一.千年王国
穏やかな昼下がり。こんな日はさっさと仕事を片付けて、ゆったりとした気持ちでティータイムを迎えたいものだ。けれども残念、今日の僕は理想のアフタヌーンを満喫できないだろう。きっとそうだ。そんな予感がする。何故ならば今日はシシィ様が――
「アラン!!」
ほらね。悲しいかな、こういう時の僕の勘は嫌になるほど当たる。
「お嬢様、こんにちは。今日はいいお天気ですよ。こんな日はゆっくりお茶でも飲みたい気分ですね」
とびきりの爽やか笑顔で、とりあえずは僕自身の願望を述べてみた。大方悪あがきに終わってしまいそうだが。
昨日の夜から部屋の奥に篭もりきりだったシシィ様。彼女が怪しい動きをするのは、決まって〝工作〟をしている時だ。そして外へ出てきたということは、ブツが完成したということだろう。
「ええそうね。今日は本当にいい天気だわ。だからアラン、今から私に付き合ってくださいね。あなたの午後の予定は暇にしておいて差し上げましたから」
「やっぱり。そんなことだと思いましたよ……」
「遂に完成しましたの、イカロス四号機が」
シシィ様は得意気に鼻を鳴らした。
四号機と聞いて、嫌な思い出が蘇る。あれは、シシィ様がイカロス初号機を完成させた数年前のことだ。
***
簡単に言うと、イカロス初号機は車輪を回転させることで勢いをつけ、上部に取り付けた布で空気を受け止めて滑空する装置だった。そして、結果は悲惨なものだった。
シシィ様は見事に崖から墜落し、お召し物はズタボロ。〝神のご加護〟で怪我は瞬時に回復できても、お召し物は元に戻らない。目も当てられない格好のシシィ様と、誰にも見られずに屋敷まで戻るのは大層骨の折れる仕事だった。
「ごめんなさい。本当はこんなことをしたがる私がいけないのに、いつもいつもあなたを巻き込んでしまって……」
しおらしく目を伏せるシシィ様。足どりがゆっくりと重いのは、自分のしていることの罪深さを充分に承知しているからだろう。
空を飛ぶことは異端なこと。神様とその御使いが坐す空に近づくなど、人間には許されない。けれどもシシィ様は、空に惹かれてやまないのだという。
〝あそこに行きたいの。お母様に、もう一度会いたい〟
そう言ってシシィ様が泣いたのは、いつのことだったろう。
あの日の彼女の幼い涙を、母親に会いたいと泣きじゃくる彼女を、僕は忘れることができない。置いて行かれる寂しさは、痛いほどに知っているから。
だから僕は、シシィ様の〝悪事〟にこっそりと協力し続けている。
「でも、これでひとつ掴めた気がしますわ。次はもっと上手くやれるはずよ。きっと、風を受ける布の角度が悪かったのよ」
しおらしく反省したその舌の根も乾かぬうちに、次の目標に燃えるシシィ様。そもそも〝初号機〟とかいう、後に改良が加わってゆくことが容易に予想できる名前を付けていた時点で疑ってかかるべきだったのだ。
わざとらしく溜息を吐く。溜息を吐きつつも、僕はどこか温かい気持ちになる。心配事は多々あれど、シシィ様がのびのびとしている様子は付き人冥利に尽きる
これが、僕が仕えるシシィ様。天衣無縫な愛すべきシシィお嬢様。
***
「で、今日は何をしでかしてくれるんです? 今回は爆発なんて御免ですからね」
「失礼ですね。今日こそちゃんと成功させますから」
同じ台詞を聞くのは何度目だろう。そろそろその言葉を実現させて欲しいものだ。
「はいはいシシィ様。〝神のご加護〟があるからって、無茶しないでくださいよ」
「怪我してもすぐに治るんですから、いいじゃありませんか。本当に〝神のご加護〟ってありがたいものですね。神様神様、素晴らしいお恵みに感謝いたします」
「……仮にも聖騎士家フィラデルフィアのお嬢様なんですからね、シシィ様は。神様のことを軽々しく口になさるのはいかがなものかと」
