




***




 混乱が収まらないうちから、ブリジッタ様は行動を始めていた。まずは、傷つき行き場を失った人々のために避難所を設けたのだ。幸いにもティアティラのお屋敷には大きく損傷した箇所はなかったため、開いている部屋は全て開放することとなった。ブリジッタ様とミコ様は戦陣を切って、押し寄せる人々の世話をしている。悲しみに暮れた人にも口汚く罵る人にも、等しく真摯な態度で接している。僕はあんな風にできるだろうか。


 傷ついた人の手当をしているのはオスカーさんだ。そういえば、ディアナさんの消息は未だにわかっていない。恋人の消息が不明なまま、オスカーさんは粛々と目の前のなすべきことだけに集中しているのだ。僕にはできなかった。自らの気持ちを押し殺して、堪え忍ぶことなどできなかった。


 シユ様とシア様は、自ら手伝いを買って出た。人々の間を縫って、今自分たちにできることをしようと奔走している。家族を亡くし、目の前で親しいシシィ様を失ったばかりだというのに。悲しみを忘れようとするかのように、くるくると休みなく働いている。



「なあアラン。シシィはちゃんと帰ってくるよな?」

「ねえアラン。シシィはちゃんと帰ってくるよね?」



 振り絞るような声が重なり合ってそう問われた時、僕は初めて力強く頷けた。

 はい、きっと。僕は必ず、シシィ様を取り戻してみせます、と。


 そう自信をもって言えたのは、綿密に織られたブリジッタ様とミコ様の計画が、僕に勇気を与えてくれたからだ。



「これからの計画を話そう」



 夜半に声を掛けられて、僕はブリジッタ様とミコ様の会議に参加することになった。ろうそくの心もとない灯りの下では、揺れる影が普段よりも大きく見える。怪物のような恐ろしさを伴って。



「前に言ったとおり、封印の鏡は全て割る。ただ割れるのを待つことしかできなかったけれど、今は違う。そうなんだよね、アランくん」



 ティアティラの鏡が割れてしまった後、どれだけ殴ってもフィラデルフィアの鏡を割ることはできなかった。けれども僕は、そういうものだと。今はまだ(・・)その時ではないのだろうと、確信をもってそう言えた。ならば、他の鏡を全て破壊してしまおう。そして、僕には遂行する自信がある……根拠を問われると困ってしまうけれど。



「じゃあ落ち着き次第、ミコさんの……スミルナ家の鏡を割って欲しい。〝混沌〟の禍が解放されてしまうと、我々は今後一切転送台を使った移動ができなくなってしまう。そう、だからエフェソス家には自力で向かわなければならないけどね」



 スミルナの鏡を割った後は、七つ目の禍を封じるエフェソス家の鏡を割る。順番どおり、確実に。できる、できる……僕にはできる。



「ただ、エフェソス家が封じている禍は〝神の罰〟。これは、エフェソスの遺物〝(アポカリプス)〟……かつて人類を滅ぼしかけた、先史人類の負の遺産を発動させる引き金となります。そんなものが解放されてしまったら、間違いなく我々は壊滅的な被害を被ることになりましょう。そのために使うのが、我がスミルナとティアティラが総力の結晶……宇宙船(ロケット)なのです」



 最悪の事態を避けるために、おふたりが長い時間をかけて辿りついたのがこの計画だ。ここに思いもかけず降ってきた僕が加わって、この計画はさらに頑強なものとなる。



「鏡が割れると我々が滅びる。ならば禍が解放される前に、その滅びの原因となるものをこの地から消し去ってしまいましょう」



 これは失敗することは許されない。僕は(それ)がどれほど恐ろしいものかを知っている(・・・・・)。たとえ(そら)に向けて放っても、その過程で爆発四散してしまえば計画は全て終わりだ。慎重に、かつ、迅速に。天に向けて放った矢が、地に堕ちて自らを貫く。そんな昔話の繰り返しは、決して起きることのないように。



「この計画が成功した後、エフェソスの鏡を割ってしまおう。そうすれば、我々は勝利(チェックメイト)に近づける。その後は……あまり使いたくない言葉だけど、『運を天に任せる』だね」



 この国に生きる全ての人の命運を賭けたこの計画が、吉と出るか凶と出るか。僕の復讐と神の意志と、果たしてどちらが強いのか。

 今日、僕は神の怒りを目の当たりにした。嘆き苦しむ人々の声を直接聞いた。それでも引かない。僕は、負けない。



「文字通り、最後の戦いだよ。覚悟は、できてるかい?」



 僕はゆっくりと、ひとつ大きく頷いた。そして、渾身の力を拳に乗せて、スミルナの鏡に振り下ろした。

 がしゃん、と嬌声のような高音を響かせて、目論見どおりに砕け散る鏡。ほら、僕の思いどおり。今の僕ならこのくらい、易々とできてしまうのだ。



 さあ、次に進もう。僕は顔を上げて前を見た。見据える先には、ただひとり。全てを引き換えにしても構わない。

 この世の全てから憎まれようと、構わない。そんな覚悟くらい、とうの昔にできている――



お読みいただきましてありがとうございました

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