「あら、たとえ小さなことでも感謝を忘れないことって大切じゃなくて? 神様が与えてくださった〝千年王国〟へ感謝を捧げることこそ、聖騎士家の娘らしいことだと思いますが?」
聖騎士家の中でも特にフィラデルフィアの娘だからこそ、もう少しおしとやかであって欲しいとも思う。けれどもこれは不毛な願いだから、僕は黙って何度目かの溜息を吐く。
〝千年王国〟。それは、神様から与えられた〝約束された繁栄〟。
大昔の人間は、怠惰で、傲慢で、強欲で、醜かったという。
そんな人間に神様はお怒りになり、罰を下した。
天変地異が全てを破壊し、大洪水が全てを洗い流した。
まっさらになった世界で、人間は己の罪深さを思い知った。
深く恥じ入り、悔い改めることで、神様に許しを乞うたのだ。
神様への絶対的な遵従。
これと引き換えに人間は〝千年王国〟を与えられた。
千年王国に在る限り、人間は理不尽な死、病、飢え、争い……あらゆる醜いものから解放されるのだ。
全てが満たされた至高の世界を、人々は口を揃えて褒め称える。
「今回はね、鳥の翼と胴体の比率を研究してみましたの。無駄な力を受けないようにして、あとは全体的に軽量化を心掛けました。とりあえずは飛翔ではなく、上手に滑空させることを目標としますね」
そんな、全てが満たされた世界で、満たされることのないシシィ様。これがフィラデルフィアにかけられた〝呪い〟なのだろうか。時折、言いようのない不安に駆られる時がある。
「アラン、見ていてくださいね。きっと、上手に着地してみせますから」
シシィ様はそう言うと、いつもの崖の上へと走っていった。今回の〝イカロス四号機〟は随分小さいものらしい。ずっとひとりで背負って運んだのは、少しでも僕に負担をかけまいとするためか。それとも、軽量化をアピールするためか。シシィ様のことだから、そのどちらも当てはまる気がする。
イカロス四号機は、折り畳みの翼を備えているらしい。広げると随分大きな翼が左右に広がった。翼と翼の間には把手が付いていて、今までで一番簡素な形状をしている。把手の部分にぶら下がるのだろうか。身を覆うものが何もない分、余計にはらはらしてしまう。
「行きますよー!!」
把手を握り締めて、シシィ様は崖を蹴った。
途端、鋭い突風がシシィ様に襲いかかった。
何事もなければ、上手く風に乗ることができたのかもしれない。だが、運悪く吹いた一陣の突風は、シシィ様とイカロス四号機をもみくちゃに巻き上げた。徹底した軽量化が仇となってしまったらしい。翼の部分はバラバラになり、シシィ様は、真っ逆さまに落ちていった。
「――シ、シシィ様!!」
慌てて駆け寄った先には、地に横たわるシシィ様。頭を強く打ったのか、目を閉じたまま微動だにしない。
大丈夫。僕たち人間は〝神のご加護〟の恩恵を受けている。このくらいどうってことない。こんなことで死ぬことはない……これが、寿命でない限りは。
「目を開けてください……シシィ様、シシィ様!」
大丈夫、大丈夫。寿命は本人がしっかり把握しているものだから。シシィ様の寿命はまだまだ先……シシィ様がおっしゃった期日が、嘘偽りのないものであれば。
〝お母様に、もう一度会いたい〟
こんな時に限って、あの日のシシィ様の声が脳裏に谺響する。やめろ、やめてくれ。大丈夫だ。シシィ様は、必ず目を覚ます。
震える手でシシィ様の脈を取った。とくん、とくん……か細いながらもシシィ様の心臓は、しっかりと脈を打っている。
ほっとしたと同時に、僕は足元から崩れ落ちた。よかった、今回は置いて行かれなかった。情けないことに、真っ先にそう思ってしまった。もう、何も考えられない。
僕には待つことしかできない。シシィ様の目が覚めることを、〝神のご加護〟を、信じて待つことしかできないのだ。
そんな自分が、情けない。